第40話 空の島には、見知った翼がいた
湖へ戻ってきたのは、リーベルで一日休んだ、その翌朝だった。
帰還した日にミラへ地図を見せ、銀嶺たちの草地と、南に見つけた港を報告した。浮き島の話をすると、彼女は俺の描いた絵をしばらく眺めていた。
「山の向こうを見に行ったら、空の上にまで行きたい場所ができたのね」
「ええ。木が生えていて、水も落ちていたんです。岳に乗れば、上を見られるかもしれません」
「帰ってきたら、また教えて。どんな場所なのか、私も気になるわ」
俺も早く確かめたかった。
岩の上に土があり、森が広がっている。あそこへ岳と下りてみたい。そのための道具を揃え、天気のよい朝を選んで小屋を出た。
途中で銀嶺の草地へ寄ると、本人も一緒に来ると言った。
『私も、あの上は見ていない』
「じゃあ、一緒に行こう。湖まで来てくれれば、あとは俺も場所を覚えている」
そうして今、銀嶺は岳の少し前を飛んでいる。
瑠璃は尾根を越えたところで俺の後ろへ下り、風を避けて身体を低くしていた。港へは向かわず、湖岸に沿って南へ進む。
やがて、雲の切れ目から、宙に浮かぶ岩の塊が現れた。
*
近づくにつれ、島は大きくなった。
船から見た時には、小さな丘のように思えた。けれど、森の端から端まで目で追うと、歩いて回るには相応の時間がかかりそうだった。
下側は、割れた岩を逆さにしたように尖っている。長い根が何本も垂れ、その先で水滴が光っていた。
水の流れ落ちている場所もある。
細い白い筋は湖まで届く前に風へ散り、霧となって消えていた。俺たちはその下を避け、島から距離を取ったまま高度を上げた。
森の先端が見える高さへ近づいた時、鞍が不意に持ち上がった。
俺は上体を伏せ、岳が身体を立て直すのを待った。羽ばたきが止まり、相棒は翼を傾けて岩壁から離れる。
『思ったより上がる。少し外を回るぞ』
「今、下から押されたな。風の向きは変わっていないように見えたけど、お前にはどう感じた?」
『風は横からだ。それとは別に、身体が浮いた』
銀嶺も岩壁から離れ、こちらへ戻ってきた。
普段より深く翼を畳み、高さを落としている。あちらも同じものを感じたのだろう。
『近くでは、上がりすぎる』
「ここへ寄る時は、少し加減が要るらしい。岳、外側でもう少し高さを取ろう。縁が見えてから近づいてくれ」
岳は大きく旋回した。
岩壁のそばで無理に上がろうとせず、離れた空を回りながら森と高さを合わせていく。俺は膝で鞍を挟み、余計に身体を動かさなかった。
やがて、草の生えた縁が見えた。
瑠璃が顔を上げ、島の西側へ嘴を向ける。
『あそこ、木が途切れている』
森の手前に、平たい岩と短い草の広がる場所があった。
その周りを一度回り、地面の様子を確かめようとした時、木々の奥で大きな影が動いた。
枝を揺らして、巨大な翼が広がる。
灰褐色の身体が森を離れ、こちらへ向かって浮かび上がった。
ロック鳥だった。
*
翼を広げた姿は、やはり大きかった。
岳と銀嶺の両方へ影が掛かり、俺は顔を上げた。近づいてきたロック鳥は、俺を見るとゆっくり首を傾けた。
『町で会った人間ではないか。今日は、お前がこちらへ来たのか』
「ああ。湖から、この島が見えてな。まさか、お前がいるとは思わなかったよ」
声に聞き覚えがあった。
リーベルの門前へ山角鹿を運んできた、あのロック鳥だ。あの時は地面から見上げていたが、今は俺も岳の背で空にいる。
ロック鳥は俺たちの周りを大きく回り、島へ向き直った。
『下りるなら、ついてこい。広いところがある』
俺たちが見つけた草地より、少し奥だった。
ロック鳥は島の端へ真っすぐ突っ込まず、横へ回り込んでから下りた。巨大な身体が地面へ触れるまで、ほとんど羽ばたいていない。
岳も、その通り道へ向かった。
島へ近づくと、また身体が持ち上がる。岳は翼を浅く畳み、高く出すぎないよう姿勢を変えた。
草地が足元へ近づき、前脚が地面を捉える。
俺は鞍の上で息を吐いた。
少し離れて銀嶺も下り、瑠璃が荷物から飛び立って枝へ移る。俺は安全帯を外し、岳の背から地面へ降りた。
靴底には、確かな硬さがあった。
土と草の匂いがする。葉が風に擦れ、木々の間では虫も鳴いていた。
目を閉じれば、山の草地へ下りた時と変わらない。
けれど、振り返れば岩の縁の向こうに遠い湖面があった。俺たちが歩いている地面の下には、何も続いていないのだ。
俺はしゃがみ、草の間の土へ触れた。
乾いた表面の下には湿り気があり、細かな根が伸びている。島の縁から離れたこの場所なら、普通に歩けそうだった。
ロック鳥が近づき、俺の前で頭を下げた。
手を伸ばすと、嘴の横へ頬を寄せてくる。首の羽毛へ指を入れて掻くと、大きな身体からゆっくり力が抜けた。
「ここまで案内してくれてありがとう。下りるところが見つかって助かった」
ロック鳥は目を細めたまま、さらに首を下げた。
俺は少し背伸びして、届くところまで羽毛を掻いた。町で会った時にも思ったが、人間の手では一度に撫でられる範囲が狭い。
横では、岳が地面を前脚で押していた。
数歩歩き、軽く跳ねてから下り直す。銀嶺も草地で翼を広げ、短く身体を浮かせていた。
『飛び立つのが楽だ』
銀嶺の言葉に、岳も翼を畳みながら頷いた。
『上がりすぎる理由は、やはりここにありそうだな』
俺は地面を踏み直した。
自分の身体では、はっきりした違いが分からない。けれど、二頭が揃って感じているなら、何かはあるのだろう。
*
ロック鳥が身体を休めていたのは、森に沿った岩場だった。
高い木の根元に古い骨が落ち、草の潰れた窪みには羽毛が残っている。雨を避けられそうな岩の張り出しもあった。
「ここをよく使っているんだな。俺たち、森の方も少し歩いてみたいんだが、構わないか?」
『よい。奥に水がある。火を使うなら、木から離れろ』
「分かった。今は歩いて見るだけにしておくよ」
俺は岳のそばへ荷物を下ろした。
弓と、水や救急用品の入った小さな袋を持ち、山刀が鞘に収まっていることを確かめる。瑠璃が先に森へ入り、低い枝へ止まった。
その下を通りながら、俺は地面を見た。
苔の間には小動物の足跡がある。低い草には食まれた跡が残り、木の根元には小さな糞も落ちていた。
鳥が休みに来るだけの岩場ではない。
この島の上でも、生き物が食べ、動き、暮らしている。
木々の間には光が入り、進むにつれて水音が聞こえてきた。森が開けたところに浅い池があり、その外へ細い流れが続いている。
銀嶺が水辺へ向かい、岳は周囲の木々を見回した。
俺も池の岸を歩いた。落ち葉が溜まる場所と、岩の露出した場所があり、流れ出した水は浅い溝へ集まっている。
下から見えた白い筋は、この先から落ちているのかもしれない。
流れに沿って少し進んだところで、俺は足を止めた。
草の穂先に、青白いものが揺れていた。
掌へ載るほどの、石の欠片だった。
初めは草に支えられているように見えたが、下へ枝を差し込むと、そのまま通った。欠片は地面から少し浮き、風に吹かれてゆっくり向きを変えていた。
「岳、こっちへ来てくれ。石が浮いている」
呼ばれた岳が、俺の肩越しに顔を寄せた。
俺はしゃがみ、割れた縁を避けて指を触れた。冷たく、硬い。押すと下がるが、指を離すと、また元の高さへ戻っていく。
そっと掴んで持ち上げた。
見た目の大きさに比べて、手応えが軽い。掌を開くと、欠片はすぐには落ちず、指の上でゆっくり傾いた。
『それは、お前の手でも浮くのか』
「ああ。飛んでいる俺たちだけじゃなかったんだな」
俺は近くの小石も拾い、同じように掌へ載せた。
こちらは指を傾けると、普通に土へ落ちた。すべての石が浮くわけではないらしい。
水を飲みに来たロック鳥が、俺の手元へ顔を向けた。
『その色の岩は、向こうにもある』
嘴が示したのは、島の中央寄りだった。
木の根に覆われた岩の一部に、薄く青い筋が見える。近づくと、似た色の部分が何本も奥へ続いていた。
この島が浮いていることと、関係があるのかもしれない。
とはいえ、欠片が一つ浮いたからといって、島全体の仕組みまで分かったわけではない。俺は岩を掘ろうとはせず、見えている筋の位置を覚えた。
手にした欠片を布で包み、小袋へ収める。
口を締めて地面へ置くと、袋全体が浮くことはなかった。持ち帰れることを確かめ、ほかの荷物へ紛れないよう、小さな結び目をつけておいた。
「これを持ち帰って、詳しい人に見てもらおう。島のことも、少し分かるかもしれない」
岳は青い筋から顔を上げ、森の奥を見た。
『この先にも、開けたところがある。もう少し歩けそうだ』
「ああ。水場の位置を地図へ入れたら、そっちへ行こう」
*
俺たちは森を横切り、反対側の草地まで歩いた。
ロック鳥は途中で岩場へ戻り、銀嶺は草の残る場所へ寄り道をした。瑠璃は木々の間を飛び、細い枝から次の枝へ移っていく。
知らない足跡を見つけるたびにしゃがみ、落ち葉が厚いところでは足元を確かめた。島の端に近づけば、縁の土へ乗らず、露出した硬い岩の上から周囲を見る。
東側の開けた場所からは、湖の向こうに別の岸が見えた。
山並みが低くなり、その間を大きな川が抜けている。港の船が向かう先は、あの辺りにも続いているのだろう。
俺は縁から十分離れた場所へ腰を下ろし、地図を広げた。
港から見えた岬と、ここから見える岸を比べる。島の形を正確には描けなくても、着陸した西側の草地、水場、ロック鳥の休み場所は書き留めておける。
紙をしまって立ち上がると、岳が草地へ出た。
地面を軽く蹴り、翼を広げる。
浅い羽ばたきを一つ加えただけで、身体が木の高さまで上がった。岳は翼を打ち続けず、角度を変えて草地へ戻ってきた。
俺は着地したそばへ歩いた。
「さっきより、ずいぶん静かに飛べたな」
『強く打たなくていい。上がる分を抑える方に慣れれば、悪くない場所だ』
「俺を乗せて下りた時には、まだ加減が分からなかったんだろ。上手く合わせてくれて助かったよ」
岳は首を伸ばし、俺の肩へ嘴を軽く触れさせた。
『帰りは、もう少し楽に出られる』
その声に、俺も笑った。
見たい場所はまだ残っていたが、今日ですべてを回る必要はない。水場も着陸できる草地も見つかり、島で身体が浮かされることも分かった。
俺たちは道を確かめながら、ロック鳥のいる岩場へ戻った。
*
ロック鳥は木陰で休んでいた。
俺が近づくと目を開き、大きな頭を持ち上げる。
「今日はここまでにして帰るよ。次は東の林も歩いてみたいんだが、また下りてもいいか?」
『来ればよい。私が留守でも、水場は使って構わん』
「ありがとう。寝床を荒らさないようにするよ」
俺は首へ手を伸ばし、羽毛を撫でた。
ロック鳥はしばらくそのままにしていたが、俺が離れると再び頭を伏せた。小屋までついてくる様子はなく、木陰でゆっくり目を閉じる。
俺たちは荷物を積み直し、西側の草地へ向かった。
銀嶺が先に空へ出て、瑠璃が岳の背へ戻る。俺も鞍へ上がり、安全帯を締めた。
岳は岩の縁から飛び出す前に一度翼を広げ、身体が持ち上がる分を確かめた。
地面が足元を離れる。
俺は鞍へ身体を預け、岳が島から距離を取るのを待った。やがて羽ばたきが深くなり、相棒はいつもの飛び方へ戻っていった。
振り返れば、森を載せた岩の島が空の中に残っていた。
上がどうなっているのか分からず、船から見上げていた場所だ。今はそこに、ロック鳥の休む岩場と、木々に囲まれた水場があることを知っている。
鞍袋の中には、青白い石の欠片も入っていた。
俺は袋の留め具へ一度手を添え、前へ向き直った。
銀嶺が北の山へ進路を取る。俺たちはいったん草地へ寄り、水を飲んでからリーベルへ帰るつもりだった。
今夜、小屋へ戻ったら地図を描き直そう。
空の島へ下りたことを、忘れないうちに残しておきたかった。
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