第8話 初仕事は遭難者捜索
仕留めた猪型の魔獣を前に、俺は袖をまくった。
せっかく狩人小屋を見つけたのに、その玄関先で大物を倒したまま放置するわけにはいかない。血の匂いを残せば、別の肉食獣や魔獣を呼び寄せる。
「岳。悪いけど、少し場所を移すぞ」
『どこへ』
「沢の下流側。小屋から離して解体する」
『持てばいいのか』
「ああ。腹を潰さないようにな」
岳が前脚を魔獣の胴へ回し、俺一人ではびくともしない巨体を持ち上げた。
完全に抱えるわけではない。前半身を浮かせ、後ろを引くように運んでいく。
身体がグリフォンになってから日が浅いというのに、力加減にもかなり慣れてきたらしい。
沢から十分ほど下った、平らな場所を選んだ。
水そのものへ血を流さないよう少し距離を取る。
「そこでいい」
岳が魔獣を下ろした。
『食うのか』
「そのつもりだ」
『前は知らない獣だから食わなかった』
「あの時は携帯食があったし、異世界へ来た直後だったからな。何も分からない状態で無理する理由がなかった」
俺は山刀を抜き、腹側へ手を当てる。
「でも、毎回『知らない動物だから食べません』なんてやってたら、山じゃ暮らせない」
『そうだな』
まず血を抜く。
次に腹を開き、内臓を見る。
血の色に妙なところはない。肝臓らしい臓器も変色しておらず、異臭もない。消化器官の中身を見る限り、主に木の実や根、草を食べているようだった。
肉の間に目立つ寄生虫も見当たらない。
もちろん地球の動物と同じとは限らないが、食用を避けるような兆候もなかった。
「悪くない」
『食えるか』
「食えると思う。十分に火を通す」
背中の硬い剛毛は厄介だったが、その下には厚い脂肪と赤身がある。
匂いは猪肉にかなり近い。
俺は前脚の付け根から肉を切り出し、食べる分と保存する分を分けていった。
岳がじっと見ている。
「生で食うなよ」
『なぜだ』
「俺が処理し終わるまで待てってこと」
『腹が減っている』
「分かってる。もう少しだ」
蒼冠鷹は近くの枝から解体を眺めていたが、俺が小さな肉片を切り出すと、すぐに降りてきた。
『それ、食べる』
「お前もか」
『食べる』
「岳より圧が強いな」
『俺は待っている』
「聞こえてるよ」
二羽――岳を鳥と数えていいのか微妙だが――に見張られながら解体を終えた。
皮も使えそうなので、できるだけ傷を増やさず剥いでおく。牙は根元から外せば、それだけでも売り物になるだろう。
すべてを持ち帰る必要はない。
食べる肉と使えそうな部位を確保し、残滓は小屋から十分に離れた場所で処理する。
◇
夕方には、小屋の前で肉を焼いていた。
屋根の穴は、作業小屋に残っていた板と外した戸板の一部を使って仮に塞いだ。完全な修理ではないが、少なくとも今夜雨が降っても寝床へ直接落ちてくることはない。
床の枯れ草と糞も外へ出し、炉の灰を掻き出した。
何年も放置されていた割には、使える道具も少し残っている。
鉄鍋一つ。
欠けた斧。
木桶。
壁際には乾燥用らしい縄まで張られていた。
「前の持ち主も猟師だったんだな」
『お前と似ているのか』
「たぶん生活は近い。鷹匠だったかは知らないけど」
火にかけた肉から脂が落ち、炭の上で小さく弾ける。
塩は町で買ってきたものがある。
表面だけではなく中心までしっかり熱を入れ、俺は一切れ切り取った。
岳が見る。
蒼冠鷹も見る。
「俺が先に食うから待て」
口に入れる。
歯応えはあるが硬すぎない。
脂は濃い。猪に似ているものの、癖は少なく、むしろ肉そのものには少し甘みがある。
「うまいな」
『早くくれ』
「岳、お前さっきまで格好つけてなかったか?」
『空腹と格好は関係ない』
「そうかよ」
岳用には大きめに切った肉を火へかけてある。
今の身体なら、人間一人分の食事で足りるはずがない。
完全に火を通したものをいくつか渡すと、岳は最初こそゆっくり食べていたが、すぐに次を要求した。
『足りない』
「知ってた」
蒼冠鷹にも小さく切って渡す。
こちらは一口飲み込むと、目を細めた。
『もっと』
「お前も気に入ったか」
『うまい』
「じゃあ、この肉は保存する価値ありだな」
薄く切って塩を振り、一部は明日以降に干せるよう準備する。
岳の食事量を考えると、保存肉をどれだけ作っても余ることはなさそうだ。
『隼人』
「ん?」
『ここはいい場所だ』
岳が小屋の前で身体を伏せた。
背後には森。
すぐ近くに沢。
頭上には開けた空があり、岳が翼を広げても邪魔になる木が少ない。
「俺も気に入った」
『長野の家よりか』
「比べるもんじゃない」
俺は火を見ながら答えた。
「向こうは帰る場所だ。ここは、こっちで生きるための場所」
岳は何も言わなかった。
少しして、金色の目がこちらへ向く。
『なら、帰る場所が二つになるまで使えばいい』
思わず岳を見る。
「……たまに格好いいこと言うな、お前」
『たまにとは何だ』
「そういうところだよ」
蒼冠鷹が屋根の上から鳴くように言った。
『ここ、私の場所』
「お前はもう屋根を取ったのか」
『高いから』
『俺は下なのか』
「岳まで張り合うな」
小屋の修理はまだ必要だ。
寝台も手を入れたいし、食料を保存する場所も作らなければならない。
それでも、最初の夜に巨木の下で眠ったことを考えれば十分すぎる。
その夜、俺は異世界へ来て初めて、四方を壁に囲まれた場所で眠った。
◇
翌朝。
岳の左翼を確認してから町へ向かった。
傷はかなり塞がっている。
腫れも減った。
「あと少しだな」
『今日は飛べる』
「全力飛行はまだ駄目だ」
『少しなら?』
「広い場所で軽く確かめる程度ならな」
岳の目が目に見えて明るくなる。
こいつ、本当に飛びたかったらしい。
「ただし、先に町」
『分かった』
昨日倒した魔獣の牙一本と、剛毛の束、それから肉を少量持っていく。
何の魔獣なのか確認しておきたい。
リーベルの西門では、昨日の兵士が俺たちを見るなり岳へ目をやった。
「今日はロック鳥、いないよな?」
「来てません」
「そうか……」
明らかに安心された。
『失礼な人間だ』
「お前じゃなくてロック鳥の話だ」
『ならいい』
「いいのか」
岳は昨日と同じ囲いで待つことになった。
本人はもう勝手を理解しているので、こちらも長々と言い聞かせる必要はない。
「昼までには戻る」
『分かった。蒼冠鷹は?』
俺の左肩近くの枝に止まっていた蒼冠鷹を見る。
『行く』
「だそうだ」
『……そうか』
また尾が地面を一度叩いた。
「岳」
『何だ』
「何でもない」
町へ入った。
◇
冒険者ギルドへ持ち込んだ牙を見るなり、ミラは名前を言い当てた。
「岩牙猪ね」
「岩牙猪」
「森の浅いところにも出るけど、普通はもっと人を避けるわ。この大きさなら雄の成体ね」
「食えますよね?」
「ええ。かなり美味しいわよ。肉屋にも普通に出る。ただし背中側の皮が硬いから、狩るなら腹か首を狙うのが基本」
「昨日食べました」
ミラが一瞬止まった。
「もう食べたの?」
「解体して、内臓も肉も問題なさそうだったので。十分火は通しました」
「……あなた、そういうところは本当に猟師ね」
「山で暮らしてたら、毎回町で鑑定してもらうわけにいきませんから」
「それもそうか」
牙も剛毛も買い取り対象だった。
特に牙は加工品の材料になるらしい。
「それで、小屋はどうだった?」
「使えます。先客が岩牙猪だった以外は」
「……だから、その牙を持ってきたのね」
「追い出そうとしたら向こうから来たので」
「倒した?」
「岳と二人で」
ミラは何かを言いかけたが、俺の冒険者証に刻まれたFの文字を見てやめた。
「もう突っ込むの、疲れてきたわ」
「慣れてください」
「できれば普通のF級らしい話も聞かせてほしいものね」
その時だった。
ギルドの入口が開き、中年の女が息を切らして入ってきた。
「お願いします! まだ見つからないんです!」
声が震えている。
受付にいた職員がすぐ立ち上がった。
「ニーナさん。捜索隊から連絡は?」
「ありません。朝から森に入ってくれてるけど、まだ……」
女は手に布帽子を握りしめていた。
「夫は昨日の昼前に薪を取りに行ったんです。いつもなら夕方には戻るのに」
ミラの顔から、さっきまでの呆れた表情が消えた。
「北西の森?」
「はい。古い狩人道の辺りです」
北西。
俺たちの小屋がある方角だ。
「昨日から?」
「ええ。夜は危ないからって、近所の人たちも森の入口までしか行けなくて……朝になって冒険者の人が三人入ってくれたんです。でも、まだ見つからないって」
俺はミラを見る。
「捜索依頼ですか?」
「ええ。遭難者捜索。戦闘目的じゃないからF級でも補助参加できる。ただし、今入ってるのはE級以上の三人組よ」
「場所はだいたい分かります?」
ミラが壁の簡単な地図を指した。
「この辺り。古い林道から西へ入ったらしいわ」
俺たちの小屋より南だ。
知らない場所ではあるが、山中というだけなら問題ない。
それに。
俺は頭上を見る。
ギルドの梁に勝手に止まっていた蒼冠鷹が、こちらを見ていた。
「人を探すの、手伝えるか?」
『どんな人』
「男。森の中にいる」
『上から見る』
「頼む」
ミラが俺を見上げる。
「まさか蒼冠鷹に探させるつもり?」
「上から見える範囲だけです。森の中までは無理でしょうから、俺も地上から痕跡を追います」
「あなた、《山野生存》と《狩猟》も高かったわね」
「人間の足跡を追うのも、獣道を見るのと基本は同じです」
完全に同じではない。
だが、踏まれた草、折れた枝、靴跡、泥、落とし物。人間の方が痕跡を残しやすいくらいだ。
ミラは少し考えたあと、書類を一枚取り出した。
「捜索補助として受ける?」
「受けます」
異世界で最初の依頼だった。
◇
女の夫はバルドという四十七歳の木こりだった。
身長は俺より少し低く、茶色の上着に灰色のズボン。斧と背負い籠を持っている。
俺は必要な情報を頭へ入れてから西門へ戻った。
「岳」
呼ぶ前から立ち上がっていた。
『仕事か』
「分かるのか?」
『お前の顔がさっきまでと違う』
「人を探す。森で一人行方不明だ」
『飛ぶか』
「翼は?」
岳が左翼をゆっくり広げる。
昨日までのような引っかかりはない。
傷口も閉じている。
「無茶はなし。高く上がらなくていい。痛んだらすぐ降りろ」
『分かった』
「蒼冠鷹は先に行ってくれ。人間を見つけたら教えてくれればいい。近づかなくていいぞ」
『分かった』
灰白色の身体が空へ上がる。
岳も翼を広げた。
久しぶりに――岳にとっては、グリフォンになって初めてまともに飛ぶことになる。
「ゆっくりな」
『誰に言っている』
「怪我明けのグリフォンに言ってる」
『見ていろ』
岳が地面を蹴った。
大きな翼が一度羽ばたく。
風が巻き、俺の服を叩いた。
二度目。
巨体が浮いた。
オオタカだった頃とは比べものにならない重量があるはずなのに、羽ばたきが安定すると身体はするすると高度を上げていく。
低い。
木々の梢より少し上。
岳はそこで一度旋回した。
『飛べる』
頭に届く声が、いつもより少しだけ弾んでいた。
「知ってるよ」
『この身体も悪くない』
「気に入ってきたか?」
『空を飛べるならな』
それで十分だった。
「じゃあ仕事だ。無理せず探してくれ」
『任せろ』
岳が森の上へ向かった。
俺は地上から林道へ入る。
◇
捜索隊の三人とは、森へ入って三十分ほどで会った。
「お前、昨日のグリフォンの奴か?」
一人が俺を見る。
「隼人です。捜索補助で来ました」
「F級だろ?」
「今日が初仕事です」
三人の顔が微妙になる。
仕方ない。
「邪魔はしません。バルドさんが入った場所だけ教えてください」
年長の男が顎で先を示した。
「荷車道はここまでだ。籠の跡が向こうへ入ってた。だが途中で消えた」
「見ても?」
「ああ」
柔らかい地面に靴跡が残っている。
三人が追った痕跡も混じっていた。
俺はしゃがんだ。
靴跡そのものを追うのは難しい。
なら、その周囲を見る。
地面。
草。
低い枝。
斜面。
しばらく進むと、足跡が薄くなった場所で止まった。
「こっちじゃないですね」
「何?」
「バルドさん、途中で右へ逸れてます」
指した先は獣道にしか見えない細い隙間だった。
「どうして分かる?」
「これ」
枝に細い繊維が引っかかっている。
茶色。
聞いていた上着と同じ色だ。
さらに下を見る。
去年の落ち葉の上に、新しい土が落ちている。
斜面の上を何かが踏んだ跡だ。
「ここを登ってます」
三人の顔つきが変わった。
「行こう」
そこからは速かった。
折れたシダ。
靴底が滑った跡。
木の幹に残った泥。
途中で、小さな薪が一本落ちていた。
「近いな」
俺は斜面の上を見る。
その時、頭の中へ蒼冠鷹の声が届いた。
『隼人』
「見つけたか?」
『人間。倒れてる』
「場所は?」
『大きい岩。水の近く』
岳の声も続く。
『俺も見えた。谷の底だ』
「生きてる?」
『動いた』
「案内してくれ」
空を見上げる。
木々の隙間から、岳が低く旋回しているのが見えた。
「見つかりました」
「本当か!?」
「谷の底です。まだ動いてる」
三人と一緒に走った。
◇
バルドは、深さ六メートルほどの谷底にいた。
急斜面を滑り落ちたらしい。
背負い籠は壊れ、斧も少し離れた場所へ落ちている。
「バルドさん!」
「……誰だ」
返事はある。
意識もはっきりしている。
「ギルドの捜索です。動かないでください」
「右足が……動かせん」
上から見ても、足首の向きがおかしい。
無理に登らせるのは駄目だ。
捜索隊が持っていた縄を借りる。
「俺が下ります」
「おい、待て。初仕事だろ」
「山は慣れてます」
丈夫な木へ縄を回し、斜面を降りる。
バルドの右足は腫れていた。
開放骨折ではない。
出血も少ない。
だが、自力歩行は無理だ。
「昨日からここに?」
「ああ。登ろうとしたが、足が駄目でな。夜は……あの岩の隙間に入ってた」
指した場所には、枯れ枝を集めた跡がある。
よく一晩耐えたものだ。
「水は?」
「あそこに流れてる。少しずつ飲んだ」
「分かりました。今から上げます」
足を簡単に固定する。
その間に岳が谷の縁へ降りてきた。
「岳。引けるか?」
『この男ごとか』
「ああ。ただしゆっくり。絶対に急に引くな」
『分かった』
捜索隊の三人が縄を持ち、岳にも補助してもらう。
俺は下でバルドの身体と傷めた足を支える。
「上げて!」
縄が張る。
人間四人なら苦労する重さを、岳が加わることで安定して引き上げていく。
少しずつ。
一メートル。
二メートル。
バルドが痛みに歯を食いしばるが、声は上げない。
やがて身体が谷の縁を越えた。
俺も後から登る。
「助かった……」
バルドが地面へ寝かされたまま、空を見た。
その視線が岳で止まる。
「……俺は死んだのか?」
「生きてます」
「じゃあ何でグリフォンがいる」
「俺の相棒です」
「そうか……」
疲れすぎているのか、それ以上は聞かれなかった。
捜索隊の三人が笑う。
「町に戻ってから驚け。今は寝てろ」
担架代わりに枝と外套を組み、帰路につく。
岳は再び空へ上がった。
蒼冠鷹もその横を飛ぶ。
俺は担架の片側を持ちながら、頭上の二つの影を見た。
冒険者として最初にやった仕事は、魔獣退治でも薬草採取でもなかった。
山で迷った人間を探して、連れて帰る。
それなら、俺にもできる。
いや。
俺と岳たちだからこそ、できる仕事がある。
そのことが、少しずつ見えてきた。




