10-7 神様の瞳
■地下礼拝堂・入口
夜の鐘が鳴る。
昼より深く、重い音が地下へ沈んでいく。
白い蝋燭が並ぶ階段を、生徒たちが静かに降りていく。
誰一人、歩調を乱さない。
「……揃いすぎてて怖いんだけど」
「呼吸まで同期しています」
「綺麗だねぇ」
「今その感想やめて」
その時、司祭が姿を現した。
「ようこそ、夜の礼拝へ」
穏やかな笑み。
視線が三人を順に見て、マスターで止まる。
「……随分、馴染みが早いですね」
「適応力は高い方なので」
「素晴らしいことです」
司祭が微笑む。
その瞬間、周囲の生徒たちまで同じタイミングで頷いた。
「うわぁ……」
「声を抑えてください」
司祭が地下を示す。
「どうぞ。"より良い自分"へ」
三人は階段を降りる。
一段。
また一段。
空気が変わる。冷たい。
それなのに、不思議と心が静まっていく。
「……ここ、考えなくて済みそう」
「精神誘導です」
地下礼拝堂。
無数の蝋燭。
巨大なステンドグラス。
そして祭壇中央。
白布を掛けられた何か。輪郭が定まらない。
マスターだけが見抜く。
「……祈りの塊だ」
礼拝堂が静まり返る。
司祭がゆっくり微笑んだ。
「分かるのですか?」
「あ、うん。"良い子になりたい"が積もってる」
「マスター。発言は控えてください」
「なんか今、完全に目を付けられたよね」
奥から声がした。
「あら、先生」
老シスターだった。
「こんばんは。イヤーカフは外したままなのですね」
「返してもらえてないだけです」
「規律は、人を良くしますから」
その言葉と同時に、礼拝堂全体が、どくりと脈打った。
マスターは耳へ触れる。
空っぽ。
《もっと良く》
《もっと正しく》
《もっと綺麗に》
声が、直接頭へ流れ込む。
ファニーが息を呑む。
シエルが構える。
マスターだけが静かに目を閉じた。
「……なるほどねぇ」
司祭が祈りを始める。
生徒たちは一斉に跪く。
祈りの言葉、呼吸、視線、全部が揃う。
司祭は穏やかに続ける。
「良き祈りは、不要な迷いを削ぎ落とします」
白布の“何か”が、脈打つ。
ぐちゅ。
肉のような音。
「今の聞いた!?」
周囲の生徒は無反応。
笑顔のまま祈っている。
その時、最前列の生徒が立ち上がる。
ふらりと、夢遊病みたいに白布へ歩いていく。
「祝福を」
生徒は笑う。幸せそうに。
「はい」
白布が、開く。
そこにあるのは、無数の顔。
笑顔。祈り。涙。
全部混ざった、“聖女”。
そして中心に、ぽっかり開いた口。
「……は?」
生徒がためらいなくそこへ身を預ける。
ぱくり。
音だけは、やけに軽かった。
誰も悲鳴を上げない。誰も逃げない。
司祭は微笑み、生徒たちは祈り続ける。
《もっと良い子に》
《もっと正しく》
《もっと綺麗に》
「……“不要な個”として回収しています」
「いや止めろよ誰か!!」
でも、誰も止める理由を持てない。
補正されている。これは良いことだと。
マスターは静かに白布を見つめていた。
《聖女》の怪異も、マスターを見返す。
そこで初めて、怪異側が、理解してしまう。
目の前にいるのが、自分と同じ定義側だと。
礼拝堂の空気が震える。
無数の顔が、ざわつく。
『あ』
『それは』
『だめ』
司祭の顔色が変わる。
「……なぜ」
マスターは静かに目を開く。
金色。
「……マスター?」
「……怪異、来ます!」
《聖女》が震えた。
無数の顔がざわめき、祈りが悲鳴へ変わる。
『なおします』
『きれいにします』
『あなたもひとつに』
白布が裂け、巨大な腕が伸び、礼拝堂そのものを飲み込むように膨れ上がる。
無数の腕が一斉にマスターへ殺到した。
「……うるさいねぇ」
ただ、それだけ。
苛立ちにも似た小さな一言。
伸ばされた腕が、ぴたりと止まる。
《聖女》が硬直した。
無数の顔が怯えたように震える。
『いや』
『ちがう』
『みないで』
『こわい』
ぱき。
腕に亀裂が走る。
ぱき、ぱき、ぱき。
悲鳴より先に、その存在が崩れ始める。
『ぁ……』
怪異自身が、自分を保てない。
意味がほどける。
祈りが砕ける。
存在が、完成前の失敗作へ巻き戻される。
バキンッ!!
礼拝堂を満たしていた祈りが霧のように消える。
《聖女》は、最初からそこに存在できなかったものとして、静かに消滅した。
ファニーとシエルの顔が青ざめる。
「今の、倒したわけじゃないよね」
「怪異の存在そのものが、維持できなくなりました」
祈りが、消えた。
礼拝堂を満たしていた静寂が、音を立てて崩れる。
生徒たちが一人、また一人と顔を上げた。
「……え?」
「わたし……何を……」
祈祷書を握ったまま戸惑う者。泣き出す者。友人の名を呼ぶ者。誰もが、自分の意思で辺りを見回している。
「みんな戻った……」
「精神誘導は解除されています」
そして、金眼のマスターだけが静かに周囲を見る。
「……静かになったねぇ」
その声。
感情が薄い。
人間味が、遠い。
「……マスター、目が……」
「……金色です。位相の変化です」
神様の瞳。
「ん?」
振り返る。
「どうしたの?」
――自覚、なし。
ファニーの背筋に、ぞわりと冷たいものが走る。
マスターはすぐそこに居る。
なのに。
「……ねえ、距離おかしくない?近いのに、遠い……」
シエルは即座に周囲を観測。
空気、重力、認識。全部が、薄く歪んでいる。
「存在の解像度が下がっています。世界側に寄せられている」
壁と同じ。床と同じ。
“そこにあるもの”として、優先度が平坦化していく。
人の輪郭が、溶ける。
マスターは何の感情もないまま、自分の手を見る。
「……軽いねぇ」
老シスターは崩れた礼拝堂を見回した。
「あらあら……」
砕けた礼拝堂、消えた《聖女》、立ち尽くす司祭。
「さっきの怪物は、一体……?」
首をかしげる。
「もしや、学園長様がおっしゃっていた外部の協力者というのは、あなた方でしたか?」
三人は顔を見合わせる。
老シスターは、ふと自分の手を見る。
そこには銀色のイヤーカフ。
「あら」
申し訳なさそうに目を丸くする。
「もしかして、これもお仕事で使う装備の一つだったりしますか?」
マスターは小さく頷いた。
「うん。結構、大事かなぁ」
「まあ!」
老シスターは慌てて差し出す。
「申し訳ありません。わたくし、ただ規則違反の耳飾りだと思い込んでしまって……」
ファニーが勢いよく受け取る。
「それ!それです!」
シエルも珍しく声を強める。
「即座に装着してください」
マスターはイヤーカフを受け取り、耳元へ当てる。
カチリ、装着。
しかし。
「……戻りません」
「え、なんで!?」
金色の瞳が消えない。希薄化も止まらない。
その瞬間、イヤーカフからやけに軽い声が放たれる。
『強制固定シークエンス、開始します』
カフスから紫電が迸る。
耳という至近距離。
閃光。
バチバチバチッ!!
マスターの体に直接叩き込まれる雷撃。
収まりきらなかった雷が、四方八方に飛び出す。
「いっ……!」
光が弾け、焦げる匂いがする。礼拝堂の空気そのものが震える。
「えええええ!?装備からの裏切り!?」
「固定処理です!マスター!耐えてください!」
「いやこれ痛いって!」
金の瞳が揺れる。礼拝堂の定義が、一瞬だけ軋む。崩れかけた世界が、無理やり人間側へ戻される。
そして、静寂。
煙、焦げ臭さ。
床に座り込む黒焦げのマスター。
前髪が少しチリチリ。
「……びっくりしたねぇ」
「それで済ませるの!?」
瞳の色、位相。
「……緑に固定されています」
「戻った!?」
「……いえ、完全ではありません」
瞳は緑。いつもの色。
でも違う。深く、均された安全な緑。
イヤーカフはしれっと続ける。
『安定化完了。逸脱値、閾値以下へ。なお、一度取得した上位位相の参照は完全には消去されません』
「今さら説明!?」
シエルは静かに息を吐く。
「……つまり、一度神の視点に触れた。その痕が残る」
マスターが焦げた袖をぱたぱたする。
「神様ねぇ……肩こりしそうだね」
「感想が軽いってば!」
老シスターは慌ててマスターのもとへ駆け寄った。
「まあまあ先生!大丈夫ですか!?」
「……びっくりしたねぇ」
「びっくりではありません!」
胸に手を当て、ほっと息をつく。
「本当に申し訳ありません。規則を守ることばかり考えて、一番大切なことを見落としてしまいました」
深々と頭を下げる。
「わたくしも、まだまだ修行不足ですね」
マスターは煤だらけの顔で苦笑した。
「気にしないで。結果的には戻れたからねぇ」
「最近の耳飾りは、本当に高機能なのですね」
「そこだけ納得しないで!?」
「……その認識のままで結構です」
一見、戻ったように見える。
声も、姿も、温度も。
ファニーがじっと見る。
「……まだ、ちょっと遠い」
シエルも頷く。
「存在の密度が完全には復元されていません」
マスターは自分の指先を見る。軽く握る。
その瞬間、空気がほんの少しだけ従った。
「……世界に溶ける感じは、まだあるねぇ」
礼拝堂の蝋燭が、一斉に揺れる。
誰も触れていないのに。
光が揺らいだ礼拝堂の中央。聖女の怪異が消えた場所。そこに、制服姿の少女が倒れている。
「生きてる!?」
駆け寄り肩を揺する。
「ねえ!大丈夫!?」
少女の体がぴくりと震える。
浅い呼吸だが、生きている。
シエルも膝をつく。瞳孔確認。脈。呼吸。
「……生命反応正常。消化されていません」
「えぇ……?」
マスターもゆっくり近づく。まだ少し遠い存在感のまま。
「たぶん、素材化の途中だったんだろうねぇ」
「言い方ぁ!」
少女のまぶたが、ゆっくりと開く。
「……ぁ……」
ぼんやりした瞳。焦点が定まらない。
天井を見る。砕けたステンドグラス。揺れる蝋燭。
そして、金の残滓を宿したマスターの瞳。
「……せん、せい?」
「うん。こんばんは」
少女の目に涙が滲む。
「わたし……」
言葉が詰まる。
「……こわかった」
「良かったぁ!!ちゃんと怖かったんだ!!」
「感情反応、正常域へ復帰しています」
ぽろぽろ泣き始める。
「みんなに、いい子だねって言われて……嬉しくて……。でも、だんだん……」
呼吸が震える。
「何が好きだったか、分からなくなって……」
少女の肩が震える。礼拝堂には、小さな泣き声だけが響いた。
マスターは少女の前にしゃがみ込む。
「戻れるよ」
「……ほんと?」
「うん」
少しだけ笑う。
「好きだったものを、また選べばいい。上手じゃなくても、綺麗じゃなくても、自分で決めれば、それで十分だから」
その言葉に、空気がほんの少しだけ揺らぐ。
シエルが視線を向ける。
「……定義」
ファニーも息を呑む。
押しつけるものではない。ただ、背中をそっと押すだけの小さな定義。
少女はぐしゃぐしゃに泣きながら、小さく頷いた。
「……わたし、ほんとは、ギターが好きで……」
「最高じゃん」
涙のまま、少し笑う。
「でも、女の子らしくないって……」
「知らん知らん。弾け弾け」
「合理的です。趣味に性別の制限はありません」
少女は、今度は少しだけ自然に笑った。
その笑顔を見つめたまま、司祭が崩れた祭壇の前へ膝をつく。
「……違う」
震える声だった。
「私は、誰も傷つかない世界を作りたかっただけなのです」
俯いたまま、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「皆が同じであれば、争いはなくなる。苦しみも、嫉妬も、憎しみも……だから聖女様なら、それを叶えてくださると信じていました」
「だからって、人を飲み込ませるの!?」
ファニーの声に、司祭は静かに首を振る。
「飲み込まれるのではありません」
穏やかな笑みは、もうどこにもなかった。
「救われるのです」
司祭はそう言い切った。だが、その声にはもう先ほどまでの確信はなかった。
少女は涙を拭いながら、小さく笑う。
「……ギター、また弾きたい」
その一言が、礼拝堂に静かに響く。
司祭の肩が、ぴくりと震えた。
「……そう、ですか」
初めてだった。誰かが"同じになること"ではなく、"自分で選ぶこと"を幸せそうに口にしたのは。
マスターは穏やかに言う。
「救いってねぇ。自分で選べなくなった時点で、もう救いじゃないよ」
司祭は何も返せなかった。崩れた祭壇を見つめたまま、静かに目を閉じる。
礼拝堂のあちこちで、生徒たちが泣き始める。
「わたし……何してたの」
「ごめん……ごめんなさい……」
抱き合う者。呆然と座り込む者。友人の名を呼ぶ者。もう誰も、同じ顔ではなかった。
泣き方も、声も、表情も。全部、ばらばらだった。
マスターはその光景を見渡し、小さく笑う。
「……うん。こっちの方が綺麗だねぇ」
その背中は、まだ少しだけ世界と距離があった。
マスター「ギターって難しいよねぇ。Cコードで指がつるし」
シエル「それは不器用が過ぎるのでは」
ファニー「練習しろ!」




