第33話 銀嶺の背で、風を追う
銀嶺の鞍が仕上がったのは、湖から戻って三日後だった。
石工を町へ送り届けたあと、壁画の写しはミラへ預けてある。四枚の翼を持つ獣に心当たりのある者を探す一方で、俺は革職人と何度も高原へ足を運んだ。
厚布だけで形を確かめ、詰め物を変え、革帯の位置を直した。銀嶺が歩いた時と翼を開いた時では、背中の形が思っていた以上に変わる。岳の鞍より細く作るだけでは、翼の付け根へ帯が寄ってしまった。
何度か直した末にできたのは、背へ広く重さを分けながら、翼の動く場所を大きく空けた鞍だった。
その朝も、職人はすぐに俺を乗せようとはしなかった。銀嶺に歩いてもらい、草地の端で向きを変えてもらってから、指を革帯の下へ差し込んで確かめる。
「これなら、歩いても脇へ寄らん。あとは実際に座ってみて、重さが掛かった時にどうなるかだな」
「銀嶺、俺が乗るぞ。嫌なところがあったら、すぐ言ってくれ」
『乗っていい』
銀嶺が身体を低くした。
俺は踏み台代わりの岩から鞍へ移り、まずは身体を起こさず、ゆっくり重さを預けた。岳より背の幅が狭く、座った時の脚の収まりも違う。
腹の下へ回した帯は、翼の付け根から離れた位置にある。職人が左右を見比べている間、銀嶺は首だけをこちらへ向けていた。
『痛くない』
「なら、そのまま少し歩いてみよう」
銀嶺が前へ進む。
岳の背では感じなかった歩幅の大きさが、鞍を通じて伝わってきた。後脚が地面を押すたびに身体が前へ運ばれ、俺は思わず腰を固くする。
それに気づいたのか、銀嶺が足を止めた。
『揺れる?』
「俺が慣れてないだけだ。背中はそのままでいい」
力を抜き、もう一度歩いてもらう。
今度は身体の動きを止めようとせず、腰で受けた。少し前を歩く職人が振り返り、革帯の位置を確かめて頷く。
「鞍は動いてない。乗ってる方が、まだ固いな」
「自分でも分かります」
岩場で伏せていた岳が、こちらへ顔を向けた。
『俺の背では、もう少しましだった』
「最初に乗った時は、お前の羽毛を握ってたよ」
『覚えている』
「だったら、少しくらい大目に見てくれ」
職人には内容が分からないので、岳が昔の乗り方を覚えていると伝えた。男は笑い、銀嶺の鞍へ最後の印をつける。
そのあとも短い歩行を繰り返し、降りて背を触り、もう一度乗る。銀嶺は嫌がらず、そのたびに翼を開いて、動かしにくいところがないことを教えてくれた。
◇
高原へ顔を出すたび、群れのヒポグリフたちは俺を迎えてくれた。
この日も、近くの一頭が銀嶺の背にいる俺を覗き込み、別の一頭は空いた手へ嘴を寄せてきた。首筋を撫でてやると、その場で羽毛を膨らませる。
『そっちに乗るのか』
「ああ。今日は銀嶺の背を借りる」
『私の背中も広い』
「ありがとう。でも、身体に合う鞍がないと、俺もお前も痛くなるからな」
声を掛けてきた個体は、銀嶺の鞍へ顔を近づけたあと、納得したように首を引いた。しばらく俺の手へ触れてから、仲間のいる草地へ戻っていく。
銀嶺はその間、じっと立っていた。
『今日は、私』
「分かってる。ちゃんと飛ぶところまで付き合ってくれ」
銀嶺が前を向き、翼を少し開く。
俺は安全帯を締め直し、手の届く位置にある鞍の握りを確かめた。手綱で頭を引く必要はない。向かう場所も、止まる時も、声で伝えられる。
「最初は低く、あの岩まで。俺が背中の動きに慣れるまでは、急に曲がらないでくれ」
『うん。ゆっくり行く』
職人が十分に離れるのを待ち、俺は岳へ目を向けた。
「岳、少し後ろから見ててくれるか。俺からは鞍の傾きが分かりにくい」
『落ちる前には言ってやる』
「落ちそうなら、その前に止めてくれ」
岳が立ち上がった。
瑠璃は俺の肩へ来ようとしていたが、今日は岳と一緒に飛んでもらう。初めて乗る背中に、荷物や同乗者まで増やすつもりはなかった。
「瑠璃は横から見ててくれ。帯がずれていたら教えてほしい」
『分かった。見えるところを飛ぶ』
青い冠羽が空へ上がる。
俺は銀嶺の首の付け根へ軽く手を置き、前を見た。
「行こう」
銀嶺が、草地を駆け始めた。
◇
岳の離陸とは、まるで違った。
後脚が地面を蹴るたびに速度が増し、草の穂が左右へ流れていく。銀嶺は走りながら翼を広げ、身体が軽くなる瞬間を選んで地面を離れた。
鞍の下から突き上げられるような力が来て、次の瞬間には蹄の音が消える。
俺は握りへ掛けた手に力を入れすぎないよう意識しながら、前へ傾いた身体を戻した。
『隼人、重さが後ろ』
「少し前へ戻す。これでいいか」
『うん』
地面が、ゆっくり遠ざかる。
銀嶺は約束どおり高く上がらず、草地の端にある岩場へ向かって飛んだ。翼を打つたびに鞍も動くが、歩いていた時より揺れの間隔が長く、次に来る動きを読みやすい。
最初の岩を越えると、銀嶺がこちらへ首を向けかけた。
『飛んでる』
「ああ。ちゃんと乗れてるよ」
銀嶺の翼が一度、大きく空気を押した。
嬉しいのだろう。少し速度が上がったが、すぐに戻る。俺が慣れていないことを忘れてはいなかった。
高原の縁で大きく回り、出発した草地へ戻る。
着地では前へ身体を持っていかれた。膝と腰で受けたつもりだったが、最後に鞍の握りへ頼ることになった。
『降りる時、固くなる』
「そこも慣れないとな。もう一度、同じところを頼む」
銀嶺が嘴を軽く鳴らした。
二度目は離陸で後ろへ残されず、三度目には着地の時も、余計に背中を押さえつけずに済んだ。
岳が低く飛びながら横へ並び、銀嶺の背へ視線を向ける。
『鞍は動いていない。お前も、さっきよりはいい』
「合格に近づいてると思っておく」
『まだ褒めてはいない』
「分かってるよ」
俺が笑うと、銀嶺は前を向いたまま、首筋の羽毛を少し膨らませた。
◇
地上で鞍を確かめ直したあと、今度は高原の西側を回ることにした。
職人には日が高くなる前に戻ると伝えた。遠くへ行くためではなく、向かい風と追い風で背中の動きがどう変わるかを知るためだ。
銀嶺は、走り始める前から西の斜面を見ていた。
『あっち、風が上がる』
「最初に湖へ行った時と同じように、斜面を使うんだな」
『うん。乗ってても上がれる』
俺が頷くと、銀嶺は草地を蹴った。
翼で持ち上がったあと、斜面へ沿って進路を取る。下から押される空気へ入ると、銀嶺は羽ばたきを減らし、翼を大きく伸ばした。
鞍の下で、背中の動きが静かになる。
岳の背から見ていた飛び方を、今は自分の身体で感じていた。
銀嶺がほんの少し翼を傾けるだけで、草地の向きが変わり、遠くの山が横へ動く。必要な高さまで上がると、そこからは緩く下りながら前へ伸びていった。
「……こうやって距離を稼いでたのか」
『まだ行ける』
「今日はこの尾根までだな。鞍が合ってるか、戻ってもう一度見たい」
銀嶺は不満を言わなかった。
尾根へ寄りすぎず、俺が景色を見られるように大きく回る。眼下には細い沢があり、鹿に似た獣が、草地と森の境目で顔を上げていた。
瑠璃は岳の近くを飛んでいる。
その青い冠羽が、不意に西へ向いた。
『向こう、二つ来る』
俺は鞍の上で顔を上げた。
尾根の向こうから、細長い影が現れていた。皮膜の翼と長い尾が、灰色の空気を切ってこちらへ伸びてくる。
ワイバーンが二頭、沢の上を飛んでいた。
◇
こちらへ気づいたのは、手前の一頭だった。
首の向きが変わり、羽ばたきが深くなる。もう一頭も、その動きにつられるように進路を曲げた。
岳は、俺たちより少し後ろにいる。尾根の張り出しに姿が重なり、ワイバーンからはまだ見えていないのかもしれない。
「銀嶺、東へ戻る。俺が乗ってるから、急にひっくり返すような曲がり方は避けてくれ」
『速く行く』
「ああ。真っすぐ離れるなら大丈夫だ」
銀嶺が翼を傾け、広い弧を描いて向きを変えた。
俺は鞍の握りを持ち、背中へ沿うように身体を低くする。次の羽ばたきで、頬へ当たる風が一段強くなった。
速い。
荷を持たずに先行する銀嶺を、いつもは岳の背から見送っていた。その速度の中へ入ると、目に映る岩や草地が、思っていたよりずっと早く流れていく。
『頭、少し下げて』
銀嶺の声に従い、俺は顎を引いた。
風をまともに受けていた額が、首筋の羽毛の陰へ収まる。それだけで身体を後ろへ押す力が弱まり、鞍へ座り直す余裕ができた。
振り返ると、手前のワイバーンがこちらを追っていた。
だが、間は詰まらない。
大きく翼を打ち、首を前へ伸ばしているのに、銀嶺の尾へ近づいてこなかった。
『遅い』
「張り合わなくていい。そのまま離れてくれ」
銀嶺は速度を落とさず、尾根の切れ目へ向かう。
俺が岳の姿を探した時、背後で短い咆哮が上がった。
◇
岳は、二頭の間へ割って入っていた。
後ろを飛んでいたワイバーンがようやくその姿に気づき、身体を傾ける。逃げようとしたのか、向きを変えようとしたのかまでは分からなかった。
岳の前脚が、その肩口を捉えた。
噛みつこうと首が伸びるより早く、岳は相手の身体を横へ押し流す。爪を外して離れたあとには、ワイバーンの飛ぶ向きが大きく変わっていた。
片側の翼が下がり、沢の方へ高度が落ちる。
それでも墜落はせず、斜面へ沿って逃げていった。
俺たちを追っていた一頭も、鳴き声に首を戻した。
その一瞬で、銀嶺との距離がさらに開く。追跡を続けるか迷ったように翼が揺れたところへ、岳が横から迫った。
今度は爪が届く前に、ワイバーンが逃げた。
長い尾が大きく振れ、低い位置へ進路が変わる。岳はその後ろへ回り込み、高原へ向かう側を塞いだ。
俺は銀嶺へ、高さを保ったまま飛ぶよう伝えた。
見慣れない速さの中で弓を扱うつもりはない。俺が身体を捻って釣り合いを崩せば、離れられていたはずの銀嶺まで危なくなる。
ワイバーンは高原へ戻ろうとせず、先に逃げた個体を追って西へ下った。
岳はしばらくその進路を見届け、こちらへ向き直る。
『追ってこない』
「助かった。こっちも怪我はない」
『見ていた』
岳が銀嶺の横へ並んだ。
銀嶺はその姿を確かめてから、ようやく羽ばたきを緩めた。
『追いつかれなかった』
「ああ。乗ってる俺のことまで考えて、飛んでくれたな」
『急に曲がると、揺れる』
「ちゃんと分かってくれてた。ありがとう」
首筋へ手を置くと、銀嶺の背が、ゆっくり上下した。
◇
高原へ戻った時、革職人は岩場のそばで待っていた。
俺たちの姿を見つけると、手を上げかけ、そのまま岳の爪へ目を向ける。そこに僅かな血が付いているのを見て、表情が変わった。
「何かあったのか。怪我をしてるなら先に見せてくれ」
「岳の血じゃありません。西の沢でワイバーン二頭に遭遇しました。銀嶺で距離を取って、岳が追い払ってくれました」
俺は地面へ降り、まず銀嶺の鞍を外した。
走った時も、速く飛んだ時も、帯が寄った跡はない。羽毛を掻き分けて背と脇を確かめても、赤く擦れた場所は見つからなかった。
銀嶺自身にも確かめてもらい、翼をゆっくり開いてもらう。
『痛くない。まだ飛べる』
「今日はここまでだ。よく付き合ってくれた」
職人は鞍の裏側と詰め物を触り、俺の説明を聞きながら頷いた。
「重さは広く掛かってる。少なくとも、今日の動きで一か所へ食い込んだ様子はないな。しばらくは乗るたびに見てくれ」
「そうします。帰りは俺と岳で町へ送りますから、少し待っててください」
男を休ませ、俺は岳の前脚と胸を確かめた。
血を湿らせた布で拭うと、下の羽毛にも皮膚にも傷はなかった。翼も左右同じように動く。無事なのを確かめてから、俺は相棒の首を撫でた。
「俺が銀嶺に乗ってたから、お前は動きやすかっただろ」
『お前を振り落とす心配はなかった』
「普段、気を使わせてるな」
『今さらだ』
その声がいつもどおりで、俺はようやく肩の力を抜いた。
瑠璃が岩へ降り、俺の方を見る。
『鞍、ずれなかった』
「見ててくれたんだな。ありがとう」
瑠璃は胸を張り、羽毛を整え始めた。
◇
西からワイバーンが来たことは、高原の群れにも伝えておく必要があった。
俺は銀嶺と一緒に草地へ戻り、近くにいた個体たちへ、遭遇した場所と飛んでいった方角を話した。寄ってきた嘴へ手を添えながら、分かる範囲だけを伝える。
昨日までいなかった場所へ、あの二頭が来ていたのか。それとも、もともと沢沿いで狩りをしていたのかは分からない。
ただ、今は西の尾根を越える時に注意した方がいい。
一頭が俺の腕へ嘴を寄せたあと、ほかの仲間の方へ歩いていく。別の一頭は西を見て、岩場の高い位置へ移った。
銀嶺も、俺のそばから離れて群れへ戻っていった。
俺はすぐに呼び戻さず、職人の荷を岳へ積み、補助座席を取り付け直した。今日はまだ、町へ報告する仕事が残っている。
準備を終えたところで、背後から草を踏む音がした。
銀嶺だった。
『隼人。また乗る?』
「ああ。今日の鞍をもう少し使ってみて、身体に合ってるなら、また頼む」
『次も飛べる』
「楽しみにしてるよ。今日は、ありがとう」
差し出した手へ、銀嶺が首を寄せる。
速く飛べたことだけが嬉しかったわけではない。こちらが何を困るかを伝えれば、銀嶺は自分で考えて飛び方を変えてくれた。
岳とは違う揺れ方も、着地の癖も、まだ俺の方が覚えきれていない。
首筋の羽毛を撫でてから手を離すと、銀嶺は草地を駆け、軽やかに空へ上がった。今度は人を乗せず、群れの上を大きく回っていく。
俺がその姿を見送っていると、岳が横から顔を寄せた。
『帰る時まで、そちらを見るのか』
「帰りはお前に乗るよ。職人さんも送らないとな」
『知っている』
俺は笑い、いつもの鞍へ手を掛けた。
高原の上では、銀嶺がもう一度こちらへ翼を傾けていた。
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