第35話 四枚の翼は、空想じゃなかった
湖の遺構を調べてから二日後、俺たちは二つに割れた峰を目指して飛んでいた。
岳の背には俺一人で、石工は連れてきていない。まず空から通れる場所を探し、着陸できれば、瑠璃が見つけた白いものを確かめる。岩壁に残っていた線の続きを追うための探索だった。
前日は岳を休ませ、俺は紙に写した地形を、これまでに描いた地図と並べていた。湖から峰までは近く見えるが、間には深い谷が二つある。真っすぐ飛ぶだけなら短くても、風を避けながら進めるかは別だった。
出発前に高原へ寄ると、銀嶺もついていくと言った。
鞍を外した灰白色の身体が、今は俺たちより高い場所を滑っている。瑠璃は岳の前方を飛び、谷へ近づくたびにこちらを振り返っていた。
『山の間、雲が速い』
銀嶺の声を聞き、俺も峰へ目を向けた。
上の空では薄い雲がゆっくり流れているのに、峰の隙間を横切る切れ端だけが、引き延ばされるように形を崩していた。
「正面からは入らない。西の肩まで寄って、風の抜け方を見よう」
『そのつもりだ。瑠璃、俺の近くへ戻れ』
岳に呼ばれた瑠璃が戻り、俺の後ろにある荷物の上へ下りた。爪を掛けられる部分を確かめ、翼を畳んで身体を低くする。
俺は弓と矢筒が動かないことを手で確かめてから、腰を落ち着けた。
峰へ近づくにつれ、風が冷たくなった。森の濃い緑は下へ遠ざかり、斜面には背の低い木と、むき出しの岩が増えていく。
岳は谷の中央へ進まず、西側の斜面に沿って高さを取った。正面から押してくる風が弱まったところで、翼の先を細かく動かす。
鞍が一度、大きく持ち上がった。
俺は手綱を引かず、岳の動きに合わせて身体を前へ預けた。肩の上を風が抜け、遅れて背中を押される。
『そこで動くな。今、持ち上げられる』
「分かってる。進み方は任せる」
岳は羽ばたく回数を減らし、斜面を吹き上がる風に乗った。
山で風に向かっていた鷹の姿を、背中から見ているようだった。翼が大きくなっても、羽の一枚ずつで空気を探る動きには、昔の岳が残っている。
峰の切れ目を正面に見る高さまで上がると、先に回った銀嶺が戻ってきた。
『奥は広い。白い石、その向こう』
「中で下りられそうな場所はあったか?」
『平らな岩がある。風は、ここより弱い』
俺は岳の首の横から奥を覗いた。
狭く見えた切れ目の先に、明るい空間が開いている。ただ、入口の岩際では、枯れ草が同じ向きに伏せたあと、急に逆立っていた。
「岩のすぐ下は巻いてる。少し上から入れるか」
『入れる。頭を下げていろ』
岳は斜めに進み、峰の肩を越えてから身体を傾けた。
風が頬を横殴りに打ったが、揺れは長く続かなかった。岩壁が左右へ開くと、背中を押していた力が緩み、眼下に浅い鉢のような窪地が現れる。
その中央に、白い石の列が残っていた。
*
石の列は、柱の残骸だった。
高いものでも俺の胸ほどしかなく、何本かは根元から倒れている。山側には岩壁を削った窪みがあり、その前に、岳が十分翼を広げられる平らな場所があった。
俺たちは一度上を回り、動くものがないことを確かめてから下りた。
鞍を離れた瑠璃が柱へ移り、銀嶺は少し離れた草地へ着地する。ここまで飛ぶ間に、羽をぶつけたり、何かへ引っ掛けたりした様子はない。
俺は岳の安全帯から身体を外し、足元を確かめながら地面へ下りた。
土は薄く、靴底のすぐ下に硬い岩がある。窪地の奥には水が染み出していて、細い流れが石の間を抜けていた。
「思っていたより、休める場所だな」
水場へ向かう前に周囲を歩くと、倒れた柱の側面に彫り物が見つかった。
鉤状の嘴と、頭の後ろへ伸びる冠羽。その下には、重なるように四枚の翼がある。
湖で見たものと、よく似ていた。
俺は紙を取り出して比べたが、岳は彫り物よりも、柱の向こうを気にしていた。嘴を少し開き、空気を吸うように首を動かす。
『ここは、使われている』
言われて足元を見ると、白い跡が岩へこびりついていた。その近くには、割れた太い骨が落ちている。雨風にさらされた古いものに混じり、まだ色の薄い骨もあった。
獲物を持ち込んで食べる場所なのだろう。
俺は紙を袋へ戻し、岩壁の窪みから距離を取った。
「住んでいる相手がいるなら、先に挨拶だな。瑠璃、奥へは入るなよ」
柱の上で瑠璃が冠羽を立てた、その時だった。
窪地の明るさが、ふっと変わった。
見上げると、峰の切れ目の上を大きな影が横切っていた。岳に似た身体が、ほとんど羽ばたかずにこちらへ下りてくる。
最初は、二頭が重なって見えたのかと思った。
けれど、違った。
前方に広く伸びた翼の後ろから、もう一対の翼が開いていた。後ろの翼は前のものより短く、身体が傾くたびに、それぞれ違う角度を取っている。
灰色の羽には、光を受けると青く見える部分があった。頭の後ろへ流れる冠羽も、岩に彫られた姿と重なる。
岳より一回り大きな身体が、四枚の翼で速度を落とした。
後ろの一対が深く開き、前脚が岩へ触れる。砂埃は立ったが、着地の音は驚くほど小さかった。
『珍しい客だな。人を背に乗せたまま、ここまで来たのか』
落ち着いた声が届いた。
俺は弓から手を離したまま、一歩だけ前へ出た。
「勝手に下りてすまない。俺は隼人。ここにいる岳は、俺の相棒だ」
四枚翼のグリフォンは、俺へ顔を向けた。
『私の声が分かるのか』
「ああ。湖の下から出てきた建物で、ここと似た彫り物を見つけた。それを辿ってきたんだ。柱にいるのが瑠璃で、灰白色のヒポグリフが銀嶺だ」
紹介している間にも、相手の視線は俺から離れなかった。
やがて大きな前脚が動き、こちらへ歩いてくる。岳が俺の横へ並んだが、翼を広げて威嚇することはなかった。
四枚翼のグリフォンは手の届く位置で止まり、嘴を下げた。
『不思議な人間だ。近くにいても、煩わしくない』
差し出した手へ、頬の羽毛が触れた。
硬そうに見えた羽の下には細かな羽毛があり、温かい。頬から首へ指を滑らせると、相手はゆっくり目を細めた。
いきなり腕へ体重を預けられ、俺は半歩踏ん張った。
「悪いが、その大きさで寄り掛かられると支えきれない」
大きな頭が少し持ち上がった。
『それは失礼した。人の身体は、思ったより小さいな』
瑠璃が柱から飛び移り、岳の鞍へ止まった。
『隼人、手が止まっている』
「見とれてたんだよ。あの絵と同じ相手が、本当にいるんだからな」
もう一度首を掻きながら、俺は畳まれていく翼を見た。
後ろの一対は、前の翼の下へ完全に隠れるわけではない。付け根の位置がずれていて、互いの羽が押し潰されないよう収まっている。
石工にも見せたかった。
あの細かな描き分けには、ちゃんと意味があったのだ。
*
四枚翼のグリフォンは、岩壁の窪みを休み場所にしていた。
奥には乾いた草や獣の毛が溜まり、雨の当たりにくい場所だけが磨かれたようになっている。俺たちは入口から離れた岩へ腰を落ち着けた。
「ここは、ずっと使っている場所なのか?」
『時々戻る。風が荒れる前に休むにはよい。長くいる時もあるが、空けることも多い』
それなら、柱の周りに古い骨と新しい骨が混じっていたのも分かる。
俺は袋から絵を出し、石の上に広げた。
「湖の建物には、こんな姿が残っていた。ここの彫り物も、あなたたちを見て作ったものなんだろうな」
『その石がいつからあるのかは、知らない。私が初めて来た時にも、柱は倒れていた』
柱を直してほしいわけでも、建物の謎を説明したいわけでもないらしい。
相手は絵をしばらく眺め、それから岳へ視線を移した。
岳は俺の隣で、後ろの翼の付け根を見つめていた。
『その翼は、生まれた時から四枚あったのか』
俺がずっと聞きたかったことを、岳が先に尋ねた。
相手は首を振った。
『初めは、お前と同じ二枚だった』
膝の上で、紙を押さえる指が止まった。
岳にも、上位へ変わる可能性はある。けれど、それは言葉として知っていただけだ。
今は、その先へ進んだ身体が目の前にいる。
『変わったのは、いつだ』
『幾つもの冬を越えてからだ。変わる前は翼が重く、しばらく狩りにも困った。お前も四枚になるかどうかは、私には分からん』
岳は自分の翼へ一度だけ目を向けた。
名前を呼び合い、共に過ごしてきたことが、岳の変化に繋がっている。だからといって、同じ経験を辿れば同じ姿になるとは限らないのだろう。
俺は紙の端がめくれないよう、小石を置いた。
「姿が変わったあと、すぐ飛べたのか?」
『飛ぶだけならな。下りる時には、何度もやり直した。翼が増えれば、その分だけ風を受ける』
岳が、最後の一体を描いた絵へ嘴を向けた。
脚を出し、身体を起こしている姿だ。
『後ろの翼で、下りる時の風を受けると考えた』
『それも使い方の一つだ。向きを変える時にも使う。ただし、二枚でできることを覚えていなければ、増えても邪魔になる』
岳は相手を見上げ、少しだけ冠羽を立てた。
『飛び方を、もう一度見せてもらえるか。近くで見たい』
四枚翼のグリフォンは立ち上がった。
頼まれたことを面倒がる様子はなく、むしろ岳の関心を心地よく感じているようだった。
『よいとも。隼人は、ここで待つか』
俺は岳へ目を向けた。
今日は荷物も軽い。ここまでの飛行で、息が乱れている様子もなかった。
「岳が構わないなら、一緒に見たい」
『乗れ。お前にも、後ろの翼がどう動くか見てほしい』
俺は紙をしまい、鞍へ戻った。
銀嶺は岩場から立ち上がると、先に空へ出た。瑠璃も飛び立ったが、俺たちに追いつこうとはせず、窪地の上を大きく回る。
四枚翼のグリフォンは、俺たちが乗り込むのを待ってから、石の段の縁へ進んだ。
*
飛び立つ時、四枚の翼を一度に振るわけではなかった。
大きな前の翼が身体を持ち上げ、後ろの一対は角度を変えながら空気を受ける。身体が岩の縁を離れると、それぞれの翼の間へ光が通った。
岳も後を追い、俺たちは少し後ろの高い位置についた。
先を飛ぶ身体は、峰の向こうへは行かなかった。入口に近い斜面で風を拾い、その上をゆっくり横切っていく。
向きを変える時、内側の後翼だけが浅く畳まれた。
続いて外側の後翼が開くと、大きな身体が滑るように傾く。前の翼を大きく打たなくても、頭の向きが変わっていた。
「後ろの右が開いた。今度は左が下がったな」
俺は見えた動きを、そのまま岳へ伝えた。
『見えている。だが、俺には使えん動きだ』
「全部を真似する必要はないさ。お前の翼で使えるものを探そう」
先を行く相手が、前の二枚を広げたまま斜面から離れた。
岳も同じ方向へ進みかけたが、すぐに翼を調整した。身体がわずかに沈み、俺の腹に鞍の動きが伝わる。
『……あちらは、後ろの翼で支えているな』
岳は追いかけず、自分で上昇できる風の筋へ戻った。
俺は首筋へ手を置いた。
「ああ。こっちはこっちの通り方で行こう」
四枚翼のグリフォンは先で旋回し、岳が上がってくるのを待っていた。
俺たちは窪地の上を二度回り、同じ岩場へ戻った。先に下りた相手は、岳が着地するまで翼を畳まず、こちらを見ていた。
『借り物の翼で飛ぼうとはしなかったな』
『持っていないものに頼れば落ちる。見れば分かる』
岳らしい返事に、俺は鞍の上で笑った。
四枚翼のグリフォンも、喉の奥で低く声を鳴らした。
帰り支度を終える頃、峰の外から流れ込む雲が少し厚くなった。長居をして、下りる風まで悪くする必要はない。
「今日は見せてもらえてよかった。また風の穏やかな日に来てもいいか?」
『ここにいれば、付き合おう。留守の時は、待ち続けるな。戻るまで長いこともある』
俺は頷き、教わった通り、岩場の端から空へ出た。
帰路の岳は、あの飛び方を無理に真似しなかった。いつものように二枚の翼で風を探り、峰を離れてからゆっくり南へ向かう。
その首の横へ身を寄せ、俺は声を掛けた。
「四枚になっても、最初は練習がいるらしいな」
『お前を乗せる前に、十分飛んでおく』
「気が早いぞ。なると決まったわけじゃない」
『分かっている。だが、お前も鞍を作り直す覚悟くらいはしておけ』
背中を見下ろすと、今の騎乗具は前の翼の動きを避けて収まっていた。後ろにも翼が増えたら、確かに同じものは使えそうにない。
俺が笑いながら留め具へ触れると、岳は満足したように首を前へ戻した。
リーベルへ帰ったら、ミラへ報告しなければならない。
岩に彫られた四枚の翼は、想像だけで作られたものではなかった。
その持ち主は今も山の空を飛び、二枚だった頃のことを覚えていた。
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