第36話 俺が地上で、岳が空で
小屋の戸口で矢羽を直していると、瑠璃が低い羽音とともに戻ってきた。
いつもの止まり木には向かわず、俺の前へ下りる。青い冠羽が立ち、顔は北東を向いたままだった。
『見張り塔に、人がいる。道の上にもいる。膜の翼が、二頭』
「ワイバーンか。人を狙っているのか?」
『道の人へ下りた。大きな鷲が追い返したけど、まだ回っている』
俺は矢をしまい、開けていた袋の口を締めた。
「岳、塔へ行く。人が襲われている」
屋根の下から出てきた岳が、すでに空を見ていた。
四枚翼のグリフォンと会った昨日も飛んでいるが、今朝は食欲もあり、足取りに重さはなかった。俺は左右の翼を見てから騎乗具へ手を掛け、水と救急用品を積んだ袋が動かないことを確かめた。
弓は鞍の脇へ留める。飛びながら持ち続けるより、今は両手を空けておきたかった。
「瑠璃、先に戻って人の位置を見てくれ。ワイバーンには近づくな」
『塔の上から見る』
瑠璃が飛び立つと、岳は俺が安全帯を締めるのを待って地面を蹴った。
昨日の夕方、ミラには四枚翼の姿を絵に描いて報告した。驚かれはしたが、その話を詳しく整理するのは後でいい。
今は北東の尾根を越え、人のいる場所へ急ぐ。
*
塔が見える手前で、岳は一度大きく高度を上げた。
石造りの屋根の上を、灰褐色の翼が横切っている。岩翼鷲だ。その少し上にはワイバーンが一頭、塔の北側にはもう一頭がいた。
道には小さな荷車が斜めに止まり、外された曳き綱が垂れていた。荷車を引いてきた獣の姿は見えない。
人影は塔の入口に二つと、荷車の脇に一つあった。
『道の人は、足が動かない。入口の人が出ようとすると、膜の翼が下りてくる』
屋根の低い側に止まった瑠璃が教えてくれた。
塔の入口から荷車までは、走れば短い距離だ。けれど、何もない道を人が一人で渡るには、頭上の二頭が近すぎる。
岩翼鷲がワイバーンへ迫り、翼を大きく開いた。相手は旋回を狭め、塔から離れる。だが、その隙に北側の一頭が荷車へ向きを変えた。
岳の首が下がった。
『先に、あちらを落とす。身体を伏せろ』
俺は上体を前へ倒し、膝で鞍を挟んだ。
岳が翼を畳むと、道と荷車が一気に近づいた。風の音が耳を塞ぎ、目の端で塔の壁が上へ流れていく。
ワイバーンがこちらに気づいて首を回した時には、岳はその上にいた。
直前に翼を開いて速さを調整し、両前脚を背へ叩き込む。後ろへ持っていかれないよう俺も鞍へ身体を寄せた。
鈍い音とともに、ワイバーンの姿勢が崩れた。
岳は押さえ続けず、爪を離して斜め上へ抜ける。翼を立て直せなかった相手は道の外へ落ち、低い木を折って斜面を滑った。
すぐには上がってこない。
岳が塔の方へ向き直る間に、俺は入口を指した。
「あそこへ下ろしてくれ。俺が道の人を中へ入れる」
『もう一頭がいる』
「岩翼鷲が押さえてる。入口まで下りてもらえれば、あとは地上で動ける」
岳は屋根の上と斜面を見比べた。
俺たちが二頭を追っている間も、怪我人は道へ残る。助けるには、どこかで背中を降りなければならない。
『戸口から遠くへ出るな。俺が先に間へ入る』
岳は塔の前へ下り、荷車とワイバーンの間を塞ぐ位置で翼を広げた。
俺は安全帯を外して飛び下り、袋を肩へ掛けた。
*
入口にいたのは、旧道の調査で顔を合わせた男だった。
隣の若い男は毛布を抱えている。二人ともこちらへ駆け寄りかけたが、俺は片手を上げて止めた。
「荷車の横にいる人を運びます。動けないのは足だけですか?」
「ああ。車輪を直している時に襲われて、逃げる際に右足を挟まれた。頭は打っていないと言っている」
「毛布を持って一人だけ来てください。もう一人は戸口を空けておいてください」
俺と若い男が出ると、岳も道の方へ進んだ。
空から見ていた時より、荷車は塔から離れて感じた。足元には割れた板が散り、道の端では下草が潰れている。
怪我人は荷車の横へ身を寄せていた。右足の靴を緩め、腫れ始めた足首を両手で支えている。顔は青いが、俺たちを見ると自分から背筋を起こした。
「肩や背中に痛みはありませんか。持ち上げる前に教えてください」
「足だけだ。立とうとしたが、右には体重を掛けられん」
「右足を地面から離したまま運びます。肩へ腕を回せますか」
男が頷いたところで、上から岩翼鷲の声が届いた。
『こちらへ戻るぞ。上へ近づくな』
見上げると、もう一頭のワイバーンが塔の横を抜けようとしていた。岩翼鷲が外側から迫っているが、相手は高さを捨て、道へ頭を向けている。
俺は男の左脇へ腕を入れた。
「岳が間に入ります。今のうちに運びましょう。右脚は毛布で支えてください」
若い男が毛布を細くまとめ、怪我人の膝の下へ差し入れた。俺たちは顔を見合わせてから持ち上げ、塔へ向かって歩き始めた。
怪我人は左脚で身体を支え、できる範囲で動いてくれる。それでも、急げば右足が揺れる。
すぐ横で、岳が低く鳴いた。
ワイバーンの影が道へ差したが、岳は逃げなかった。前脚を踏ん張り、開いた嘴を相手へ向ける。
空から下りかけたワイバーンが、翼を打って進路を変えた。
その横腹へ岩翼鷲が迫る。翼の端を爪で掠められた相手は、塔の壁へぶつかる寸前で上昇した。
俺たちは止まらず戸口へ入り、待っていた男へ怪我人の身体を渡した。
「中へ入れました。岳、もう動ける!」
呼び掛けると、岳はこちらへ一度だけ顔を向けた。
そのまま道を蹴り、ワイバーンの下へ飛び上がる。
俺は追って外へ出ず、戸口から空が見える位置へ膝をついた。怪我人の足を床へ置かせず、畳んだ毛布を下へ入れる。
石壁を隔てた外から、重い羽ばたきが響いた。
*
足首は腫れていたが、皮膚を突き破るような傷はなかった。
足先の色と温かさを確かめ、指が動くことを本人にも確認する。骨折しているかまでは、ここでは判断できない。
俺は靴を無理に引き抜かず、紐を十分に緩めた。
「この足で歩くのはやめてください。板を当てて動かないようにしてから、治療師へ運びます」
「車輪のところで手間を食わなければ、ここまで逃げ込めたんだがな」
「今は中へ入れたので、それで十分です。ほかに怪我をした人はいますか」
調査隊の男が首を振った。
「俺とこいつらの三人だ。橋へ運ぶ材の長さを確かめに来ていた。曳き獣は綱を切って放したから、道を戻ったはずだ」
「分かりました。落ち着いたら、人と獣の確認もギルドへ伝えます」
外で鋭い鳴き声が重なった。
俺は手元の処置を若い男へ説明し、短い板を押さえてもらってから戸口へ移った。
空のワイバーンは、塔へ近づけなくなっていた。
岳が上から回り込み、岩翼鷲が塔側を塞いでいる。逃げるなら尾根の外へ出るしかないが、ワイバーンが身体を傾けるたびに、岳の方が先に進路を取った。
昨日、四枚翼の相手を追っていた時とは違う。
岳は自分の二枚の翼を深く動かし、相手より高い場所を取っていた。急いで真後ろへつくのではなく、向き直る先へ斜めに進む。
ワイバーンが苛立ったように首を上げ、岳へ突っ込んだ。
岳はその正面から外れた。
空振りした相手の頭上へ翼を広げ、肩口を掴む。身体を反らして逃れようとしたワイバーンの翼へ、今度は岩翼鷲が外側から迫った。
片翼を十分に開けないまま、相手の身体が落ち始める。
岳は塔や道の上へ落とさず、尾根の外側へ押し出してから離れた。木々が大きく揺れ、遅れて何かが折れる音が届く。
ほどなく、岳は最初の一頭が落ちた斜面へ向かった。
俺は袋から縄を出しながら、その行き先を見送った。怪我人を運び終えるまで地上に留まってくれた分、まだ確認が残っている。
動けなくなった相手をそのままにして、人が外へ出るわけにはいかなかった。
俺が板と縄で足首を固定し終える頃、瑠璃が入口の縁へ下りた。
『二頭とも、もう動かない。岳が見た』
「分かった。こっちも、ひとまず足を動かさずに済むようになった」
俺は調査隊の男へ顔を向けた。
「二頭とも倒したそうです。ただ、ほかにもいる可能性があります。俺が周囲を確かめるまで、中で待っていてください」
男は肩の力を抜き、壁へ背を預けた。
「助かった。上の鷲にも追い払ってもらっていたが、二頭が別々に下りてくるから、あの距離が渡れなかった」
俺は天井を見上げた。
塔の上では、岩翼鷲が爪を石へ擦る音がしていた。
*
岳が戻ると、まず嘴と前脚を確かめた。
血はついていたが、深い傷は見当たらない。片翼ずつ広げてもらい、羽の軸と付け根を見たあとで、首の横へ手を置いた。
「待ってくれて助かった。怪我人は中へ入れた」
『お前たちが進むより、あちらが下りる方が速い。間に立っていれば、下りづらくはなる』
何でもないことのように言う。
けれど、俺が見上げた時、岳は相手から目を離さずに道を塞いでいた。背中に乗せて運ぶだけではなく、俺が歩く時間を作ってくれたのだ。
上から灰褐色の頭が覗いた。
『あれは、上へ爪を掛けようとした。ここを使わせる気はない』
「止めてくれてありがとう。人も助かったよ」
『下を使うことは許した。上まで荒らされるのは困る』
俺は頷き、塔の中へ声を掛けた。
「岩翼鷲は、ワイバーンが塔の上へ近づいたので追い返していたそうです。上は使わせないと言っています」
「約束は守る。俺たちは、こいつの足が治るまで下を借りたい」
その返事を伝えると、岩翼鷲は俺たちをしばらく見下ろし、頭を引っ込めた。
『下で休めばいい。出てくるなら、上をよく見ろ』
俺が言葉を取り次ぐと、男たちはようやく入口から離れ、備蓄の水を分け始めた。
瑠璃にはリーベルへ向かってもらった。
紙に場所と人数、足の怪我、ワイバーン二頭を倒したことを書き、ミラへ届けるよう頼む。歩いて戻れない一人がいる以上、人と搬送用の荷車を出してもらう必要がある。
岳で運ぶ方法もあるが、今日は補助座席を積んでいない。足首を固定したまま安全に座らせるには、準備を整えてからの方がいい。
俺たちは救援が来るまで塔に残り、周辺を交代で確かめることにした。
*
町から来た人たちへ怪我人を引き渡した時には、日が少し傾いていた。
逃がした曳き獣も道の途中で見つかったという。人を乗せられる荷車と一緒に連れてこられ、元の荷車は車輪の応急修理をして持ち帰ることになった。
俺は道の先と北の崖を岳の背から確かめたが、新たなワイバーンには出会わなかった。
だからといって、山からいなくなったとは言えない。
倒した二頭が、以前崖で見た四頭のうちのどれなのかも分からなかった。傷や色を覚えているつもりでも、遠くから見た姿だけで数を引くのは危うい。
ギルドへ戻ると、ミラは俺の報告を聞きながら地図へ印をつけた。
「人へ下りてきた場所が、ここなのね。旧道の作業は、いったん止めるわ。東にも知らせないと」
「明日の書類便で、警告を一緒に運べます。風と岳の状態を見てからですが」
「お願い。出発前に今日の分もまとめて渡す。塔で助けてくれた鷲のことも、調査に入る人へ伝えておくわ」
報告を終え、小屋へ帰ると、岳は屋根の下で身体を伏せた。
俺は騎乗具を外し、擦れた場所がないか手で確かめる。背中の羽を整えていると、岳が首だけをこちらへ向けた。
『地面へ下りる時は、今日のように先に言え』
「ああ。お前が間に入れる位置まで運んでくれたから、俺も動けた」
『なら、次もそうしろ。背を降りたからといって、俺に構わず走り出されては困る』
俺は頷き、肩の羽を撫でた。
昔、山で獲物を追っていた時も、俺と岳が同じ場所にいるとは限らなかった。岳が空から追い、俺が地上を回り込む。そのために、互いの動きが分かることが大切だった。
身体が変わり、言葉が通じるようになった今も、そこは同じなのだろう。
「今日は、お前が空を押さえてくれた。俺は、その下で一人運べたよ」
岳は目を細め、首を戻した。
『見ていた。だから、あちらを向いて待っていたんだ』
壁には、四枚の翼を持つグリフォンの絵が掛かっている。
俺はその隣へ、明日運ぶ書類袋を置いた。朝になったら天気を見て、岳の翼を確かめ、東へ出発する。
今日、塔へ逃げ込めた人たちのことも、向こうへ伝えよう。
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