第41話 浮き島の若いグリフォン
浮き島から持ち帰った石は、狩人小屋でも浮いた。
翌朝、荷袋から取り出して布をほどくと、青白い欠片が手のひらからゆっくり離れた。落とすつもりで下に敷いた毛布の上を、拳一つ分ほど空けて漂っている。
横から指で押せば動くが、天井へ昇っていく様子はない。床へ置いて手を離しても、少し浮いたところで止まった。
瑠璃が止まり木から降り、石の下へ嘴を差し入れた。
『島から離れても、浮いている』
「ああ。あそこでしか浮かないなら、帰る途中で重くなるかと思ったんだけどな」
ひとまず分かったのは、この欠片を持ち帰れたということだけだ。島そのものを支えられる理由まで、これ一つで説明できるわけではない。
俺は中身を出した木箱へ石を収め、蓋を閉めた。持ち上げれば箱には普通に重さを感じるし、手を離せば机の上に収まる。勝手に飛んで逃げる心配はなさそうだった。
石を眺めている間、入口から朝日を浴びていた岳が、外へ顔を向けた。
青空の下では、木々の上の細い枝まで静まっている。
この天気が続くなら、島の残りを見に行ける。
「今日は身体を休めて、明日また南へ行こう。東側の森を、まだほとんど見てない」
『あの水場から先だな。森の向こうにも、降りられる場所があった』
「覚えてたか。そこまで歩いて、帰りに上から位置を確かめたい」
岳は翼を少し持ち上げ、羽の間へ嘴を入れた。俺も箱を棚へ置き、明日の荷から、使わなかった道具を抜いていった。
◇
浮き島の西側へ着いたのは、翌日の昼前だった。
湖を越えて近づくと、岳の翼が下から押し上げられる。俺は鞍の前へ身を寄せ、岳が羽ばたきを浅くするのを待った。島の縁を回り込むと、草地と、その奥の低い森が見えてくる。
足裏へ地面の感触が戻るまで、もう身構える必要はなかった。
荷を降ろして水を飲ませてから、俺たちは東へ向かった。銀嶺は群れのところに残っており、今日は岳と瑠璃だけだ。
森には、湖畔とは違う甘い匂いがあった。
葉の裏が白い低木の間を、甲虫に似た虫が飛んでいる。湿った土には獣の足跡が重なり、幹の低いところには、角で擦ったらしい傷も残っていた。
俺は踏み跡をたどりつつ、岳が翼を引っ掛けずに通れる方へ進んだ。狭いところでは岳が先に首を傾けるので、無理にそのまま押し通ることはない。
やがて頭上の枝が途切れ、瑠璃が向こうの木へ移った。
『大きいのが二頭。岩の上にいる』
その言葉に続いて、低い鳴き声が森の奥から届いた。
岳が足を止める。警戒して身を縮めたのではなく、相手の位置を確かめるように、ゆっくり頭を上げた。
俺も幹の陰から先を見た。
日の当たる岩棚に、グリフォンがいた。
大きい方は、翼から背にかけて赤みのある褐色をしている。岳より幾分細身だが、畳んだ翼の厚みも、岩を掴む前脚の力強さも見劣りしない。
その隣には、ひと回り小さい個体が立っていた。胸元に柔らかそうな羽を残しながらも、翼はすでに長い。こちらを見て身を起こすと、後ろ脚の足元から小石が転がった。
『人間を乗せてきたのか』
褐色のグリフォンの声だった。
俺が岳の横へ出ると、その目がこちらへ向いた。鋭い嘴を持つ顔が、興味を隠さず傾く。
「俺は隼人。こっちが岳で、木にいる鷹が瑠璃だ。西側に降りて、森を見ていたんだ」
『隼人か。こちらへ来てもよい』
呼ばれて近づくと、大きな頭が岩棚から下りてきた。
頬の羽が肩へ触れ、温かい息が首筋を撫でる。俺は嘴を避けて横へ回り、差し出された頬を指で掻いた。褐色のグリフォンは目を細めたまま、俺が手を止めるまで顔を上げなかった。
小さい方も岩棚から降りてきて、まず岳を見上げ、それから俺の手へ嘴の付け根を寄せた。
こちらも触ってほしいらしい。
「順番にするから、そんなに押すなよ」
両手でそれぞれの頬を掻いていると、頭越しに二頭の声が交わされた。
『この子は、まだ岩場を離れて飛んだことがない』
『飛べる。ここからなら』
若い方が、森から突き出した岩へ目を向けた。
岩棚の奥には羽毛と枯れ草が敷かれ、食べ残した骨が隅へ寄せられている。そこで育った子なのだろう。大きい方が身を起こすと、若い個体はすぐ隣へ並んだ。
『遠くまで行けとは言っていない。向こうの岩まで飛んで、戻ればよい』
母親らしい口ぶりに、若いグリフォンは返事をせず、翼を広げた。
その幅は、立っていた時の印象よりずっと大きい。
羽を打つたび胸が持ち上がり、後ろ脚に掛かる重さが抜けていく。だが、足が岩を離れそうになると、翼を畳んでしまった。
俺はその動きを見て、岩棚の縁へ目を移した。
飛び出す先には、木々に挟まれた細い岩場がある。母親なら何の苦もなく降りられるだろうが、初めて空へ出る個体にとっては、止まれる場所が小さく見えるはずだった。
「飛んだあと、あの岩へ降りるのが気になるのか?」
『足を置くところが狭い。枝にも当たりそうだ』
若いグリフォンは、ようやく翼を身体へ戻した。
飛び出せないのは、空が怖いからとは限らない。
鷹も、戻ってくる先に不安があれば、素直には降りてこないことがある。まして、目の前の相手はまだ、自分の身体を空中でどれだけ動かせるか知らない。
俺は母親へ顔を向けた。
「向こうの岩じゃなくて、もっと広いところならどうだろう。木に囲まれていない場所はあるか?」
『水が流れていく先に、草地がある。ここからは見えぬが、近い』
「そこを見せてもらいたい。岳が降りられる広さなら、この子も着地しやすいと思う」
母親は若い個体を見てから、岩棚を降りた。
◇
教えられた草地は、森を抜けた先の浅い窪地にあった。
幅は十分で、背の低い草が一面を覆っている。水場の流れも端を通っており、真ん中には大きな石も穴もなかった。島の外縁からは離れているから、少し走りすぎても、いきなり空へ投げ出されることはない。
俺は草を踏み、隠れた段差がないか確かめながら端まで歩いた。
岳は少し後ろをついてきて、やがて自分から空を見上げた。
『あの岩棚から、ここへ下りるだけなら飛べるだろう』
「俺もそう思う。お前が一度飛んで見せてくれたら、降りるところを確かめやすい。付き合ってもらえるか」
『背に乗れ。お前を乗せている方が、ゆっくり飛べる』
岳の背へ戻り、安全帯を留める。
母親は先に飛び上がり、森の向こうへ消えた。瑠璃がその後を追い、俺たちも岩棚へ戻る。
若いグリフォンは、さっきと同じ場所で待っていた。
俺は岳の背から、草地の方角を示した。
「森の向こうに広い場所があった。岳が先に降りるから、ここから見ていてくれ。降りてから何歩か走っても、まだ余裕がある」
『そこへ行ったら、ここへ戻れるか』
「帰り道も一緒に探すよ。母親もいるし、俺たちもすぐには帰らない」
若い個体は母親へ目を向けた。
『下からなら、岩棚へ戻るところを見せられる。まずは降りてこい』
俺は岳の首元へ手を置いた。
「頼む。急がなくていい」
岳が岩を蹴った。
翼が一度深く空気を叩き、俺たちの身体を森の上へ押し上げる。そこで力を抜き、緩やかに下りながら、さっき歩いた水の流れに沿って草地へ入った。
身体が起き、足が前へ出る。
爪が草を掴むと、岳は数歩進んでから止まった。俺が振り返っても、まだ草地の半分近くが残っている。
見上げた岩棚では、若いグリフォンが首を伸ばしていた。
母親がその隣から飛び立ち、今度は草地の脇へ降りる。着地する場所を塞がないところで、翼を畳んだ。
若い個体が翼を広げる。
踏み出した足が縁で止まり、そのまま一度、身体を引いた。
俺は声を掛けずに待った。岳も伏せず、空を見たまま静かに立っている。
少しして、岩棚から小石が落ちた。
若いグリフォンが、空へ出ていた。
最初の羽ばたきで身体が浮き、次の一打で思ったより高く上がる。風を受けた翼が揺れると、それを押さえようとして、左右の羽ばたきがばらついた。
岳の肩が動いたので、俺は鞍へ身体を寄せた。
すぐに地面が離れる。
岳は若い個体へ突っ込まず、その少し先、同じ高さへ出た。目の前を塞がない距離を取り、滑空へ移る。
『俺の翼を見ろ。そんなに打たなくても落ちはしない』
若い個体の羽ばたきが、一度止まった。
翼が大きく広がったまま、身体が前へ進む。
俺たちは水の流れを越え、草地へ向きを変えた。母親が下から鳴き声を上げると、若いグリフォンもそちらへ嘴を向けた。
その瞬間、右の翼が下がりすぎた。
身体が傾き、草地の端の木々へ寄っていく。
岳が短く鳴いた。
『そちらを見るな。降りる先を見ろ』
若い個体が顔を戻す。傾いていた翼が持ち上がり、進む先が幹から外れた。
俺は息を吐きながら、岳の動きに身体を合わせた。
手を伸ばしてどうにかなる距離ではないし、助けようとして近づきすぎれば、翼同士が触れる。岳はその手前で踏みとどまり、若い個体が立て直すだけの空間を残していた。
草地へ入ったところで、岳が身体を起こす。
若いグリフォンもそれを真似たが、足を出すのが少し遅れた。爪が地面を擦り、胸が前へつんのめる。
それでも翼を打って支え、後ろ脚を踏ん張った。
草が派手にめくれ、数歩走ったところで、ようやく身体が止まる。
俺たちが隣へ降りると、若い個体は広げた翼をそのままに、長く息を吐いていた。
『……地面が、近くなるのが速い』
「ああ。でも、ちゃんと自分で止まれたな」
鞍を降りて近づくと、母親が先に若い個体の肩へ嘴を寄せた。翼の付け根を確かめるように触れ、そのまま首の羽を整えてやる。
俺も足の運びを見た。片方をかばう様子はなく、羽にも目立った傷はない。
若いグリフォンは、振り返って森の上を見た。
さっきまで立っていた岩棚が、枝の間に小さく見えている。
『あそこから、ここまで来た』
「途中はよく滑れてた。岳の横を、ちゃんと飛んでただろ」
若い顔がこちらへ向き、それから岳へ向いた。
『もう一度、飛ぶか』
『息が整ってからだ。俺は水を飲む』
岳が流れの方へ歩き出すと、若い個体も翼を畳んでついていった。
◇
岩棚へ戻る時には、母親が先頭に立った。
草地から真っすぐ巣へ上がるのではなく、森の低い方へ回り、ゆっくり高度を取っていく。岳はその後ろを飛び、若い個体をすぐ横へ迎えた。
今度は、さっきほど激しく羽ばたかない。
時折母親を確かめながらも、目の前へ迫ってくる枝には近づかず、自分で翼を傾けて距離を取っていた。
岩棚へ足を掛けた時は、まだ勢いが余った。だが、奥へ駆け込んで止まれる場所がある。
若いグリフォンは枯れ草の手前で踏ん張ると、大きく翼を広げたまま、こちらを振り返った。
『戻れた』
その声は、空へ出る前よりずっと強かった。
俺は岳の背から手を上げ、母親が隣へ降りるのを待ってから、もう一度草地へ戻った。あの岩棚へ何頭も降りれば、せっかく帰り着いた若い個体の居場所が狭くなる。
荷を置いた場所へ戻る途中、瑠璃が俺の肩へ降りた。
『最後は、私より高かった』
「身体が大きいからな。お前は、よく見えるところにいてくれた。あの子が枝の方へ寄った時も、すぐ避けてくれただろ」
『翼が大きいから、近くには行かない』
瑠璃は肩の上で羽を整え始めた。
岳の横を歩いていた俺は、その首元へ手を伸ばした。
「お前も、よくあの距離で待てたな。俺は一瞬、ぶつかってでも止めるのかと思った」
『あれだけ翼を広げているところへ入れば、二頭とも落ちる』
「分かってる。だから、助かったって言ってるんだよ」
羽の下を掻くと、岳がわずかに首を下げた。歩みが遅くなったので、俺もそれに合わせる。
日本の山では、俺が腕を差し出して岳を待っていた。
今日はその岳が、初めて空へ出た若いグリフォンを待っていた。羽ばたく力ではなく、翼を止める時を教えてやれるようになっていた。
荷を積み直していると、森の向こうから二頭の鳴き声が聞こえた。
見上げれば、褐色の翼に続いて、少し小さい翼が空へ出ている。
母親の後ろを飛んでいた若い個体が、俺たちに気づいて向きを変えた。岳の上を大きく回り、草地へ降りるかと思えば、今度は自分で翼を傾けて森へ戻っていく。
その飛び方は、まだ少し忙しい。
それでも、岩棚の縁で足を止めていた姿とは違っていた。
「岳、俺たちも帰ろう。また来たら、あいつに島を案内してもらえるかもしれないな」
『今日より上手く飛べるようになっていればな』
俺が跨がると、岳は若い翼が森へ降りるまで見届け、それから草地を蹴った。
島の縁で風を受け、湖の上へ抜ける。
背後では、もう一度グリフォンの鳴き声が響いた。俺は振り返って手を上げ、岳と一緒に北の山へ向かった。
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https://youtube.com/shorts/spSkAdkT0sE?si=_5PpM7nCYZM6czxo
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