ep.23 もし後悔をするならば
そう上手くいくと思ったかい。
その気配は業火として唐突に湧出し、青碧と相剋して世界を支配する。
刹那に感じる浮遊感。正常を取り戻す身体感覚。
「――な」
真紅の重圧から解放され、セージはその場でたたらを踏んだ。たたらを踏んだ足下、おぼろげだった視界がレンズを通したみたいにはっきりしている。氷水を流し込まれたように冷めていく血潮に相反し、気配は強大に膨れ上がっていく。
理解してしまう。
「――ハルフィリア、か」
とぐろを巻いた碧い竜がエレオノールの奥で呻いた。苦汁を飲んだ嗄れ声だった。
どうして、と動かした唇から声は出なかった。振り仰いだ街の景色が橙に染まっている。けったいな話だ。街を侵攻しているのは南の海に身を潜めていた水棲の異種族で、血の赤に染むことはあれど炎の朱に染め上げられることはないはずなのに。
古今東西、血液は命の根源として考えられてきた。
「そこに生命活動が興る限り、命は燈火と燃え続く。その灯に燃える水を注ぎ灰の城を築くことができる者――それが吸血鬼真祖であろう」
宝石を詰め込んだような硝子質の瞳がセージを射る。身体が竦んだ。これは、問うている目だ。
「先刻まで、ハルフィリアは確かに汝と見えた。しかし、己は父の旧知である炎獄の夜に会見えたばかりである。今、街を燃やすのは彼の者なのであろう。真祖の力の移譲か。ありえぬことだ。汝は何者か。我らに相対する魔王の隷下とでもいうのか」
「――セスカル」
エレオノールが碧竜を振り返る。しかし碧竜――セスカルは瞬膜をまばたかせただけで、言葉を止めはしなかった。
「笑止! 魔王など存在せぬ。神を呪い神隷を憎悪し凍てついた地の最下層に救いを求めた人間の妄想にすぎぬ」
「セスカル。ちょっと」
「幻惑の化生めが。この世の者ではないな。迂愚の舌で我らを誑かすというのならば、この手で葬って――」
「セスカル――」
振り上げられた碧竜の尾に神々しく光が集った。ほんの一瞬のことだった。エレオノールは焦った様子もなく、振り向きざまに左腕を一閃した。それだけだ。たったそれだけの所作で、集った光は失せて若い碧竜の体は崩れ落ちる。水面へ落ちる巨体。爆ぜる水飛沫が妖しく輝く幻想的な景色で、異形の少女はセージに微笑んだ。
「ごめんね。レオを見習ってちゃんと歓迎しようって話だったんだけど。間違った伝わり方をしたみたいだ」
「……レオ」
「私は、エレオノール、ね」
きみは落ち着いたみたいだね、と彼女は笑った。踏み出した一歩で宙を駆け、柔らかくセージの目の前に降り立つ。人ならざる者の姿をした彼女は悟ったような穏やかな表情で、しかし荒々しくセージの襟首を勢いよく掴み上げた。
「がッ――ちょっ、っと、レオ――!」
今のセージに抵抗する力はない。
ここにいるセージはただの非力な少年である呉井誓慈でしかなかった。
「ね、セージ、きみは何が起きているか理解できる? 私が選ばれた理由がわかる? きみが力を奪い返された理由がわかる? この世界の存在理由がわかっていて救うだなんて言っているの?」
――存在理由?
「間違っていると思うとか。できることがあるんじゃないかと思うとか。甘いんだよ、そんなの、きみひとりの思い込みで救えるほどこの世界は確立されていない。きみは知らないだけだ。真祖としてもまだ不安定で、気付いていないだけだよ。この世界に救いようなんてないってこと。選ばれた私たちはなおのこと救い難いということ。――私だって知らなければ――純粋に力だけを持つことができたのなら」
異形の左腕と、人の形をとどめた右腕がセージの胸に縋りついた。
「きっと、まだ間に合ったと思うんだよ」
次回、久しぶりのあの人が登場




