第42話 岳の背から、湖の魔獣を射る
湖の地図を手に入れようと思ったのは、浮き島から戻った夜だった。
自分で描いた紙には、降りた浜と港、それから島の位置が記してある。けれど、遠くに見えた川がどこへ続いているのかも、対岸にどんな町があるのかも分からない。空から見える範囲が広くなるほど、白いままの場所が気になった。
岳を一日休ませたあと、俺は瑠璃を連れて南へ向かった。
港へ着いたら、以前乗せてもらった漁師に地図を扱う店を聞くつもりだった。帰りに銀嶺の群れへ寄る余裕もあるよう、朝のうちに山を越える。
湖岸をたどっていた岳が、岬の手前で飛ぶ向きを変えた。
『あの岩に、人間がいる』
視線の先には、湖面から頭を出した白い岩島があった。木はなく、斜めに傾いた岩の片側へ、三人の男が寄り集まっている。
一人が赤い布を振っていた。
すぐ近くでは、小舟が横倒しになり、折れた竿らしいものが水面を叩いていた。岸までは距離があり、その岸も崖になっている。泳いで渡れたとして、簡単に上がれる場所ではなかった。
「岳、少し上から回ってくれ。舟が転覆しただけなら、まず人の状態を見たい」
岳が傾いた時、舟の向こうで水が盛り上がった。
太い胴が湖面を割り、その先から平たい頭が持ち上がる。蛇に似た魔獣だったが、頭だけでも人の胸ほどの幅があった。濡れた暗緑色の鱗を光らせ、岩島の低い縁へ顎を乗せる。
男たちが、揃って奥へ下がった。
水へ逃げられないのではない。あれに、逃げ道を塞がれている。
「岸へ戻ろう。瑠璃に、港まで知らせてもらう」
俺が言い終える前に、岳は崖沿いへ向きを変えていた。
◇
岬の裏に見つけた小さな砂利浜で、俺は急いで紙を広げた。
港から見た岬と、その沖の白い岩島を簡単に描き、三人が取り残されていること、水の魔獣に襲われていることを書き添える。立てずにいる男が見えたので、救助の舟には人を寝かせる場所も欲しいと記した。
瑠璃の伝令用の筒へ紙を収め、蓋を留める。
「前に舟に乗った港だ。浜に誰かいたら、これを見せてくれ。受け取ってもらえたら、こっちの方角へ飛んで知らせてほしい」
『舟を出すまで、見てくる』
「頼む。俺たちは岩島へ戻る」
瑠璃が羽ばたくと、岳もすぐに身体を低くした。
俺は跨がり、安全帯を確かめてから弓を抜く。弦に傷はなく、矢羽も乾いていた。一本だけ手元へ取り、残りは鞍の矢筒へ収める。
岳が砂利を蹴り、岬を越える。
岩島では、二人の男が長い櫂を構えていた。残る一人は岩の隙間へ座り、片脚を両手で押さえている。今のところ血が流れている様子はないが、自分では動けないらしい。
魔獣は櫂の届くところまで頭を出し、男たちが振り下ろすと水へ引く。しばらくすると、別の場所から岩へ顎を乗せた。
俺たちが近づくと、その動きが止まった。
平たい頭が持ち上がり、黄色い目がこちらを追う。俺が意識を向けても、猛禽たちから伝わってくるような声は届かなかった。
岳が一度、湖面近くへ降りた。
魔獣の首が跳ね上がる。
大きな口が閉じた時には、岳はすでにその横を抜けていた。尾が水を打ち、岩島にまで飛沫が掛かる。
『首が伸びる。水の中に、まだ身体がある』
「ああ。見えてる長さで考えない方がよさそうだ」
岳は余裕を持って上へ戻った。あれより速く、鋭く動けることは分かったが、水の中へ爪を入れて身体を掴むのは避けたい。
引き込まれれば翼が使えないし、何より、魔獣のすぐ後ろには人がいる。
俺は男たちへ声を張った。
「港へ助けを呼びました! そのまま岩の高い方にいてください!」
櫂を持った一人が顔を上げた。
「分かった! こいつが岩から離れれば、俺たちは持ちこたえられる!」
受け答えははっきりしている。
俺は弓を握り直し、岳の首元へ身を寄せた。
「一度、岩から引き離せるか。こっちを追わせれば、人のいない方で仕留められる」
『追ってくるだろう。さっきも、舟より俺を見ていた』
「俺も射てるところを探す。ただ、狙いがつかなくても待たなくていい。お前の動きに合わせる」
岳の翼が深く空気を掴んだ。
低く回り込み、岩島の外側へ出る。濡れた鱗が湖面のすぐ下を動き、俺たちの影を追って向きを変えた。
少なくとも、男たちからは離れた。
◇
最初の接近では、弦を引けなかった。
魔獣の頭が左下に見えたので身体を開こうとしたが、その前に岳が翼を傾けた。湖面の盛り上がりに気づいて、早くも距離を取っている。
俺は矢を弓へ添えたまま、鞍へ身体を戻した。
すぐ後ろで、大きな顎が空を噛んだ。
見えてから動こうとする俺より、岳の方が早い。矢を放つためにその判断を遅らせたら、練習で覚えたことが全部無駄になる。
「そのまま回ってくれ。射てる時だけ射つ」
『無理に捻るな。次は、左に置く』
岳は魔獣の周りを大きく回った。
俺から見て左側に、その頭がある。右へ身体を捻らずに済むだけで、弓を構えた時の窮屈さが消えた。
風は岬に遮られ、湖面の波も小さい。
岳が羽ばたくたびに上がる肩の動きを、膝と腰で受ける。まだ弦は引かず、相手が水の下でどちらへ首を向けているかを見た。
魔獣は頭を出していたが、俺たちが高さを変えると、すぐに引っ込めた。
鱗のある頭頂部へ射ても、矢が通るか分からない。水の中では、狙った場所まで真っすぐ届くとも思えなかった。
焦って射つ理由はない。
岳が少しだけ高度を落とすと、今度は魔獣の首がゆっくり湖面から出てきた。
こちらとの距離を測っているようだった。
『また跳ぶ』
岳の声と同時に、水面がへこんだ。
俺は弓を下げ、身体を前へ寄せる。
太い首が跳ね上がった時には、岳は横へ抜けていた。開いた口の中に、細く反った歯が何列も見える。その下には、背の鱗よりずっと淡い色をした喉があった。
勢い余った魔獣の頭が水へ落ち、大きな音を立てた。
その瞬間、岳が向きを変えた。
まだ湖面へ戻りきっていない首筋へ、前脚の爪を深く入れる。肉を裂く感触が鞍越しにも伝わり、暗い水の上へ赤い筋が広がった。
岳は掴み続けず、すぐに離れた。
暴れた胴が水を跳ね上げたが、その飛沫は足先を濡らしただけだった。
『次で仕留める』
「あの傷を見てる。俺も狙えそうだ」
魔獣は頭を上げ、岳へ口を向けた。
さっきよりも首の動きが鈍い。水へ潜る代わりに、傷ついたところをこちらから遠ざけようとしている。
岳がその左前を通る位置へ入った。
羽ばたきが止まり、背の上下動が収まる。
俺は左手の弓を押し出し、右手で弦を引いた。練習した時と同じように、指が頬へ触れるところまで引きつける。
岳の翼も首も、矢の通る先にはなかった。
狙うのは、爪で鱗の裂けた首筋だった。
魔獣がこちらへ向き直ろうとする。
俺はその動きに合わせて弓をわずかに送り、指を開いた。
弦が鳴り、矢が飛んだ。
傷口の縁へ矢羽が消えるのが見えた。魔獣の首が反り、開いた口から濁った声が漏れる。
その時にはもう、岳は上へ出ていた。
俺は弓を引き戻し、鞍へ伏せる。
岳が短く翼を畳み、魔獣の頭の後ろへ落ちた。前脚が傷ついた首を捉え、重い身体をひねる。
鈍い音とともに、魔獣の頭が横へ折れた。
湖面が大きく波立ち、浮き上がった胴が二度、水を叩く。岳は爪を離して上昇し、俺もようやく息を吐いた。
弦を引いた右手が、思ったより強く震えていた。
魔獣は頭を持ち上げなかった。
しばらく旋回して見張ったあと、岳が低く降り、爪先で首を引いた。それにも反応はなく、長い胴が重いまま水面を滑った。
『終わった。人間のところへ降りるぞ』
「ああ。助かった、岳」
俺は弓を戻し、岩島で待つ三人へ手を上げた。
◇
岩島の上には、岳が翼を畳んで立てるだけの場所があった。
俺が降りると、櫂を持っていた男がすぐに近づいてきた。
「助かった。もう少しで、あいつがここへ乗り上げてくるところだった」
「三人とも、噛まれてはいませんか。先に傷を見せてください」
「俺たちは擦り傷だけだ。こいつが舟から落ちる時に脚を挟んだ」
座っていた男は、右の足首を動かせずにいた。
俺は足へ触れる前に声を掛け、靴の留め具を緩めた。腫れは出始めているが、大きな傷口や変形は見えない。足の指には温かさがあり、触れた場所も分かるという。
それでも、立たせて試すことはしなかった。
救急用品を広げ、布を挟んで足首を固定する。濡れた上着を脱がせて乾いた布を肩へ掛けると、男はようやく強張っていた顎を緩めた。
「舟は港へ戻る途中だったんですか?」
「ああ。網を上げたら、あいつが魚についてきた。竿で追おうとしたが、舷を噛まれてな」
櫂を持った男が、横倒しの舟を見た。
「岩まで泳ぎ着けただけでも、運がよかった。お前さんたちにも見つけてもらえたしな」
「瑠璃が港へ知らせに行っています。舟が来るまで、ここで待ちましょう」
俺が名前を口にしたところで、岳の頭が港の方を向いた。
少しして、青い冠羽が湖面の上に見えてきた。
『舟が来る。二艘、こっちへ向かっている』
瑠璃が俺の肩へ降りた。
「港から二艘来るそうです。あそこを回ってくれば、こちらが見えるはずです」
俺が岬を示すと、櫂を持った男が赤い布を持ち直した。
舟の姿が見えたのは、それから間もなくだった。
先に着いた舟の舳先には、見覚えのある漁師が立っていた。以前、網を確かめるのに同行させてもらった相手だ。
「お前さんの鷹が来たから、何事かと思ったぞ。筒の紙を見たら、人が取り残されてると書いてあるじゃないか」
「受け取ってもらえて助かりました。足を痛めた人が一人います。横にして運べますか」
「ああ、そのつもりで板を積んできた。海でもないのに大波を食らったような顔をしやがって。全員いるんだろうな」
最後の言葉は、岩島の三人へ向けられたものだった。
三人がそれぞれ応じると、漁師は短く頷き、舟を岩へ寄せた。
岳は翼を畳んだまま、少し奥へ退いた。人が行き来する場所を空けてくれている。
俺たちは痛めた脚を支え、男を板ごと舟へ移した。残る二人も乗り込むと、もう一艘が横倒しの小舟へ回る。
舟を起こして曳けるか、港から連れてきた男たちが確かめ始めた。魔獣の死骸については漁師へ位置を教え、俺たちは負傷者の舟が岬を回るまで岩島で見送った。
◇
港へ戻ると、先に知らせが回っていた。
浜の近くには治療師が待っており、俺は傷の様子と足を固定したことを伝えた。寝かせて運ばれていく男は、通り過ぎる時、俺と岳へ何度も頭を下げた。
その姿が建物の向こうへ消えてから、ようやく水を飲んだ。
岳も浜で喉を潤し、片翼を持ち上げて濡れた羽先を確かめている。俺はその横へしゃがみ、付け根から順に手を入れた。羽にも皮膚にも傷はなく、濡れたところもわずかだった。
「お前が滑空に移ってくれたところで、やっと狙えたよ」
『あれ以上は待てなかった。射た時には、もう上がるつもりだった』
「分かってる。長く安定させてくれなんて、頼めないな」
的を吊るした練習場では、狙いをつけ損ねても、もう一度回ってもらえばよかった。
今日は、岳が魔獣の動きを読んで作った、短い間に射てただけだ。あの一射が当たったからといって、飛びながらなら何でも射られるようになったわけではない。
それでも、矢が届いた感触は残っていた。
岳の動きを止めずに、俺も一緒に戦えた。
俺が首元を撫でていると、戻ってきた漁師が、丸めた紙を差し出した。
「地図を探しに来たんだってな。さっき、隼人という若いのが来たら店を教えてやろうと思っていたところだった、と浜の見張りが話していたぞ」
「ああ、着いたら聞くつもりだったんです。騒ぎになって、すっかり後回しになりました」
「これは俺の使い古しだ。店の場所も裏に書いた。新しいのを買うにしても、見比べる役には立つ」
受け取って広げると、湖岸に沿って港や小さな集落が描かれていた。危ない浅瀬には細かな書き込みがあり、岸から離れたところには、浮き島の位置まで添えてある。
だが、その下にあるはずの岩島も、魔獣が潜んでいた水の深さも、空から一目見ただけでは分からなかった。
「ありがとうございます。大事に使います」
「上からなら見えることも多いだろうが、水の下だけは、俺たちに聞け」
漁師はそう言って、舟の方へ戻っていった。
俺は紙を巻き直し、鞍の荷へ収めた。
湖は、空の道の下に広がる景色だけではなかった。そこにも暮らしている人がいて、知っている道と、近づかない場所がある。
岳の背へ戻る前に、俺は矢筒を確かめた。
一本分空いたところへ指を添えてから、革の留め具を締める。
「帰ったら、また練習に付き合ってくれ。今日の間合いを、忘れないうちに覚えたい」
『同じように飛べばいいな』
「ああ。お前が飛びやすい動きで頼む。俺が合わせる」
岳が身体を低くした。
その背へ跨がると、瑠璃も肩から鞍の前へ移った。漁師たちが手を上げる浜を離れ、俺たちは湖面から高度を取っていく。
風を受けた岳が、ゆっくりと翼を止めた。
俺はその背の静かさを確かめながら、左に広がる湖を見下ろした。
──────────────────
YouTubeでショート動画作ってみました
https://youtube.com/shorts/spSkAdkT0sE?si=_5PpM7nCYZM6czxo
──────────────────




