第38話 銀嶺の群れと、まだ知らない空へ
高原へ下りると、銀嶺が草地の向こうから歩いてきた。
岳の背から降りた俺へ嘴を寄せ、首を撫でられるまま目を細める。少し離れたところでは、ほかのヒポグリフたちが短くなった草を食んでいた。
いつも群れが休んでいる辺りは、地面の見える場所が増えている。斜面の上にはまだ草が残っていたが、穂の色は以前よりも褪せていた。
『明日、南へ移る。隼人も来るか』
銀嶺の声に、俺は手を止めた。
「お前たちと一緒に行っていいなら、ぜひ見たいな。どのくらい先なんだ?」
『山を二つ越える。前にいた草地だ』
南の空には、尾根が幾重にも重なっていた。
手前は何度か飛んでいる。その向こうを知っているのは銀嶺の方だった。
「じゃあ、泊まる支度をしてくる。明日の朝、ここへ来れば間に合うか?」
『うん。朝に飛ぶ』
俺が岳へ顔を向けると、相棒はすでに南を見ていた。
『俺も行く。あの先は、まだ飛んでいない』
瑠璃も枝から下り、岳の騎乗具へ止まった。冠羽を立てて南を見る姿に、留守番をする気はなさそうだ。
「決まりだな。銀嶺、明日は頼むよ」
銀嶺は俺の肩へ嘴を触れさせたあと、群れの方へ戻っていった。
その後ろ姿を見ていると、別の一頭がそばへ来て、空いた手へ頬を押しつけた。首筋を掻いてやると、身体を寄せたまま目を閉じる。
移動するからといって、別れになるわけではない。
明日は俺たちが、銀嶺についていく。
町へ戻ってミラに一晩小屋を空けると伝えると、急ぎの依頼は入っていないとのことだった。
「銀嶺が案内してくれるなら、心強いわね。戻ったら向こうの話を聞かせて」
「ええ。俺たちも初めて行く場所なので、よく見てきます」
小屋へ帰り、野営道具を広げた。
寝具を乾かし、縄の傷みを確かめる。食料は予定より一日分余計に持ち、雨を避ける布はすぐ取り出せる位置へ収めた。
大きな荷物を運ぶ仕事ではないので、岳の負担は軽くできる。二つに分けた袋の重さを揃え、最後に水筒を置いて、支度を終えた。
*
翌朝の高原には、薄い霧が流れていた。
群れはすでに起きていて、翼を伸ばしたり、草を食んだりしている。俺たちが下りると何頭かが近づき、差し出した手へ嘴を寄せた。
銀嶺にも首を撫でて挨拶を済ませ、俺は岳の鞍へ戻った。
今日は銀嶺に鞍をつけない。群れと一緒に飛ぶ日に、俺まで背へ乗って動きを重くすることはなかった。
瑠璃は初め、自分で飛ぶ。長くなれば岳の背へ戻れるよう、荷物の上には止まれる場所を空けてある。
高原の端で、大柄なヒポグリフが翼を開いた。
周りの仲間が顔を上げ、少しずつ間隔を取る。最初の一頭が走り始めると、後脚が草地を強く蹴った。
翼が身体を持ち上げ、伸びていた脚が腹の下へ収まる。
続く仲間も次々に地面を離れた。蹄の音と羽ばたきが重なり、霧の上へ灰白色の身体が浮かび上がっていく。
銀嶺もその中にいた。
俺は安全帯を締め直し、岳の首の横へ手を置いた。
「俺たちは後ろから行こう。みんなの飛び方を、近くで見ていたい」
岳は群れが十分に上がるまで待ち、草地を蹴った。
霧を抜けると、朝日を受けた翼が前方へ広がっていた。深く羽ばたくものも、早めに滑空へ移るものもいる。高さや速さは揃っていないが、互いの翼へ近づきすぎない距離は保っていた。
岳は真後ろを避け、少し横へ離れた。
そこへ銀嶺が一度戻ってきた。
『最初の尾根の向こうも晴れている』
俺が手を上げると、銀嶺は大きく旋回し、群れの前へ戻っていった。
小屋へ来る時には真っすぐ俺のところへ下りてくる相手が、今は仲間の間を行き来している。俺はその姿を目で追いながら、岳の動きへ身体を合わせた。
*
二つ目の尾根へ近づいたところで、群れが進路を変えた。
谷へ下りかけた一頭が身体を起こし、手前の広い場所を回り始める。銀嶺も入口まで進んだが、奥へ入らずに戻ってきた。
『下は押し戻される。前に来た時と違う』
谷底に溜まった霧の端が、千切れるように流れていた。木々の梢も、斜面の上と下で違う向きに揺れている。
向かいの岩壁へ当たった風が、谷の中で巻いているのだろう。
俺は西の斜面へ目を向けた。
こちらは背の低い草が同じ方向へ倒れている。尾根の肩まで斜面が続き、その上には、まだ余裕のある空が見えた。
「銀嶺、西から上がってみよう。あの斜面なら、谷へ下りずに越えられそうだ」
銀嶺が顔を向け、先に西へ進んだ。
岳もその後を追う。斜面を斜めに横切った銀嶺が羽ばたきを止めると、その身体が翼を広げたまま持ち上がった。
少し遅れて、岳の背にも同じ力が伝わってきた。
鞍が上へ押され、俺は上体を前へ預ける。岳は翼の角度を細かく変えながら、高さを取っていった。
『このまま上がれる。肩の向こうまで出るぞ』
俺は手綱を引かず、相棒に任せた。
谷底の霧が遠ざかり、尾根の向こうの空が開く。越えた先にも急な壁はなく、いったん下りられそうな岩場があった。
銀嶺はそこで引き返した。
群れへ戻って短く鳴き、自分が上がった斜面へ向かう。大柄な一頭がその後を追い、ほかの仲間も旋回を広げて進路を変えた。
俺たちは尾根の肩を越え、岩場の近くで待った。
低いところを飛んでいた一頭が、すぐには上がってこない。斜面に沿って回り直す後ろへ、銀嶺がついた。
俺が見ている間に、その一頭も十分な高さを取った。銀嶺は並んで尾根を越え、仲間が下りるのを見届けてから、自分も地面へ降りた。
*
岩の間には、細い水の流れがあった。
上流側を確かめて水を汲み、俺は岳のそばへ腰を下ろした。群れも水を飲み、草の残る岩の縁へ散っている。
銀嶺が近づいてきたので、首へ手を伸ばした。
「最後の一頭が上がるまで、ついていたんだな。お疲れ」
『あれは、いつも低く飛ぶ。後ろから見ていた』
撫でていると、大柄なヒポグリフがそばへ来た。銀嶺の首へ嘴を触れさせ、しばらく並んで立っている。
俺は手を離し、二頭が水場へ戻るのを見送った。
銀嶺には、群れの中で過ごしてきた時間がある。
どの仲間が低く飛ぶのかも、前に通った谷の様子も、俺よりよく知っていた。今日初めて見せてもらう姿なのに、仲間と並ぶ銀嶺には少しも無理がなかった。
瑠璃が近くの岩へ下り、羽を整え始めた。
俺もパンを取り出して食べ、水を飲んだあとで地図を広げる。谷の位置だけでなく、風を拾って上がった斜面と、今休んでいる岩場も書き足した。
岳は紙を覗いていたが、俺がしまうと、その場で身体を伏せた。
群れも急いで出ようとはしなかった。銀嶺が岩の縁で目を閉じるのを見て、俺も荷物へ背を預けた。
*
尾根を越えた先では、山と山の間が大きく開けていた。
南へ傾いた斜面に緑の草地が何段も重なり、窪地を細い川が流れている。高い木は水辺に集まり、その外側には獣の踏み跡が幾筋も続いていた。
群れは高度を下げ、川に近い草地へ向かった。
岳も少し離れた場所へ下りる。
鞍から降りると、湿った土の感触が靴底へ伝わった。草を踏めば青い匂いが上がり、先ほどまでいた尾根より風も柔らかい。
銀嶺が俺の横へ来た。
『ここだ』
俺は周りを見渡した。
すでに草を食み始めたものもいれば、斜面の上へ歩いていくものもいる。群れが落ち着くにつれ、辺りに草を引きちぎる音が増えていった。
「いいところだな。俺たちも、今夜はここで休ませてもらおう」
山側に大きな岩があり、その下には乾いた地面が残っていた。
獣の糞や骨がないか周囲を見て回り、雨が降った時に水が集まらないことも確かめる。岳が岩の横へ身体を寄せ、翼を開いても支障がないと分かったところで、荷物を下ろした。
寝具を広げ、水を汲む場所を決める。
その間に銀嶺は低い丘へ上がっていた。俺の方を見て、一度翼を持ち上げる。
『隼人、こっちへ来て。大きな水が見える』
水場なら、すぐ下にもあった。
だが、丘を登りきったところで、俺は銀嶺の言った意味を知った。
南の山々の向こうに、広い水面が横たわっていた。
手前の岸は森に沿って曲がっている。その奥は霞み、対岸がよく見えない。北で調べた湖とは、比べものにならない大きさだった。
岸に近いところで、白いものが光っていた。
しばらく眺めると、それがゆっくり位置を変える。後ろには、水面を分けた細い筋が伸びていた。
「帆だ。あそこに船がいる」
岳も俺の横へ上がり、同じ方へ顔を向けた。
俺は銀嶺を振り返った。
「こんな湖があるなんて知らなかった。お前は、岸の方まで行ったことがあるのか?」
『ある。あの森の向こうに、船が集まっている。白い家もある』
銀嶺の嘴が、湖岸の一角を指した。
俺は袋から地図を取り出した。リーベルと東の盆地、その間の尾根や谷は描いてあるが、この湖までは入っていない。
丘から見える岸の向きを、空いているところへ書き込む。
大きさはまだ決められない。森に隠れている場所も、銀嶺が示した辺りへ小さく印をつけるだけにした。
「明日は、あの岸を見に行きたい。船のいるところまで案内してもらえるか」
『うん。一緒に行こう』
俺は紙から顔を上げ、もう一度湖を見た。
草地へ遊びに来たはずが、知らない町への道まで見つかった。北へ向かう時には山の奥ばかり気にしていたが、南にも、こんな景色が広がっていたのだ。
*
夕方には、岩陰の寝床を整え終えた。
持ってきた食料を食べ、小さな火で湯を沸かす。水場から運んだ分を一度に使い切らないよう、明朝の分は別にしておいた。
銀嶺が草地から戻ってきたのは、その頃だった。
火から少し離れたところへ立ち、俺が手を伸ばすと首を下げる。羽毛へ指を入れて掻くと、ゆっくり目を閉じた。
『ここからも、小屋へ行く』
「待ってるよ。俺も、今度からはお前に会いに来られるな」
銀嶺は嘴を俺の肩へ触れさせた。
しばらくそうしていたが、仲間の低い鳴き声が聞こえると顔を上げた。俺が手を離すと、草地へ戻っていく。
瑠璃は岩の高いところで羽を整え、岳は寝床の横へ身体を伏せていた。
俺は湯の入った器を持ち、相棒のそばへ腰を下ろした。岳は顔だけこちらへ向け、俺が座るとまた草地へ目を戻す。
風で揺れる草の間に、ヒポグリフたちの背が見えた。
いつもは小屋へ来た銀嶺を迎え、帰っていく姿を見送っている。今日は俺たちの方が、あの群れのそばで夜を過ごす。
器を空にしてから、地図を油布へ包んだ。
明日は湖岸へ向かう。船が集まるところにどんな町があるのか、空から見るだけでも楽しみだった。
火を始末して寝具へ潜ると、岳の身体に遮られて風が弱まった。岩の上では瑠璃が片脚を羽毛へ収めている。
草地の向こうで、もう一度ヒポグリフが鳴いた。
俺はその声を聞きながら目を閉じた。銀嶺が朝を迎えに来てくれるまで、今夜はここで休もう。
──────────────────
YouTubeでショート動画作ってみました
https://youtube.com/shorts/spSkAdkT0sE?si=_5PpM7nCYZM6czxo
──────────────────




