第34話 梟が知っていた、岩壁の向こう
湖へ向かう前に、俺は小屋の壁に掛けていた絵を外した。
石工が描き写してくれた、四枚の翼を持つグリフォンだ。寝床から首を伸ばしていた岳は、俺が紙を丸め始めると、嘴の先で端を軽く押さえた。
『持っていくのか』
「ああ。残りの壁も調べるからな。並べて見られた方がいいだろ」
『なら、濡らすなよ』
自分の絵でもないのに、ずいぶん気に入ったらしい。
紙を油布に包んで書類袋へ収めると、岳はようやく嘴を離した。俺はその首筋を撫でてから、騎乗具の締まりを確かめた。
銀嶺の背で飛んだ翌朝、ギルドから湖の遺構を調べる依頼が出た。
目的は、先日入った広間の奥と、地上から近づける道が残っているかを確認することだ。北の村から届いた聞き取りには、湖へ続く古い山道の話もあったらしい。ただ、途中の沢が増水で削られていて、歩いて調べに行くには時間がかかる。
そこで、俺たちが先に上から見てくることになった。
「奥へ進めそうでも、崩れそうなら引き返してね。壁の絵も気になるけど、調べる人まで埋まったら困るから」
ギルドの裏庭で、ミラは石工から預かった細い筒を渡してくれた。中には写し取りに使う紙が入っている。
「分かっています。湖岸のワイバーンが増えていた場合も、着陸は見送ります」
「頼むわ。西で見た二頭のこともあるし、湖だけ見ていれば安心とは言えなくなってきたもの」
銀嶺の群れにも、周囲を飛ぶ時は見通しの悪い谷へ不用意に下りないよう伝えてある。もちろん、俺が行動を決めるわけではない。あとは高原で暮らす彼ら自身の判断だ。
今日は岳に俺と石工が乗り、瑠璃が先を確かめる。銀嶺は高原に残った。
補助座席に座った石工が安全帯を締める間、岳は翼の付け根をゆっくり動かした。荷物は紙と筆記具、少量の道具に絞ってある。俺は最後に左右の重さを確かめてから、鞍へ上がった。
「風はどうだ」
『山を越えるには悪くない。お前がよそ見をしなければな』
「今日はお前の背中だから、ちゃんと前を見てるよ」
岳は返事の代わりに地面を蹴り、朝の光が差す屋根の上へ俺たちを運んだ。
*
湖の水位は、見た目には大きく変わっていなかった。
露出した岸にはまだ濃い泥の帯が残り、その外側から細い草が顔を出している。遠い岸の岩棚ではワイバーンが一頭、翼を畳んでいたが、こちらへ向かってくる様子はない。
岳には岸から離れた高さを保ってもらい、俺は周囲の斜面を見比べた。
以前着陸した西の岩場から、鳥の柱がある場所までは通れる。その上にも、斜面を横切る不自然に平らな線があった。木の根や土に隠れているが、獣道にしては幅が揃っている。
「あの線が、村で聞いた山道かもしれません」
「そうだな。建物の上へ続いているなら、水に沈む前の出入り口があるかもしれん」
石工が俺の肩越しに身を傾けかけたので、見たい方向へ岳ごと向きを変えてもらった。空の上で無理に身体を乗り出す必要はない。
着陸前に瑠璃が低く一周し、岩場と柱の周辺を確かめてくれた。
『足跡は増えていない。白い顔の鳥は、奥にいる』
「分かった。先にそっちへ挨拶しよう」
地面へ下りると、石工はまず柱の傾きを見た。根元に置いていった小石との位置を比べ、目立った動きがないことを確かめてから、俺たちは岩に刻まれた階段へ進んだ。
水の引いた岸は、表面が乾いていても足を沈める。岩に靴底を置き、泥を跨ぐようにして進むと、広間の奥から低い声が届いた。
『また来たのか。今日は、足に草は絡んでいない』
「それはよかった。俺たちは、ここの奥をもう少し見に来たんだ」
白い顔の梟は、上の岩穴から半身を出していた。俺が見上げると、丸い顔を傾け、それから音もなく低い石の縁へ移る。
差し出した手へ顔を寄せてきたので、嘴を避けながら頬の羽毛を軽く掻いた。指先に触れる羽は柔らかいが、その下の身体は思っていたよりしっかりしている。
『お前の手は、具合がいい』
「そう言ってもらえると嬉しいよ。少し聞きたいんだが、この奥から外へ出られる場所はあるか?」
梟は俺の手から顔を離し、広間の右奥を向いた。
『歩くなら、あちらだ。風が通る。ただし、下には穴がある』
俺は石工へ向き直った。
「右奥に、外へ続く場所があるそうです。ただ、足元に穴があると言っています」
「なら、床を確かめながら行こう。水が通ったあとなら、石の下だけ削れていることもある」
梟は俺たちに付き添うつもりなのか、少し先の壁へ飛んで止まった。こちらを待っている顔つきが、妙に分かりやすい。
岳は入口の向こうから広間を覗いていたが、肩の辺りがつかえそうだった。ここへ身体を押し込むのは無理がある。
「外から回れる場所を探してもらえるか。上の山道へ出られるかもしれない」
『出口を塞がれないようにも見ておく。瑠璃、外側は任せたぞ』
『先に見てくる』
二つの影が入口から離れたのを見届け、俺は腰の縄を解いた。
*
右奥の通路は、広間よりも高い位置にあった。
三段ほど上がると、水で運ばれた枝や泥が急に少なくなる。壁には薄く白い跡が残っていた。ここまでは水が来たことがあるのだろうが、広間の床ほど長く浸かっていたようには見えない。
暗がりに目を慣らしながら進むと、頬へ冷たい風が触れた。
梟が止まっていた壁の先で、通路の床が途切れている。長さは俺の歩幅で三歩ほど、向こう側に残った石の床まで空いていた。
しゃがんで覗くと、下には水で磨かれた岩が見えた。その間を細い流れが抜けている。深さは人の背丈よりありそうだ。
「跳べる距離でも、向こうの縁が保つか分かりませんね」
「左の壁を見てくれ。床が落ちたあとも、細い足場が残っている」
確かに、壁際には靴を横に置ける程度の石が残っていた。ただし、上から見える面だけで強さは決められない。
俺は背負い袋を下ろし、穴から離れた岩の張り出しへ縄を回した。角に布を当て、引っ張る向きを変えながら、岩自体が動かないことを確かめる。
「先に俺が渡ります。荷物は置いていきましょう」
「俺がここで縄を見る。浮いた石は踏む前に教えてくれ」
腰に縄を結び、長さを調整してもらってから壁へ身体を寄せた。足を置く前に靴底で押し、手は頭の上の割れ目に掛ける。
山で岩場を抜ける時と同じだ。焦って身体を進めず、次の支えを確かめてから重さを移す。
半分ほど渡ったところで、右足の下から砂がこぼれた。
俺はその足へ体重を掛けず、左足と両手で身体を支え直した。押し出された薄い石が穴へ落ち、水音に混じって硬い音を立てる。
『そこは、よく落ちる』
向こう側の壁から梟が教えてくれた。
「次は、乗る前に頼む」
口ではそう返したが、飛んで暮らす梟に、人が踏んだ時の石の強さまで分かるはずもない。
落ちた場所を跨ぎ、割れ目に差し込んだ指を抜いて、ようやく向こうの床へ膝を置いた。まず周囲を叩いて確かめ、十分に奥へ移動してから振り返る。
「途中の石が一枚落ちました。その場所は踏まずに跨いでください」
石工は頷き、俺が戻した縄を使って壁際を渡った。荷物も縄で引き寄せれば、背負って通るより身体を動かしやすい。
二人とも渡り終えたところで、通路の先から瑠璃の声がした。
『出口がある。岳も来た。外は広い』
「そっちは塞がっていないんだな。今から向かう」
風の来る方へ進むと、暗がりの先に青い空が開けた。
出口は岩壁の途中にあり、その外側には、湖へ張り出す広い石の段が残っていた。
岳はすでにそこへ下りている。尾をゆっくり動かしながら待つ姿の向こうで、湖面が陽を返していた。
『ずいぶん狭い所を歩いてきたな』
「途中の床も落ちてたよ。帰りは、こっちから乗せてもらえると助かる」
『初めから、そうすればよかっただろう』
それには、どこへ繋がっているかを知る必要があったのだが、相棒の言い分にも一理ある。
俺は腰の縄を解き、呼吸を整えてから石の段を見回した。
*
外からは、ただの岩棚に見えた。
けれど、足を置いてみれば違う。表面には浅い溝が幾筋も刻まれ、水が溜まらないよう外側へ傾けてある。山側には崩れた壁の根元が残り、その間から古い道が林へ続いていた。
石工は足元へ屈み、指で溝の泥を払った。
「ここも建物の一部だ。湖へ下りる入口より、こっちの方が元の出入り口に近いのかもしれん」
「岳が下りても、まだ余裕がありますね」
「人を集めるための広場なら、あの通路は細すぎるがな」
その時、岳が山側の壁へ顔を向けた。
俺も視線を追い、蔓の陰に残った彫り物に気づいた。
翼を広げたグリフォンが、横向きに三体並んでいる。
下の広間で見たものより小さいが、翼の形がはっきりしていた。俺は袋から絵を取り出し、壁と見比べた。
「これも、四枚あります」
紙の上では重なって分かりにくかった後ろの翼が、ここでは別の位置に彫られている。
三体は、同じ姿ではなかった。
一体は四枚とも大きく開き、次は前の二枚を広げたまま後ろの二枚を畳んでいる。最後の一体は、脚を前へ出し、身体を起こした姿だった。
岳が翼を広げ、彫り物の一体目と自分の身体を見比べた。
『同じものを、違う飛び方で彫ったのか』
「そう見えるな。お前が前に言ってた、余分な翼をどう使うのかって話にも繋がりそうだ」
石工には、三体の翼の開き方が違うことを指で示した。
「飾りで同じ姿を並べたにしては、手間を掛けていますね」
「ああ。見せたい違いがあったんだろう。実物を知って彫ったのか、そう飛ぶものだと考えて彫ったのかは、これだけじゃ決められんが」
俺も同意した。
山刀で獲物を解体していれば、脚や関節の繋がりは自然と覚える。だからといって、石の絵だけで、見たことのない生き物が実在したと言い切れるわけではない。
それでも、ただ翼の数を増やしただけの姿ではなかった。
俺たちが絵を写している間、岳は最後の一体を見つめていた。身体を起こし、脚を出した姿だ。
『下りる時に、後ろの翼で風を受けるのかもしれんな』
「お前なら、そう使うのか」
『二枚しかない者に聞くな。試せるものなら、試している』
淡々とした言い方だったが、視線は彫り物から離れない。
俺は笑わず、四枚の翼の角度をできるだけ丁寧に写した。
壁の絵は、そこで終わっていなかった。
石工が低い位置の蔓を持ち上げると、その下に細い線が続いていた。山を横から見たような輪郭の上に、鳥の姿が三つ、小さく彫られている。
「文字じゃなく、道を示したものかもしれん」
呼ばれて屈むと、線の片側には二つに割れた峰、反対側には丸い窪みが刻まれていた。
俺は壁から離れ、石の段の端へ立った。
湖の北東には、頂上が二つに分かれた山が見える。飛んでくる途中にも目印にした峰だ。
彫られた線をもう一度見て、その向きに身体を合わせる。丸い窪みを湖と考えるなら、二つの峰の位置も大きくは外れない。
「これ、ここから見える山じゃないですか」
石工も顔を上げた。
壁へ戻って二人で見比べると、線は湖から二つの峰の間を抜け、さらにその向こうへ続いていた。端は欠けているが、最後に残った鳥の上には、細い筋が何本も彫られている。
下の広間で見た、四枚翼のグリフォンの周囲にあった模様と似ていた。
『そこへは、夜に風が通る』
梟が壁の上から告げた。
俺は山の方を指した。
「二つに割れた峰の間か?」
『そうだ。小さいものを追って行ったことがある。岩の上に、これと同じ顔があった』
梟の視線は、俺の手にある紙へ向いていた。
四枚翼のグリフォンを描いた紙だ。
「生きているものじゃなく、石に彫られた顔を見たんだな」
『石だ。動かない。あそこは鼠が少ないから、あまり行かない』
それだけ答えると、梟は片脚を羽毛の中へ収めた。昼の光の中を付き合ってくれたのだから、そろそろ眠いのだろう。
俺は礼を言い、聞いたことを石工へ伝えた。
「ここだけの飾りではなさそうですね。峰の向こうにも、同じものがあるそうです」
「それなら、この線を全部写して帰ろう。道か、場所の並びか、調べる手掛かりにはなる」
俺は紙を押さえ、石工が写し取るのを手伝った。
欠けた部分を想像で繋ぐことはせず、残っている線だけを拾っていく。山の輪郭と鳥の位置が紙へ移ると、壁を見ていた時よりも、その先へ続く形が分かりやすくなった。
*
帰る前に、岳へ頼んで石の段から少し上がってもらった。
北東の峰を確かめるためだ。湖から離れすぎず、いつでも南へ向きを変えられる位置に留まる。
瑠璃が俺の左側を飛び、細い谷の奥へ目を向けた。
『二つの山の間、白いものがある。木じゃない』
「位置だけ覚えておいてくれ。今日は向こうへ入らない」
手元の紙と地形を見比べる。
峰の間には、深く切れ込んだ鞍部があった。その手前の斜面で、木々の緑が細く途切れている。道なのか、沢なのかは、この距離ではまだ分からない。
ただ、湖の建物から続く線が、でたらめな向きに彫られているわけではないことは確かだった。
岳が首をわずかに傾けた。
『あの間を抜ければ、向こうが見えるな』
「ああ。風が集まりそうな形でもある。行くなら、天気を選んで下からも見ないとな」
『見るだけで終わる気はないんだろう』
「お前もだろ」
岳は否定せず、翼を大きく広げて南へ旋回した。
石の段では、白い顔の梟がこちらを見上げていた。俺が手を上げると、ゆっくり目を細め、それから岩穴の奥へ戻っていく。
広い空へ出たところで、後ろの石工が声を掛けてきた。
「隼人、帰ったらあの上の入口を地図に入れておいてくれ。床の落ちた通路を渡らなくても、外から調べに来られる」
「ええ。着陸場所と、林へ続く道も書き足します」
下の広間へ入れなかった岳が、上の石の段には無理なく下りられた。
そこに残っていたのは、四枚の翼の使い方を思わせる絵と、別の場所へ続く手掛かりだった。
俺は書類袋を押さえ、背後へ遠ざかる二つの峰を振り返った。まだ向こう側は見えないが、出発する場所は見つかった。
「次に調べに行く時は、お前も一緒に奥まで行けるといいな」
岳は耳をこちらへ向けた。
『なら、入口の広い所を選べ。外で待つばかりでは、絵を見るのも人任せになる』
小屋へ帰ったら、寝床から見える位置へもう一枚、絵を掛けよう。
今度は翼を畳んだ姿も、広げた姿も、岳が好きなだけ見比べられるように。
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