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10-8 最悪の保証


■境界堂・深夜


カラン。

扉が開く。


「ただいまー……」


ファニーの声が、いつもより疲れている。

シエルも静かに続く。


礼拝堂の残滓、張り詰めた神経、金の瞳。

全部まだ、身体の奥に残っている。


そして、ソファ。

待ち構えていた影が、勢いよく立ち上がる。


「お帰りなさいませ皆さん!!」


カノンの目がキラキラしている。

嫌な予感しかしない。


「さあ!!」


ばぁん!!

地下ラボへの扉を開く。


「男性体に戻りますか!?」

「テンションが軽い!!」

「何故そんなに楽しそうなのですか」


「改良型ですから!」

「そこ、ちょっと不安になる言い方だねぇ」



■地下ラボ


相変わらず怪しい。妙に光る機械。無意味に回転する部品。謎のモニター。


そして中央のハート型台座。けばけばしいピンク色。


「やっぱりこの見た目なんだ……」

「気分が大事なんです!」

「理解を拒否します」


マスターは台座へ乗る。

今はまだ女性体。長い榛色の髪、細い肩、タイトスカート。

でも、瞳の奥だけが少し疲れていた。


カノン、装置を操作。


「では戻しますね!通常であれば激痛と共に骨格再編成が発生するので構えてください!」

「通常って何!?」

「いきます!」


バチバチッ!!


光。装置起動。

風が巻く。髪が浮く。身体の輪郭が、ゆっくり揺れる。


そして。


――すっ。


終わる。


「……え?」

「……痛覚反応なし?」


マスターは元の姿。

短い髪、男性の骨格、いつもの服。普通に立っている。


「……うん?」


自分の手を見る。肩を回す。


「痛くないねぇ」


カノン、ぱちぱち瞬き。


「え?」


装置を見る。

もう一度見る。


「はえ?」

「カノンがバグった」


シエル、静かにマスターを見る。


「……位相適応」

「なにそれ」

「身体定義への抵抗値が減っています」


低い声。


「“どちらでも成立する”状態に近づいている」


空気が少し静かになる。

マスターだけが、のんびりしている。


「便利で済ませる領域ではありません」

「便利というより……変わった、かなぁ」


カノンが急に興奮し始める。


「えっ、待ってください!つまり、変換工程を世界側が補完した……!?位相移行時の負荷が消失!?えっ、これ大発見では!?」

「研究者モード入った!!」


ぐわっと距離を詰める。


「マスターさん!!もう一回変身しませんか!?」

「嫌だよ」


即答。


「珍しく早い」

「学習しましたね」


マスターはソファへ倒れ込む。

深く息を吐く。


「……疲れたねぇ」


その声はいつも通り。

でも、ほんの少しだけぎこちなかった。



■境界堂・翌朝


ファニーがソファへ倒れ込む。


「つっっっっっかれたァ~~~~……」


シエルも壁へ寄りかかる。


「精神疲労が大きすぎます」


その横。マスターは普通に立っている。

黒焦げだった髪も戻っている。服も戻っている。男の姿だ。


ただ、瞳だけが薄い緑。静かな色。

マスターは湯呑みを持つ。


「お茶、淹れたよ」

「ありがとー……」


熱いお茶を受け取る。

でも、マスターの持ち方にやけに無駄がない。

湯気を避ける角度、重心、歩幅。全部が綺麗すぎる。


シエル、じっと観察。


「……まだ残っていますね」

「んー?」

「補正です」

「そうかもねぇ」


座る。音が小さい。椅子がほとんど鳴らない。


「ねえそれ、絶対前より動き上手くなってるよね」

「効率は良いねぇ」


ファニーの眉がぴくっと動く。


「便利とかじゃなくて?」

「便利は主観だから」


さらり。

空気が少し冷える。

シエルは静かに整理する。


「身体制御、情報処理、感情ノイズ低減……完全に最適化方向です」


マスターはお茶を飲む。

熱い。

でも、反応が薄い。


「感じてはいるよ」

「何を?」

「温度」


一拍。


「高い」


ファニーが顔を覆う。


「うわぁ~~~~……」


マスターは不思議そうに首を傾げる。


「変かな」

「熱いではなく、高いと表現した時点でかなり危険です」


外はしとしとと雨が降っている。

時計、紙の擦れる音、全部が妙に鮮明。


マスターはふと窓を見る。

雨粒が滑っていく。


「……綺麗だねぇ」

「お」


少し期待した声。

だが。


「規則性がある」

「惜しい!!」


瞬きをする。


「惜しい?」

「感想が数学なんだって!!」


シエル、小さく息を吐く。


「感情ラベルの出力優先度が低下しています」

「でも、不快ではないよ」

「それが問題なんだよなぁ……」


静けさ。


その時、マスターの視線がテーブルのパンケーキへ向く。朝食後、ファニーが残していた一枚。


「……形が綺麗だね」


ファニー、ぴたりと止まる。


「え」

「均一。焼き色も安定してる。技術的完成度が高い」

「ダメだこの人!!味覚が工業検品になってる!!」


マスターは少し考える。


「美味しい、とは思ってるよ?」


ファニー、がばっと起きる。


「ほんとに!?」

「糖分と油分の配合が快適」

「違うそうじゃない」


シエルはこめかみを押さえる。


「深刻ですね……」


マスター、静かに首を傾げる。


「でも、前より世界は見やすいよ」


その言葉に空気が止まる。


「人の動きも、考えも、空気の流れも」


窓の外を見る。


「“次”が予測しやすい」

「……やはり危険です」


マスターは視線だけ向ける。


「そう?」

「はい。その先は、個人が薄れます」


ファニーはそっとマスターの隣へ座る。

ぎゅっと袖を掴む。


「ねえ」

「ん?」

「私が今こうしてるの、どう思う?」


マスターは視線を落とす。

触覚、温度、圧力。

処理。

答え。


「……安心、に近い?」


ちゃんと迷った。

ちゃんと探した。


「……!」

「感情参照を行いましたか」


マスターは少し驚いた顔。


「……ああ、本当だ。今、“考えて”答えたねぇ」


その声に、すこしだけいつもの温度が混じる。


「よし。人間側残ってる」


マスターは困ったように笑う。

その笑顔はまだ、少しだけ左右がズレていた。


ファニーは空になった湯呑みを掲げる。


「ごちそうさま!美味しかった!」

「うん」


マスターは静かに頷く。

それだけ。

ファニーが瞬きをする。


「……終わり?」

「終わり?」

「いつもなら『口に合って良かったぁ』とか言うじゃん」


マスターは少し考え込む。


「……そうだった?」

「うん」


少し長い沈黙。


「美味しいって言ってもらえたなら、嬉しい……」


言葉を探す。


「……はず」


最後だけ、小さく迷った。

ファニーは思わず目を逸らす。


「その『はず』が、一番怖いんだけど」


シエルは静かに頷く。


「感情を理解しているのではなく、記憶から参照しています」


礼拝堂よりも静かな空気が流れた。




■境界堂・夕方


やけにゆっくりと玄関の扉が開く。


「……来た」

「はい。原因です」


入ってきたトルク。足取りが軽い。紙袋の奥で何かがギラリと反射する。


「アハっ!アハハハ!素晴らしい!実に素晴らしいですネ!」


両手を広げる。


「まさか初回運用で“上位位相参照”まで到達するとは!」

「感想が研究者じゃなくて事故現場の野次馬なんだけど!?」


トルク、気にしない。

視線はまっすぐ、マスターの耳元。カフスへ。


「見せてください見せてください!反応ログ!内部焼損!位相ズレ!ああ、いい……!」

「僕の心配は?」

「後です!」

「順位低いねぇ」


シエルの冷たい目。


「事前説明を要求します」


トルク、きょとん。


「しましたよ?」

「していません」

「安全です、とは言いました」

「雑ゥ!!」


トルクは嬉しそうに指を鳴らす。


「ですが結果的には成功です!“金”を見ても壊れなかった!ちゃんと“人間側”へ引き戻された!」


マスターは首を傾げる。


「その代わり、だいぶ削れた感じはあるけどねぇ」


一瞬。

空気が静かになる。


「……感情振幅の減衰」


トルクの満面の笑み。


「ええ!そこです!」


紙袋から端末を取り出す。

ぱちぱちと投影される波形。


「通常、人間が上位位相へ接触した場合、自己定義が崩壊します。なので固定が必要になる。削るんです。均すんです。ノイズを減らすんです」


「そのノイズって言い方やめて」

「感情ですヨ?」


さらり。


「上位位相から見れば、感情は個体差です。揺らぎです。不安定要因です。だから固定時には、多少丸める必要がある」

「……つまり、人間味を代価に安定化した」

「そうとも言います!」

「言い方ァ!!」


マスター、ふと自分の指を見る。

握る。開く。


「……確かに、前より色々静かだねぇ」


その言い方が、もう怖い。

ファニーがすぐ横へ移動し、マスターの腕を掴む。


「ねえ。私のこと分かる?」

「分かるよ」

「どう思う?」


間。

マスター、考える。


「……よく喋る」

「うわぁ!!」

「定性的感情評価が抜け落ちていますね」


トルクは目を輝かせる。


「アハっ!良いデータです!」

「良くない!!」


シエルが低く問う。


「戻せるんですか」

「完全には難しいですネ」


空気が止まる。

でも、にやり。


「ただ、“揺らぎ”を残すことは出来ます」


工具、細い端子、小さな調整機をカフスへ接続。


「本来なら完全固定の予定でしたが。マスターさんは、“上”へ行きすぎる。なので、逆に少し人間ノイズを残した方が安定する」

「人を変な調整の仕方しないで」

「人間は最初から変ですヨ?」

「あなたが言うと説得力がありますね」


カチ。

カフスが小さく光る。


緑。今度は少し柔らかい色。


マスターが瞬きを一つ。

そして。


「あ」

「なに!?」

「……さっきのパンケーキ、美味しそうだったねぇ」

「おっっっそ!!」


でも、ちょっとだけ嬉しそう。


「感情ラベル回復。軽度成功です」

「アハ!良いですネ!完全合理より、少し壊れてる方が人間らしい!」

「その笑い方やめて!?フラグの立て方が芸術点高すぎるって!!」

「……最悪条件の提示。しかも楽しそうに言うタイプ。非常に厄介です」


トルクはメンテナンスを終え、扉へ向かう。

そして、ふと止まる。


「あ、そう言えば」


嫌な間。


振り返る。笑顔。


「人間側に固定するため、一ヶ月ほど外せないように設定しました」

「……それ今言うの!?」

「完全な事後報告ですね」

「今さら外せないって聞かされるの、わりと理不尽だねぇ」


トルク、指を立てる。


「もし、その期間中に、外れる、壊れる、過負荷を受ける、などが発生した場合」


一拍。


「アハ」


空気が冷える。


「最後まで言わないタイプの怖いやつ!!」

「……固定解除時、“上位位相再接続”の可能性」

「そのとおり!」


嬉しそう。


「一度“金”を見た個体は、完全には忘れませんかラ!」


マスター、ぽつり。


「なるほどねぇ。次は、もっと深く落ちるかもしれないんだ」

「はい!」

「はいじゃない!!」


見えないタイマーだけが、静かに動き始める。

トルク、最後にカフスを軽く叩く。


『安定化維持モード、正常』


自分の声。


「やっぱお前かーーー!!」


トルクは満足げに笑う。


「アハハ!また異常が出たら呼んでください!喜んで来ますネ!」

「来てほしくない時ほど来るタイプですね」


カラン。

扉が閉まる。


静寂。


そして残ったのは、“壊した瞬間、戻れないかもしれない”という、最悪の保証だけだった。


マスター「……あれ?舌、やけどしてる」

ファニー「熱いお茶、グビグビ飲んでたからね!」

シエル「マスターは、やはり猫舌だったのですね」

マスター「うわぁ……ヒリヒリするよぉ」

ファニー「感情は削れても、猫舌は削れなかったかぁ」

マスター「そこは削ってても良かったのに」

シエル「猫舌を含めてマスターです」

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