ep.22 拝啓、大嫌いな神様
なんて忌まわしいのでしょうね。
赤く燃える街。碧く輝く岬。例えば、黄昏にせめぎ合う夕日と夜のとばり。あるいは、夜明けに喰らいあう暁と夢を見続ける闇。相克の末、この世界は新たな幕開けを迎えるだろう。
――最終章を。
「やっ。ライラちゃんやっほー。元気してるゥ?」
気の抜けた声に肩を揺らした。たった今、忽然と現れた存在は真後ろでヘラヘラ笑っている。見なくたってわかる。そいつはいつだっておふざけのつもりで、まともに取り合う気はひとッかけらもなくて、この世界をさっさと滅ぼしてしまいたいと思っている。
ライラは薄桃色の髪をかき上げ、夜空色をしたケープの胸元を手繰り寄せた。怖くない。恐ろしいのではない。ただひたすらに自分がみじめで、悔しくて、今にも叫びだしそうなのをこらえているだけだ。
「なーんでこんな屋根の上? バカと煙は高いところが好きっていうけどさァ。吸血鬼もそうだっけ? そんな設定、この世界にあったかなあ。なに見てんの? ――ああ、ライラちゃん、きみ、もしかしてさァ」
背後の気配が消える。完全に消失する。それがすぐに目の前の空中に現れる。浮かび上がって静止している。半身に炎の紅を。半身に海の碧を。それぞれに浴びた白い男だ。女だ。子供だ。老人だ。その姿は一定ではない。その声はひとつに保たれない。それはこの世界に認知不能な不確定な異物である。
「かみさま」
ぽつりとつぶやいてみる。おおよそ相応するであろう呼称のそれは、こうして目の前にすると体が爆発してしまいそうなほどの激情を呼び覚ます。行き場のない呪いを吐き出そうとするほどに、今度は自身が雁字搦めになる。
「あっはァ……すッごい顔してるねェ。そんな睨まないでよ。――いやなに、もしかして、希望持っちゃってるのかなー、なんて。アレが変えてくれると思ってる? ひはッ。無理無理無理。マジで無理だよー、そんなん。確かに狂わされたよ。従順に壊れていくはずだった君の不具合。我々の想定を超越したいっぱしの魔女の暴走反応。極めつけに系外からの混入汚染。ふざけんなって感じだよね」
「――黙れ」
黙れ。黙れ。黙れ。
ふざけるなはこっちの科白だ。
「しかし、こういうイベントはつきものだからねェ。我々は最善を尽くすためにあらゆるトラブルシューティングを用意している。そう、最善を尽くすためだ。限りある資源の恒久的な運用のため。安定した華々しい未来の保全を目的とし――」
「うるさい!」
空気が急激に熱を帯びる。それらは爆発的にエネルギーを増し、猛火となって白い姿を灼き殺さんばかりに包み込む。その中心で、少女の顔をしたそいつがせせら笑っている。精悍な男の顔でニタニタ嗤っている。無駄なことだとは知っている。もう何度も思い知らされた。こいつはここにはいない。幻影だ。虚像だ。命もなく魂もなく肉もなく映し出された水鏡の月だ。
「ひはひはッ。困っちゃうなあ。せっかくかわいい姿になったのに、変わらないんだねェ。もしかして反抗期? そんなの君らに設定したかなァ。ああ、やだやだ。まーた怒られちゃうよ」
ぎりぎりと噛んだ唇から血があふれ出る。集約したこの世界の生命が赤く、紅く流れていく。
「ああ、ダメだよ。できるだけ血ィ流さないでって言ってんじゃん? 強制終了つけてるとはいえ、回収率悪くなるからさ。――ま、いっか」
白い老婆は碧く輝く岬に振り向いた。しゃがれた声はすぐに若々しい女の吐息交じりのそれに変容する。
「不本意だけど、次がいるしィ。いっやァー、大変だったよ。新しくプロトコル組み直すの。混入した系で途中から組み直すとかマジないわ。やってくれたよね。あのポンコツ女、余計なことしてくれちゃってさあ……いらんもん持ち込んだ挙句自分は早々に死ぬし? おかげで生き返らせるの超手間」
炎の中で白い少年がくるくると人差し指を回すのか見えた。たったそれだけだ。それだけで、ライラの意思とは関係なく猛火は収束する。その人差し指の先で蝋燭の灯りほどのそれになった橙色を、腰の折れた白い老爺がひゅっと吹き消した。
「超手間でしたが、そういうときのトラブルシューティングも用意してあるワケですよ。とっておきの筋書きを」
両手を広げ天を振り仰ぐそいつの腕をもいでやりたい。胴体に風穴をあけてやりたい。五臓を丁寧にすりつぶして一本ずつ骨を折って目玉を抉って食わせて頭蓋をかち割ってその中身をぶちまけて原型をとどめなくなるまで槌矛で殴打してやりたいのに、触れることすらかなわない。
絶望的な隔絶は先へ続く未来を拒絶する。
最期まで、呪いの荊に縛られるばかりだ。
「ねーえ、ライラちゃぁぁぁん。世界を救うのはいつだって神様だよ。神の下僕が世界を救いへ導くのさ。異端者は追放されるのさ。神の名のもとに粛清されるのさ。君は救世の誉れを賜るはずだったのにね。ふいにしちゃア、もったいない。アハハ」
「――追放できないくせに」
「アハハ、ハ――は? なに?」
「おまえはこの世界の神であって、六万と五五三五の神ではない」
小太りな白い女のたるんだ目元がピクリと動いた。変遷する姿が透き通る。不鮮明になる。
「どこで知った?」
ライラはニヤッと笑った。笑ってやった。このクソッタレの神とかいうやつに、一発かましてやった。おまえとの約束通りだ。異端の魔女――ルネシア。
「セージは」
碧のふもとで抗っているのだろう異界の少年の名前を口にすると、頼りなくも心に火が灯る。それはここではないどこか別の、限りなく遠い隣の世界の息吹だ。
「セージはお前の制御の外側にいる。別の場から新しい要素が加算された今、お前はもう予定調和を為しえない! どれだけこの世界に干渉したところで、もう、おまえの思い通りの未来は訪れない。……本当にこの世界を救うのは神などではないのです。あの魔女の意志と。呪われた神隷の力と。人の背負った罪業の。昇華した先にある祈りなのでしょう。セージはそれを実現する可能性を持っている。――おまえの最も危惧した可能性ですね? 混濁の神よ」
白い造形はライラと同じくらいの幼い子供の姿にとどまっている。ぎりぎりと歯をくいしばって、目を見開いて憤怒を顕わしていた。
「ぼく/わたし/あたくしがラプラスの魔に堕ちたとでも言うつもりか」
ほとんど雑音のような声は何人もが同時に声を発しているようにさえ聞こえる。高い声。低い声。かすれた声。
「儂/おれ/あたしが古い神だと。貴様/てめえ/あんたらの世界が不確定性を手に入れただと/ですって? ――ああ、もう、うるさい! 出てくるなよクソ人間ども!」
神様なんてクソくらえだ。滑稽な半透明の白い幼女を鼻で笑ってやった。こんな奴に今までどれだけ振り回されてきたのだろう。どれだけ心を引き裂かれてきたのだろう。いいだろう、構わない、とことん付き合ってやる。
私では世界を救えないから。
「神の従順なる奴隷は私。セージが私を殺さない限り、おまえにとって、私はずーーーー……っと。ライラ・ハルフィリア・エス・マリカなのです。おまえはけっしてセージ・ハルフィリア・クレイに干渉することはできない。そうでしょう? 動かせる駒はひとつの役割につきひとつまで。頭のイカレた魔女が教えてくれたのです」
「……――本当に、あの魔女は。とんでもない外れ値だったよ」
白い幼女は体の端々を明滅させながら吐き捨てた。
「せいぜい傷つけばいい。痛みに悲鳴を上げればいいさ。あァ、ムカッ腹立ってしゃーねェや。うっぜーーーーわホント。なんでうまくいかないかねえ。本命が心配になるゥ。もういいわ。帰るわ。じゃーねーハルフィリア。ちゃんと働けよ」
そいつは初めから存在しなかったかのように音もなく消えた。
存在しない。するわけない。この世界には。
再び一人きりになった屋根の上で、ライラは膝を抱えて丸くなった。
「……うぅ」
鼻の奥がつんとする。目頭が熱くなる。閉じた目蓋の間からあふれてくる透明な感情が頬を濡らす。
私は、こんなにも人間だ。
「やだよぅ。生きていたくないよぅ。怖い。こわいの、ずっとおそろしいの、いや、嫌、やだぁ……もう傷つきたくないの死んでしまいたいのに、だめ、だめなのです、私はとても弱いから」
忘れることも、忘れられることも。
恐れられることも、脅かすことも。
奪うことも、失うことも。
もう、たくさんだ。
「いかないと」
言い聞かせて立ち上がる。ハルフィリアの力はまだ己の内にある。ならばその役目は自分が果たさなくてはいけない。
「私が……やらないと」
ああ、嫌だ。声が震えている。こんなの、とてもセージには見せられない。
目元をぬぐい、体の奥に意識を集中させる。傾いた魔力のバランスを自分の側に引き戻す。大丈夫、ハルフィリアは私だって、この世界はまだ認識している。体が冷めていく。感情が引いていく。久しぶりの感覚だ。冷たくなる心身の代わりに辺りが燃えていく。業火となって街を、栄えた人の営みを、命の痕跡を焼き尽くしてしまう。
後悔するのは、絶望するのは、すべてが終わってからでいい。
今は少しばかり楽しもうか?
「ああ――私、は」
ふわり、と屋根の上から漆黒が舞った。
夜を梳いたような髪が翼のように広がる。
かつて炎獄の夜と呼ばれたその吸血鬼は、切なげに目を細めて呟いた。
「――ずっと×××××いたかったのに」




