第39話 船から見上げた、空の島
朝、寝具を畳んでいると、銀嶺が岩陰を覗き込んできた。
俺が顔を上げると、嘴が肩へ軽く触れる。昨日の約束どおり、迎えに来てくれたらしい。
『湖へ行こう。上も晴れている』
「こっちも、もう出られる。今日は船の集まる場所まで頼むよ」
火の跡に熱が残っていないことを確かめ、荷物を岳の背へ積んだ。瑠璃も岩の上から下りてきて、騎乗具の後ろへ止まる。
草地では、ヒポグリフたちが朝の草を食んでいた。そばへ来た一頭の首を撫でてから、俺は鞍へ上がった。
今日は湖岸を見たあと、リーベルへ帰るつもりだった。ここから戻る道も初めてなので、昼を過ぎるまでに北へ向かいたい。
銀嶺が先に飛び立ち、岳も後を追った。
低い尾根を越えると、昨日見た湖が正面へ広がる。朝の光を受けた水面は眩しく、岸に近いところだけが緑がかっていた。
白い帆が、その上をゆっくり動いている。
銀嶺は湖の中央へは向かわず、森に覆われた岸に沿って東へ進んだ。丘の影を抜けたところで、木々の間から屋根が現れる。
その先には、何本もの桟橋が突き出していた。
帆を下ろした船が並び、小舟がその間を行き来している。岸には網が干され、荷を積んだ人や、桶を担いだ人が動いていた。
『ここだ。船は、あの木の道につく』
「ありがとう。ちゃんと町になってるな」
銀嶺の知っていた場所が、目の前で人の暮らす町になった。
俺は岳へ、家の少ない岸の方を指した。
「まず、あの砂利浜へ下りよう。船のそばへ急に出たら、驚かせる」
岳は町から距離を取り、浜の上を一周してから着地した。
*
下りてすぐ、桟橋の方から人が来た。
槍を持った男が二人と、その後ろに、太い綱を肩へ掛けた中年の男がいる。先頭の二人は岳を見て足を緩めたが、俺が鞍から降りると、槍の穂先を少し下げた。
「突然下りて、すみません。リーベルから来た冒険者の神代隼人です。湖が見えたので、町へ寄らせてもらいました」
騎乗具についたギルドの印を示すと、一人が近くまで来て確かめた。
「北の山から来たのか。港の中へ飛び込まれると困るが、ここなら構わない。町では、そちらのグリフォンをどうするつもりだ?」
「ここで待ってもらいます。岳という、俺の相棒です。肩にいる蒼冠鷹は瑠璃、こちらのヒポグリフが銀嶺です」
紹介している間、岳は翼を畳んでいた。銀嶺も少し離れたところに立ち、男たちを眺めている。
槍を持った男はその様子を見て、仲間へ頷いた。
「近づかないよう、港の者に知らせておく。何かあれば、桟橋の詰所へ来てくれ」
二人が戻ると、綱を担いだ男が岳を見上げた。
「グリフォンに乗って、リーベルからか。陸の道より早いとは聞くが、本当に山を越えて来られるんだな」
「俺一人では無理ですが、岳のおかげで動けています。こちらの町へ来るのは、今日が初めてです」
「だったら、港の方へ来るといい。俺はこれから船を出すところだが、出るまでなら話せるぞ」
湖の向こうの村へ、荷と人を運ぶ船の船頭だという。
俺が礼を言うと、銀嶺が顔を寄せてきた。
『私は、群れへ戻る』
「ここまで案内してくれてありがとう。また草地へ会いに行くよ」
首を撫でると、銀嶺は手へ頬を預け、それから北の山へ向かった。
男は飛び去る姿を目で追っていた。
「ヒポグリフは帰るのかい」
「ええ。あの山の草地に群れがいるので。俺たちを案内してくれたんです」
男は山と俺を交互に見て、感心したように息をついた。
俺は岳の首へ手を置き、少し町を見てくると伝えた。岳は砂利浜の乾いたところへ身体を伏せ、こちらを見送った。
*
港へ近づくにつれ、水と魚の匂いが濃くなった。
桟橋では、濡れた網から小魚を外している。別の船からは籠が下ろされ、待っていた女たちが中を覗いて値をつけていた。
湖を渡ってきたらしい荷車の車輪も見えた。船そのものは大きくないが、幅があり、真ん中へ荷を置けるようになっている。
俺が足を止めると、船頭がそちらを指した。
「対岸から木の器を運んできた船だ。帰りは麦を積む」
「向こう岸にも、町があるんですね。ここから見ると霞んでいて、どのくらい広い湖なのか分からなくて」
「あそこに見える岬の先にも、まだ水は続いているよ。北の山から初めて下りてきた者は、だいたい同じ顔をする」
俺が眺めていたのは、湖の一部にすぎなかったらしい。
船頭についていくと、桟橋の端に、帆を下ろした船が繋がれていた。船底には荷が低く積まれ、その上へ布が掛けられている。
「今日は向こうの村へ行く。半日以上は掛かるから、帰りを急ぐなら乗らない方がいいな」
「今日はリーベルへ戻るつもりなんです。ただ、少し湖の上へ出てみたいとは思っていました」
俺がそう答えると、隣の小舟で網を畳んでいた男が顔を上げた。
「それなら、俺が沖の網を見るついでに乗せてやれるぞ。こいつの出る航路を空けてからになるが、一回りで戻る」
「お願いできますか。もちろん、船賃は払います」
「なら、話は早い。乗るのは一人と、その鷹だけだな」
俺は頷き、先に岳へ伝えに戻った。
浜で休んでいた岳は、俺が指した小舟を見てから顔を向けた。
『乗りたいなら行ってこい。俺も、少し飛んでくる』
「ありがとう。町の上は避けて、湖の方で頼む。戻ったら、あの船に乗ってるよ」
岳は立ち上がり、翼を伸ばした。
俺が小舟へ戻って船頭に事情を伝えると、彼は浜を離れた大きな影を見上げた。
「じゃあ、あれが上からついてくるわけか。今日は妙に安心できるな」
*
小舟は、櫂で桟橋を離れた。
岸の近くでは、船底へ当たる水音がよく聞こえる。やがて広いところへ出ると、小さな帆が上げられ、舟がゆっくり傾いた。
俺は腰を浮かせず、船頭に言われた位置へ座り直した。
岳の背の揺れとは違う。
持ち上げられたと思ったあと、足元が遅れて下がる。身体を船へ預けすぎず、膝で揺れを受けるようにすると、少し楽になった。
瑠璃は俺の肩を離れ、船縁の出っ張りへ止まっていた。湖面を覗き込み、時々首を傾けている。
『水の中に影がある』
「魚が見えるのか。飛び込むなら、戻ってこられる距離にしておけよ」
船頭がこちらを見たので、俺は瑠璃が水の中を気にしていることを伝えた。
「その鷹は魚も狙うのかい」
「動くものは、気になるようです。今日は初めての湖なので、いつもより忙しそうですね」
瑠璃は俺たちに構わず、また水を覗いた。
船頭は笑い、帆の綱を調整する。風を受けた布が膨らむと、舟の後ろへ細い波が伸びた。
俺も頬へ当たる風を感じた。
空では岳の翼を持ち上げていたものが、ここでは布を押し、舟を進めている。前へ出る速さはまるで違うのに、風が変わった時には、船頭の手が迷わず動いた。
頭上を影が横切った。
岳が舟から十分離れた位置を回り、こちらへ顔を向けている。
俺が手を上げると、翼を傾けて湖の方へ進んだ。羽ばたきを止めた姿が、水面にも薄く映る。
船から岳を見上げる日が来るとは思わなかった。
俺がその影を追っている間に、船頭は浮きを見つけて帆を下ろし始めた。
「ここからは網を見る。片側へ身を乗り出さず、そのまま座っていてくれ」
「分かりました。邪魔にならないようにしています」
櫂を使って舟を寄せ、船頭が綱を手繰る。俺も頼まれたところで綱を受け、舟の中へ重ねていった。
水から上がった網の中で、銀色の魚が跳ねた。
瑠璃が冠羽を立てたが、飛びつきはしない。船頭が魚を籠へ移すまで、首だけが忙しく動いていた。
*
網を見終えた頃、遠くの雲が切れた。
初めは、雲の下に山の先が出ているのだと思った。
けれど、その下にあるはずの斜面が見えない。暗い岩肌は途中で終わり、そのさらに下には、淡い青空が続いていた。
俺は手にしていた綱を置いた。
「あの岩、下が空いて見えるんですが……島が浮いているんですか」
船頭が振り返り、俺の見ている方を確かめた。
「ああ、浮き島か。今日はよく見えるな」
あまりにも普通の返事だったので、俺はもう一度そちらを見た。
雲が流れるにつれ、岩の上に緑が見え始める。草だけではない。輪郭の細かな部分には、木も生えているようだった。
島の下側は、大きな岩を割り取ったように尖っていた。その端から細い白い筋が下がり、途中で風に散っている。
水まで流れ落ちているらしい。
「ここからだと小さく見えますが、近くへ行けば、かなり大きそうですね」
「湖の南側を通ると、もっとよく見える。船では下を避けるよ。時々、岩や木の枝が落ちてくるからな」
「人が住んでいるんでしょうか」
「俺は知らない。あそこへ上がったこともないしな。大きな鳥が下りるのは、見たことがある」
船頭はそう言って、綱を整えた。
俺は島から目を離せなかった。
岳に乗れるようになってから、山の上へ出れば、たいていは周りより高いところから眺められた。今見ている場所は、その空の中に地面がある。
岳の声が、頭上から届いた。
『隼人、あれを見たか』
「ああ。岩が浮いてる。上には木もあるみたいだ」
岳は島へ向けて一度首を伸ばし、それから舟の上空へ戻ってきた。
『下から見える岩は、かなり大きい。ここへ来る途中は、雲に隠れていたな』
俺は頷いてから、船頭へ顔を向けた。
「相棒も、上から見て驚いています。俺たちは、初めて見ました」
「山の向こうから来たんじゃ、そうか。湖の者は見慣れているが、近づけるとなれば話は別だな」
船頭は岳を見上げた。
「あの翼なら、上まで届きそうだ。だが、今日は帰るんだろう。日が傾く前に、岸へ戻ろうか」
「ええ。見せてもらえてよかったです。まずは場所を覚えて帰ります」
船頭が帆を上げ、舟を町へ向けた。
俺は袋から地図を取り出した。舟が揺れるので細かくは描けなかったが、岸の岬と島の見える向きだけを書き留めた。
距離も高さも、まだ分からない。
それでも、目指してみたい場所が一つ増えた。
*
港へ戻り、船頭へ船賃を渡して礼を言った。
水を補給し、湖で獲れた魚を焼いて売っている店で昼食を取る。腹を満たして浜へ戻ると、岳はすでに下りていた。
俺が騎乗具を確かめる間、相棒は湖の向こうを見ていた。
「気になるな、あの島」
『あそこへ下りるなら、端から近づいた方がよさそうだ。下から上がって、岩が落ちてきては避けづらい』
「俺も、近くで見たい。戻ったら場所を調べて、日を改めて来よう」
岳がこちらを向いた。
『なら、銀嶺の草地でまた休めるな』
俺は笑い、首の横を撫でた。
「ああ。帰りに、面白いものを見つけたと伝えよう」
北へ飛び立つと、港の船が足元で小さくなっていった。
桟橋から手を上げる人がいる。さっきの船頭かどうかまでは分からなかったが、俺も手を上げて返した。
山へ向かう前に、一度だけ南を振り返る。
雲の切れ目に、緑を載せた岩の島が見えていた。
あの上では、何が暮らしているのだろう。
俺は身体を前へ戻し、岳の背へ座り直した。銀嶺に場所を教えてもらった草地を通り、今日はリーベルへ帰ろう。
次にこの湖へ来る時は、あの島へ近づけるように。
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YouTubeでショート動画作ってみました
https://youtube.com/shorts/spSkAdkT0sE?si=_5PpM7nCYZM6czxo
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