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10-6 もっと良い子になれます



■聖アグネス女学院・礼拝堂


夕刻。

赤い夕陽がステンドグラスを透かし、礼拝堂を静かに染めている。


重い扉が開く。


ギィ……。


ファニーは一人、中へ足を踏み入れた。

長椅子。燭台。祭壇。

静かすぎる。


左右の席には数人の生徒。

全員が前を向き、微笑んでいる。誰一人、姿勢を崩さない。


(……息苦しい)


奥から、穏やかな笑みをした白衣姿の男性司祭が歩いてくる。


「ようこそ、九条さん」

「どうも」


営業スマイル。

通信機からシエルの声。


『音声良好です』

『映像も見えてるよぉ』


マスターの間延びした声に、少しだけ肩の力が抜ける。


司祭は祭壇の前で静かに両手を組む。


「ここは、迷いを静める場所です」


柔らかな声。

責める響きはない。


「苦しみや葛藤を手放し、より良い自分へ近づくための祈りを行っています」


司祭が祈祷書を開く。


ぱさり。

その音に合わせるように、生徒たちも一斉にページを開いた。


(怖っ)


ファニーも合わせてページを開く。

祈りが始まる。

静かな合唱。


《正しく》

《穏やかに》

《清らかに》


歌声が重なる。

それと同時に、頭の中から力が抜けていく。


焦りも、怒りも、悩みも、全部が遠くなる。


(……楽)


そう思った。

何も考えなくていい。誰かに合わせればいい。その方がずっと楽だ。


耳元で声がした。


『ファニー。それ。"楽"と"消える"が混ざってるよぉ』


はっと息を呑む。

視界が戻る。

迷わず、自分の頬を叩いた。


パシッ。


司祭が視線を向ける。


「……どうしましたか?」

「虫いました!」

「虫?」

「たぶん蚊!」


苦しい言い訳。

それでも意識は完全に戻った。

シエルが通信越しに呟く。


『精神誘導を確認しました』

『しかも本人の願望へ合わせてくるタイプだねぇ。強い術式だ』


司祭はゆっくり近付いてくる。


「抵抗する必要はありません」


穏やかに。

優しく。


「人は皆、自分らしさに苦しみます。違いが争いを生みます。だから皆が同じ方向を向けば、誰も傷つきません」


その言葉には、一切の悪意がなかった。

だからこそ怖い。


(この人……、本気で正しいと思ってる)


司祭は微笑む。


「貴女も、もっと良い子になれます」


数秒の沈黙。

ファニーは笑った。


「やだなぁ」


軽い口調。


「"私"いなくなるじゃん、それ」


その瞬間、礼拝堂が静まり返る。

生徒たちが、一斉にこちらを見る。

司祭の笑顔が、ほんのわずかに揺れた。


通信機の向こうでシエルが呟く。


『歪みました』


マスターも静かに続ける。


『……核心だねぇ』


カチ。

耳元のイヤーカフが微かに熱を持つ。


礼拝堂奥の巨大なステンドグラス。

聖女像の口元が、ほんの一瞬だけ笑った。



その時だった。通信機の向こう。


バサァッ!!


『あ、書類落ちた』


ゴン。


『痛っ』

「ぶふっ」


一気に現実へ引き戻される。

シエルがため息をつく。


『何をしているんですか』

『机の角がねぇ……』


司祭の口角が少し下がる。

床下から微かに軋む音がする。

巨大なステンドグラスの裏側で、何かが動いた。


シエルが小さく告げる。


『地下です。強い反応を確認』


司祭は再び穏やかな笑みに戻る。


「九条さん。今夜、より深い祈りへご案内しましょう」


その時、礼拝堂の扉が開く。


「失礼しますねぇ」


女体化したマスターが顔を出す。


「心配で来ちゃった」


一歩踏み出し、長椅子にスカートを引っ掛ける。


「わっ」


ガタンッ!!盛大に転ぶ。


「先生!」


女子生徒たちが一斉に駆け寄る。


「大丈夫ですか!?」

「怪我は!?」

「椅子どけて!」


さっきまで完璧に揃っていた空気が崩れる。


「保護欲による術式干渉」

「アハハ!そんな壊し方ある!?」


司祭だけは動かない。

ただ、倒れたマスターを見つめる。

興味深そうに。


「……貴女は」


少しだけ目を細めた。


「とても、揺らぎますね」



■聖アグネス女学院・廊下


礼拝堂の扉が閉まる。


ゴゥン……。


重い音が響いた途端、ファニーは大きく息を吐いた。


「はぁぁぁ……圧がすごい……!」


シエルも小さく頷く。


「精神干渉が非常に強力です。長時間滞在は危険ですね」


マスターは礼拝堂を振り返る。


「……うん。本人が望む形へ、静かに寄せてくる。気付かないまま削られるタイプだねぇ」


三人は廊下を歩き始める。

夕陽が白い壁を赤く染める。

静かな足音だけが響く。


その時。


「失礼します」


前方から、小柄な老シスターが歩いてきた。

柔らかな笑顔。穏やかな物腰。

だが学院の規律そのもののような存在感がある。


シエルが小さく呟く。


「……学院側の管理者です」


老シスターはマスターの前で足を止めた。


「あら」


視線は耳元へ。

銀色のイヤーカフ。


「教師の方も装飾品は禁止ですよ」

「これは少し事情が……」


言い終わる前に。

ぱちん。

イヤーカフが外された。


「お預かりしますね」


悪意など一切ない。規則を守っただけ。

マスターは耳へ触れる。


「あ」


その一文字と同時に、空気が揺れた。

ファニーの表情が固まる。


「……え?」


シエルが咄嗟に肩を支える。


「位相固定消失。出力が上昇しています」


廊下の空気がわずかに歪む。

カーテンが風もないのに揺れる。


壁掛け時計。

秒針だけが、一拍遅れた。


……カチ。


マスターは自分の手を見る。

指先に、世界が少しだけ従う。


「……なるほど。固定具だったんだねぇ」

「納得しないで!」


ファニーが半泣きになる。

老シスターだけは何も気付かない。


「それでは反省室へ参りましょう。規律は皆さん平等ですからね」


シエルは静かに頷いた。


「拒否は不自然です。従います」


三人は再び歩き出す。


その途中。

廊下の窓へ、マスターの姿が映る。


一瞬だけ、姿勢が伸びる。表情が整う。

慈愛に満ちた、理想の教師。


次の瞬間には元へ戻る。

誰も気付かない。


マスターだけが、その違和感を見ていた。


「……へぇ」


小さく漏れた声だけが、少しだけ遠かった。



■旧校舎前・夕刻


鐘が鳴る。

夕焼けに染まる回廊を三人が歩く。


「反省室送りだった人とは思えない速さで帰ってきたね」


マスターは苦笑する。


「話せば分かる人だったよ。イヤーカフ返してもらえなかったけど」

「そこ一番大事!!」

「後で返却交渉します」


マスターは耳へ触れる。

空っぽ。


「まあ、制御はできると思うよ」

「"思う"って言った!」


鐘がもう一度鳴る。

礼拝堂のステンドグラスが赤く染まる。


「……祈りが増えてるねぇ」

「夜が本番ですね」


歩き出す。

ファニーはふと気付く。


「……あれ?さっきから転ばない」


ヒールも、スカートも。

まるで最初から慣れていたように歩いている。


「姿勢、歩幅、重心移動。すべて最適化されています」


マスターは自分の身体を見下ろす。


「楽なんだよねぇ。身体が勝手に、一番効率のいい動きを選んでくれる」


シエルの声が低くなる。


「それだけじゃありません。感情反応も均されています」

「……不要な揺らぎを削ってるのかも」

「不要じゃない!」


ファニーが即座に返す。

その時、女子生徒とすれ違う。


「こんばんは、先生」

「こんばんは」


マスターが微笑んで返す。

たった一言。

それだけで、生徒たちの表情が安らぐ。


「……今なんかした?」

「最適な返答をしただけ」

「思考速度も上昇しています」


その時。

マスターの視線が、不意に止まった。


「……ん?」


ゆっくりと、旧校舎の奥へ目を向ける。

礼拝堂の、そのさらに下。


「いた」


静かな声だった。


「学院全体に根を張ってる」


マスターは少し考えるように目を細める。


「……なら」


沈黙。


「学院ごと消した方が早いねぇ」


静かに手をかざす。

空気が張り詰める。


シエルは一歩踏み込み、マスターの視界を塞ぐように立った。


「駄目です。戻れなくなります」


瞳が揺れる。


「……あ」


マスターはゆっくりと自分の手を見る。


「危なかったねぇ」

「軽く言わないで!」


ファニーは、その手をぎゅっと握る。


「効率悪くていい。ちゃんと悩んで、ちゃんと迷って。それがマスターだから」


目を閉じる。

ゆっくり息を吐く。


「……うん」


小さく笑う。

今度の笑顔は、ほんの少しだけ不格好だった。




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