第7話 狩人小屋には先客がいた
その夜、俺はリーベルの宿には泊まらなかった。
冒険者証はできたし、山角鹿と甲背狼の素材を売った金も受け取った。町の中に寝床を取るだけなら困らない。
ただ、岳だけを西門の囲いへ残して、自分だけ屋根のある部屋で眠る気にはなれなかった。
「本当にここでいいのか?」
夕方、様子を見に来たエルドが、門外の野営地で焚き火を整える俺を見て呆れた顔をした。
「一晩くらいなら十分です。水もありますし、見張りもいますから」
『見張りとは俺のことか』
「お前も入ってる」
岳は囲いから出る許可をもらい、すぐ近くの草地に伏せている。左翼の傷も悪化していない。蒼冠鷹は少し離れた木の枝で羽を休めていた。
エルドはその二頭を見て、肩をすくめる。
「野営地というより、魔獣の縄張りにしか見えんな」
「襲ってこない分、普通の森より安全ですよ」
「それを言えるのがお前だけなんだよ」
もっともだった。
だが、俺にとって岳は昨日まで一緒に長野の山を歩いていた相棒だ。身体がグリフォンになったからといって、扱いまで急に変える理由はない。
結局、その夜は大きな騒ぎもなく過ぎた。
◇
翌朝、冒険者ギルドへ顔を出すと、ミラが一枚の木札を受付に置いた。
「確認が取れたわ。北西の狩人小屋は今、町の管理になってる」
「使えますか?」
「使える。ただし条件つき」
ミラが指を一本立てる。
「建物の修繕は自分でやること。町は費用を出さない。その代わり、しばらくは使用料なしでいいそうよ。あの辺りの森で危険な魔獣や道の異常を見つけたら、ギルドへ報告すること。それが条件」
「十分です」
町から一時間もかからず、沢があって、森にも近い。
しかも岳が入れる土地がある。
今の俺には宿の一室よりありがたい。
「即答すると思った」
「山小屋なら多少傷んでても何とかします」
「多少ならね。私も中までは見てないから、住める状態かどうかは自分で確認して」
ミラはそこで、俺の腰に目を向けた。
「それと、その山刀一本で今後も依頼を受けるつもり?」
「さすがに考えてます」
甲背狼との戦いで使った即席の長物は、鎌尾豹との戦いでほとんど使えなくなった。
山刀は道具としては優秀だが、大型の魔獣相手に間合いが短すぎる。
「武器屋はこの通りを東に二本。防具屋の向かいよ。初心者向けなら中古もある」
「寄ってみます」
「無理に剣を買う必要はないわよ。技能を見る限り、あなたは剣士じゃないでしょう?」
「ええ」
そこは自分でも分かっている。
俺が得意なのは、相手の正面に立って打ち合うことじゃない。
足跡を読み、距離を取り、先に見つけ、危険なら避ける。獲ると決めたなら、できるだけ安全な位置から仕留める。
日本では猟具として使えなかったが、弓そのものには馴染みがある。
祖父が放鷹と一緒に続けていた古い射法を、子供の頃から何度も教えられていた。
「弓を見てきます」
「そっちの方が似合いそうね」
◇
武器屋で選んだのは、装飾のない短めの狩猟弓だった。
店主に頼んで何本か引かせてもらったが、強すぎる弓を選ぶ気はない。山を歩きながら使うなら、引けることより、何度でも同じ動作で射てることの方が大事だ。
「それにするのか?」
店主は太い腕を組み、俺が持つ弓を見る。
「もう一つ上でも引けるぞ」
「引けるのと、使えるのは別でしょう」
「……分かってる奴か」
弦の状態を確かめ、矢を二十本。それから革製の矢筒と予備の弦を買う。
ロック鳥が贈ってくれた山角鹿のおかげで、懐がいきなり寂しくなることもなかった。
店の裏に小さな射場があったので、感触だけ確かめさせてもらう。
十五メートルほど先の藁束。
一射目は中心から少し右へ入った。
二射目でずれを修正し、三射目は狙った位置へ収まる。
「久しぶりにしては悪くないな」
指先へ残る弦の感触を確かめる。
祖父なら、一射ごとに肩がどうだの、肘がどうだのと細かく言ってきただろう。
ここにいない人間の声を思い出して、少しだけ胸が重くなった。
帰る方法はまだ何も分からない。
だが、今は目の前の生活を作るしかない。
「これでお願いします」
「あいよ。魔獣相手なら矢は惜しむなよ。刺さったまま持ってかれる方が高くつく」
「覚えておきます」
◇
昼前には、俺と岳、それに蒼冠鷹は町の北西へ向かっていた。
狩人小屋までの道は、途中から街道を外れて細くなる。
人がまったく使っていないわけではないらしい。轍はないが、踏み跡は残っている。ただ、最後に草を刈ったのはかなり前だ。
『飛べばすぐだ』
岳が横を歩きながら言う。
「翼が治ってからだって言ってるだろ」
『分かっている。ただ事実を言っただけだ』
「なら、あとで思う存分飛べ」
『そのつもりだ』
傷口は塞がり始めている。
それでも、全力で羽ばたかせるにはまだ早い。
蒼冠鷹はそんな俺たちの上を行ったり来たりしていた。こいつは完全に自由だ。時折森へ消え、数分すると戻ってくる。
『先に家がある』
「見えたか?」
『屋根、壊れてる』
「どの程度?」
『穴がある』
「まあ、想定内だな」
さらに十分ほど歩くと、木立の向こうに建物が見えた。
丸太と石を組み合わせた平屋。
思っていたより大きい。
家の横には作業小屋らしい小さな建物と、半分倒れた柵がある。沢までは歩いて一分もかからない。
そして、家の前には広い空き地があった。
俺はそこで足を止めた。
「悪くない」
『俺もそう思う』
岳が周囲を見回す。
翼を広げるには十分な広さだ。
ロック鳥が降りても、町の門前ほど騒ぎにはならないだろう。
屋根には確かに穴があった。板が三枚ほど外れ、一部は苔に覆われている。窓の片方も割れていた。
それでも柱は立っている。
壁も大きく傾いてはいない。
「直せるな」
『住めるのか』
「今日すぐ快適に、とはいかない。でも雨風を避けるだけならどうにかなる」
扉へ近づこうとして、俺は足を止めた。
『どうした』
「岳、そこ踏むな」
岳が前脚を止める。
小屋の前の柔らかい土に、深い足跡が残っていた。
先端が二つに割れた蹄。俺の掌より大きく、踏み込んだ部分は数センチ沈んでいる。小屋の周囲には同じ跡が何本も走り、近くの木の幹には泥と黒い剛毛がこびりついていた。
鼻につく獣臭もある。
「猪に近いな。かなり大きい」
『中にいる』
屋根へ降りた蒼冠鷹が言った。
「一頭か?」
『一つ。大きい』
その直後、小屋の中で床板が軋んだ。
低い唸り声ではない。
荒い鼻息。
続いて、内側から扉が弾けた。
「岳、横へ!」
俺と岳が左右へ離れる。
戸板を跳ね飛ばして現れたのは、やはり猪に似た魔獣だった。
肩までの高さが俺の胸近くある。黒灰色の剛毛は背中へ向かうほど太くなり、石片を貼りつけたように硬そうだ。口の両脇から伸びた牙は、俺の前腕ほどもある。
そして何より、出てきた瞬間からこちらを獲物ではなく侵入者として見ていた。
「こいつは懐かない方だな」
『鳥ではない』
「見れば分かる」
魔獣が前脚で土を掻いた。
逃げるなら今だ。
けれど町の管理する小屋を巣にしている以上、俺たちが帰っても次の誰かがここへ来れば同じことになる。
周囲は開けている。
後ろに人間もいない。
弓を試すには、むしろ森の中より条件がいい。
俺は矢を一本抜いた。
『俺がやる』
「翼は使うな。右へ回ってくれ。正面には立つなよ」
『分かった』
岳が低く身を落とす。
さっきまで歩き方を気にしていたとは思えないほど、四本脚での重心移動が自然になっている。
魔獣が動いた。
巨体に似合わず速い。
俺は正面から退きながら弓を引き、最初の一矢を放った。
狙ったのは肩。
矢は当たったが、硬い剛毛に弾かれ、浅く刺さっただけで落ちる。
「そこは駄目か」
『来るぞ』
魔獣がこちらへ向きを変える。
岳が横から前脚を振った。
倒すための一撃ではない。顔の前へ爪を出し、進路を変えさせる。
魔獣は牙を振り上げて岳へ向き直った。
「そのまま!」
俺は二本目を番える。
正面の硬い毛を狙う必要はない。
岳へ身体を向けたことで、顎の下から首の付け根が見えた。
引く。
放す。
矢が柔らかな部分へ深く入った。
魔獣が激しく首を振る。それでも倒れない。
『しぶとい』
「大型獣なら普通だ。近づきすぎるな!」
怒った魔獣が岳へ突っ込む。
岳は横へ跳んだ。
牙が金褐色の羽毛を掠める。
左翼には触れていない。
だが、次は分からない。
「岳、もういい。俺へ向けろ!」
『分かった』
岳が地面を蹴り、魔獣の尻側へ回る。
前脚の爪で後ろ脚を浅く裂いた。
魔獣が怒声のような鳴き声を上げて振り返る。
その瞬間、俺との間にまっすぐ射線が開いた。
三本目。
今度は目ではなく、開いた口の奥を狙う。
放った矢が口内へ入った。
魔獣の突進が途中で崩れる。
前脚がもつれ、地面へ頭から突っ込んだ。
それでも起き上がろうとする。
岳が上から押さえ込んだ。
『隼人』
「ああ」
俺は弓を置き、山刀を抜いた。
無駄に苦しませるつもりはない。
首の位置を確かめ、一度で深く入れる。
やがて巨体から力が抜けた。
静かになった空き地で、俺は息を吐いた。
『これが弓か』
岳が倒れた魔獣から離れながら訊く。
「昔から見てただろ」
『的へ撃つところはな。獲物へ使うのは初めて見た』
「日本じゃこれで獣を狩れないからな」
俺は折れた矢と、最初に弾かれた矢を拾う。
二本目と三本目は回収できるか微妙だ。
店主の言った通り、矢は消耗品と考えた方がよさそうだった。
岳が倒れた魔獣を見下ろす。
『強かったか』
「正面から一人なら相手したくない。お前が向きを変えてくれたから射てた」
『なら、俺がいれば問題ない』
「そういうことにしておくか」
岳の嘴がわずかに開いた。
得意そうだ。
俺は魔獣の身体を改めて見る。
肉が食えるかは分からない。
ただ、この牙と剛毛なら素材になる可能性は高い。
血抜きをするために位置を変えようとして、ふと思う。
「拠点を見に来て、いきなり解体仕事が増えたな」
『食えるなら悪くない』
「そこは町で聞いてからだ」
知らない魔獣を、今度こそ勢いで食うつもりはなかった。
◇
小屋の中は、魔獣が出ていったあともひどい有様だった。
床には枯れ草。
獣の毛。
古い骨。
隅には糞まである。
「まず掃除だな」
『俺は外でいい』
「知ってる。お前が中に入ったら床が抜けそうだ」
『失礼だな』
ただし、建物そのものは使えそうだった。
奥に寝台が一つ。
小さな炉。
壁際には棚。
屋根の穴も、板を張り替えれば直せる程度だ。
窓は後で塞げばいい。
何より、家の前の空き地が広い。
岳が伏せても余裕がある。
沢も近い。
町まで歩ける距離。
「決めた」
『ここに住むのか』
「ああ。使用許可が正式に出たらな」
『悪くない』
岳が空き地の中央へ歩いていく。
まだ左翼を大きく広げることはできない。それでも、周囲を見回す姿は少し嬉しそうに見えた。
蒼冠鷹は小屋の屋根へ止まり、勝手に自分の場所を決めたらしい。
『ここ』
「そこに住むのか?」
『高い』
「好きにしろ」
俺は小屋の戸口に立った。
長野の家とは比べものにならない。
古く、汚れ、直すところだらけ。
それでも異世界へ来て初めて、自分たちが戻ってこられる場所になりそうだった。
そして、町から少し離れているのも都合がいい。
ロック鳥が来ても、大騒ぎにはなりにくい。
他の猛禽が来る可能性だってある。
何より、岳を囲いに預けなくて済む。
「今日は掃除だけして、必要な材料を確認する。明日から直すぞ」
『俺は何をすればいい』
「まず休め。翼を治すのがお前の仕事だ」
『またそれか』
「治ったら嫌でも働いてもらう」
岳の目が少し細くなる。
『それならいい』
やっぱり、こいつは手伝う気だったらしい。
俺は袖をまくり、小屋の中へ戻った。
異世界で冒険者になったからといって、すぐに魔物を倒して名を上げる必要はない。
まず寝床。
水。
道具。
安全な場所。
山で生きるなら、順番を間違えないことだ。




