第32話 湖底の柱と、白い顔の住人
銀嶺の背に合わせた鞍を作るには、岳のものより細く、翼の付け根を大きく避けた形が必要だった。
翌日、町の外まで来てくれた革職人は、俺の手帳と銀嶺の身体を見比べ、その場で厚布へ線を引いた。翼を開いてもらうたびに線の位置が変わり、最初に考えていた革帯の通し方も、途中で描き直しになった。
「これなら作れる。ただ、布と詰め物だけで一度合わせたい。いきなり鞍まで仕上げると、直す方が大仕事になる」
「お願いします。人を乗せるのは、形が合ってからにします」
俺が銀嶺へ説明すると、灰白色の首が少し下がった。
『まだ乗れない?』
「今日は形を取るところまでだな。翼を動かしても痛くならないものを作りたい」
『じゃあ、動かす』
銀嶺がゆっくり翼を広げ、職人は俺の横で膝をついた。俺が触れていい場所を伝え、その手の動きを銀嶺へ説明しながら、背に置いた布のずれを確かめる。
岳は少し離れた場所で伏せ、時々こちらへ目を向けていた。
『俺の鞍より、ずいぶん手間が掛かっているな』
「身体が違うからな。お前の時に覚えたことも使ってる」
『なら、役に立っている』
「かなりな」
職人が顔を上げたので、岳が自分の鞍も役立っていると言っていることを伝えた。男は笑い、使い込まれた革の縁へ目をやった。
「実際に飛んだあとの擦れ方が分かるのは助かる。机の上だけじゃ、そこまで見えんからな」
型取りが終わると、銀嶺は高原へ帰っていった。
俺は岳の鞍を点検し直し、畳んであった補助座席を取り出した。明日は北の湖へ戻る。鳥を刻んだ柱を、今度は地面から確かめる予定だった。
◇
同行するのは、ギルドから紹介された石工の男だった。
古い橋や見張り台の補修も請け負っていて、山に残された石造りの施設を何度も調べているという。文字を読む学者ではないが、石段が踏める状態か、柱のそばを歩いていいかは、俺より判断できる。
門外で待っていた男は、岳を見ると歩みを緩めた。
「話には聞いていたが、近くで見ると大きいな。こいつに乗せてもらうのか」
「はい。こちらのグリフォンが岳です。肩にいる蒼冠鷹が瑠璃で、先導してくれるヒポグリフが銀嶺です」
銀嶺には、出発前に高原から来てもらっていた。
男が三頭へ順に視線を向ける。銀嶺は俺のそばへ来たものの、男が手を伸ばせる距離には入らず、そのまま北の空を見た。
「俺は三頭と話せますが、声が分かるのは俺だけです。何か伝えてきたら、必要なことは俺から説明します」
「分かった。空の上じゃ、あんたの言うことを聞く」
荷は小さな槌と、細い鉄の道具、それに記録用の板と紙だけだった。地面を掘り返す仕事ではないので、大きな道具は置いてきてもらっている。
体格と荷の重さを確かめ、岳にも伝えた。
『このくらいなら問題ない。風が変われば降りる』
「分かった。今日は二人だから、急がずに行こう」
男へ返事を伝え、補助座席の安全帯を合わせる。身体を左右へ動かしても帯が緩まないことを確かめてから、俺は前の鞍へ跨がった。
岳が身体を持ち上げると、背後で男の息が止まった。
「最初は前を見ていてください。地面が離れるところを追うと、余計に怖くなります」
「……言われたとおりにしてる」
返事のあと、男の手が座席の握りへ掛かる。
岳はいつもより長く地面を蹴ってから翼を打ち、ゆっくり高度を上げた。
◇
湖の水位は、俺たちが見た時から大きく変わっていなかった。
途中で休んだあと、銀嶺の案内で西側の小峰へ回る。そこから見下ろすと、泥地の表面には乾いた色が広がっていたが、岩の陰にはまだ黒く濡れた場所が残っていた。
柱へ真っすぐ降りるつもりはない。
俺は自然の岩盤が湖岸へ張り出している場所を探し、岳にその上へ降りてもらった。足元から水が染み出す様子はなく、崩れた斜面からも離れている。
石工の男は地面へ降りるなり、しばらく膝へ手をついていた。
「少し休んでください。ここから先は歩きです」
「助かる。景色を見る余裕が出たと思ったところで、地面が近づいてきた」
俺も鞍を外し、岳の背を確かめた。擦れた場所はなく、呼吸も落ち着いている。
銀嶺は小峰の上へ降り、湖の奥を見ていた。
『蜥蜴、向こうにいる』
「前にいた岸の方か?」
『うん。二つ。まだ飛んでない』
俺は石工の男へ向き直った。
「銀嶺が、対岸にワイバーンを二頭見つけています。こちらへ来る様子はないそうですが、飛び立ったら一度戻りましょう」
男は肩の荷を背負い直し、湖の向こうを見た。
「石を見るより、空を見る回数の方が多くなりそうだな」
「そっちは銀嶺に見てもらいます。俺たちは足元を確かめて進みましょう」
岩盤から石段までは、ところどころ岩が顔を出していた。
俺は長い枝を拾い、泥の深さを確かめながら足を運ぶ。表面が乾いていても、枝を押せば簡単に沈む場所がある。そうした窪みを避け、固い岸寄りを選んで進んだ。
瑠璃は低く飛び、俺たちより先に石段へ降りた。
『ここ、石が続いてる』
「端の方を見てくれ。泥で隠れてる場所が分かれば助かる」
瑠璃が石の縁へ沿って歩く。その動きを見ながら進むと、泥の下に埋まっていた最上段が見えてきた。
石工の男がしゃがみ、道具の先で継ぎ目を探った。
「上から転げてきた石じゃない。きちんと積んである。岸の岩まで削って、段を繋げてるな」
指で示された場所には、自然の岩肌から均等な高さで削り出した段があった。
人が歩くために作られた道が、湖の底から姿を現している。
俺は柱の方を見下ろし、ゆっくり次の段へ足を置いた。
◇
近づいて見ると、鳥の浮き彫りは思っていた以上に大きかった。
柱の下半分は泥に埋まっている。それでも、広げた翼の片側だけで俺の腕より長く、溝に詰まった泥を指先で落とすと、重なった羽根の形が現れた。
「猛禽だな。嘴だけじゃなく、足の形もそうだ」
欠けた顔の下には、獲物を掴むように曲がった鉤爪が刻まれていた。
石工の男は鳥より先に、柱の足元と、落ちた横石を調べている。
「こっちの柱には寄りかからない方がいい。下の石が動いてる。奥へ入るなら、反対側を通ろう」
「入口は残っていますか」
「少なくとも、そこに壁があったのは確かだ」
男が指した先は、泥と岩で塞がれた窪みだった。
落ちた石の向こうに、石積みの壁が続いている。山肌へ食い込むように建てられていたらしく、建物の前側が崩れても、奥の部分は残っていた。
瑠璃が壁の上へ飛び、小さな隙間を覗き込む。
『中、広い。上にも穴がある』
「暗いところへは入らなくていい。その穴の向こうが空なのかだけ、外から見てくれ」
瑠璃が翼を広げた。
俺たちは傾いた柱を避け、壁の残った側へ回った。低い石を二つ越えると、泥の溜まった床の先に、上へ続く短い階段が見える。
石工の男が一段ずつ確かめ、俺もそのあとへ続いた。
上がった先は、岩を削って広げた部屋だった。
壁の高い位置から薄い光が入り、足元には泥の塊や細い枝が残っている。ここにも水は入ったらしいが、今は床の上まで流れてくる様子はない。
俺は入口から振り返り、帰りに越える石の位置を覚えた。それから壁へ目を戻したところで、思わず足が止まった。
岳によく似た獣が、石に刻まれていた。
◇
鷲に似た頭と、前脚の鉤爪。胸から後ろへ続く胴体は獅子のようで、背には大きな翼がある。
顔つきや羽根の描き方には違いがあるが、グリフォンを表しているのだろう。
その隣にも、同じような獣が刻まれていた。
ただし、こちらには翼が二対ある。
前の翼を大きく開き、その後ろから、もう一対の細長い翼が伸びていた。頭の上にも冠羽のようなものがあり、身体の周囲には、枝分かれした線が何本も走っている。
「雷を表してるように見えますね」
俺が指すと、男は近づきすぎない位置から壁を見た。
「そうかもしれん。ただ、俺にはこの獣のことまでは分からない。像を飾る模様ってこともある」
「岳と同じ種族なのか、別のものなのかも、まだ分からないですね」
俺は紙を取り出し、壁の形を描き始めた。
翼の付け根が重なっているのではなく、別々の位置から伸びている。彫り損じや、重なった姿を描いただけとも思えなかった。
石工の男が、横の壁へ灯りを向けた。
そこには、長い首を持つ大きな鳥と、馬の胴体に翼を備えた獣もいた。後者はヒポグリフに似ている。その先にも幾つかの姿があったが、水で削れた部分が多く、何を表しているかは判別できなかった。
「ここを作った人たちは、こういう生き物をよく見ていたんでしょうか」
「実物を見て彫ったものと、想像で作ったものが混じってるかもしれん。だが、足の爪までこれだけ彫り分けてるなら、何も知らなかったとは思えないな」
男の指が、二つの像の足元を示した。
俺はそこも描き足した。鳥の絵があるから気になって来た場所だったが、ただの飾りを見つけただけでは済まなくなってきた。
紙へ目を落としていた時、頭上から瑠璃の声がした。
『隼人。上、誰かいる』
俺はすぐに顔を上げ、石工の男へ手を出して動きを止めた。
「上に生き物がいます。いったん入口側へ寄ってください」
明るい穴の縁に、白いものが現れた。
丸く広がった顔の中央で、二つの目が俺を見下ろしていた。
◇
梟だった。
ただし、日本で見たどの梟よりも大きい。
顔を囲む白い羽毛の外には、樹皮のような灰褐色の羽根が重なっている。穴の縁を掴んだ足も太く、鉤爪は人間の指ほどもありそうだった。
その目が俺を見つけると、ゆっくり細くなる。
『人間が来た』
警告というより、珍しいものを確かめるような声だった。
「神代隼人だ。下の階段を見つけて、ここへ入った。邪魔をしたか?」
『昼は上で寝てる。ここまで来るのは久しぶりだ』
梟が穴の縁から身を乗り出した。
石工の男が息を呑む。俺はそちらへ顔を向けず、まず聞こえた内容を伝えた。
「この上を寝場所にしているそうです。俺たちを追い出そうとはしていません。ただ、急に近づかないでください」
「分かった。こっちからは触らん」
梟は足元を見てから、壁の高い棚へ飛び移った。
広がった翼が光を遮り、部屋の空気が動く。羽音は身体の大きさから思うよりずっと柔らかく、灰褐色の姿は、ほとんど滑るように棚へ収まった。
瑠璃が俺の肩へ戻り、梟を見上げる。
『大きい』
「本当にな」
梟は俺の方へ顔を傾けた。
『そこ、濡れてる。こっちへ来ればいい』
示された棚の下は、床が少し高くなっていた。
俺は石工の男へ伝え、足元を確かめながら移動した。梟は俺たちの動きを目で追い、俺が近くへ来ると、白い顔を少し下げる。
見つめ返すと、羽毛の匂いが分かる距離まで首が伸びた。
俺はゆっくり手を上げ、梟の方から近づくのを待った。太い嘴の横が指へ触れ、顔を囲む柔らかな羽毛が手の甲を撫でた。
「ここに住んでるんだな。湖の水が減った時も、上にいたのか?」
『山が鳴った。石が落ちて、水が走った』
梟の目が、外へ通じる入口へ向く。
『うるさかった。上まで泥の匂いが来た』
「お前の寝場所は、壊れなかったんだな」
『奥は残ってる。外へ出る穴もある』
俺は高い位置の穴を見上げた。
建物の入口が湖に沈んでいても、山側には別の出入り口があったのだろう。この梟にとっては、水の下の遺跡というより、岩山の中にある寝床だったらしい。
石工の男へ話を伝えると、男は天井と壁の接ぎ目を見直した。
「なら、上は岩そのものか。入口側が崩れても、ここが残ったのはそのせいだな」
梟は男へちらりと目を向けたが、俺にしたようには首を寄せなかった。そのまま片足を羽毛へ隠し、棚の上で身体を落ち着ける。
「壁の絵を写したら帰る。お前の寝る場所には上がらないよ」
『ここで見ればいい』
返事を聞いてから、俺は紙を広げ直した。
◇
岳に似た像の翼を描き終えた時、梟がこちらを覗き込んだ。
紙の上の線と壁を交互に見て、ゆっくり瞬きをする。
「こいつを、外で見たことはあるか。翼が四枚ある方だ」
『ない。石にはずっといる』
「そうか。ありがとう」
知っていないことまで、無理に聞くつもりはなかった。
俺が形を写している間、石工の男は床に埋もれかけた石の縁を調べていた。泥を少し払うと、壁際に長い溝が現れる。
「水を外へ逃がすためのものだな。ここを作った時は、床に水が溜まるのを嫌っていたらしい」
「最初から湖の中へ作ったわけではなさそうですね」
「そう考えた方が自然だ。ただ、いつ水に沈んだのかは、これだけじゃ分からん」
男は溝の形を自分の板へ描いた。
俺も壁の像だけでなく、部屋の高さと、入口へ続く段の位置を手帳へ残す。分からない文字らしいものもあったので、意味を考えるより、まず形を崩さずに写した。
その間、瑠璃は部屋の中を勝手に飛び回らず、俺の肩から梟を眺めていた。
高い棚には羽根や骨が溜まっている。梟が身体を動かした時、羽毛の下から足輪のようなものが見えた気がして、俺は一度だけ目を凝らした。
だが、そこにあったのは絡みついた細い枯れ蔓だった。
「足に蔓が掛かってる。気になるなら外せるぞ」
梟は隠していた足を出し、鉤爪を開いた。
俺は男に少し離れてもらってから、梟が下げた足へ手を添えた。蔓は羽毛へ絡んでいるだけで、皮膚を締めつけてはいない。爪へ引っ掛けないよう、細い枝で少しずつ解くと、乾いた輪がするりと抜けた。
『軽くなった』
「もう引っ掛からないと思う。次から気になるものがあったら、無理に引っ張るなよ」
梟が一度だけ嘴を鳴らし、足を羽毛へ収める。
俺は外した蔓を荷袋へ入れ、道具を片づけた。ここへ来た目的は果たしたし、昼に休む住人をいつまでも起こしておくのも悪い。
「俺たちは帰る。また来る時は、先に声を掛けるよ」
『夜ならいないこともある。魚を獲りに行く』
「なら、昼に来た時は静かにする」
棚の上で、白い顔がゆっくり上下した。
◇
外へ出ると、岳が岩盤の上で身体を起こした。
銀嶺は小峰から降り、俺たちのそばへ来る。対岸のワイバーンは一度飛んだものの、湖の奥へ移っただけだったという。
俺は二頭へ礼を言い、石工の男が腰を下ろしている間に、岳へ壁の絵を見せた。
「中に、こういうものがあった。こっちはグリフォンだと思う」
岳の目が手帳へ向いた。
最初の絵を確かめ、それから、隣に描いた二対の翼へ嘴を寄せる。
『こちらも、俺に似ている』
「ああ。ただ、同じものなのかは分からない。昔いた別の種族かもしれないし、彫った人が想像で翼を増やした可能性もある」
岳はしばらく絵を見ていた。
俺が手帳を閉じようとすると、前脚がわずかに動く。
『もう少し見せろ』
「気になるんだな」
『翼が多ければ、どう飛ぶのかと思っただけだ』
俺は開いたままの手帳を岩へ置き、風で捲れないよう端を押さえた。
銀嶺も横から覗き込み、四枚の翼を見て、自分の翼を少し開く。岳はその動きを一瞥したあと、もう一度絵へ目を戻した。
湖を渡る風が、手帳の端を揺らした。
俺は岳の鞍を取りに行きながら、町で誰にこの絵を見てもらうか考えた。石に刻まれた姿だけで、岳の行く先を決めることはできない。
それでも、ただ可能性があると分かっていた時とは違う。
岳がいつまでも絵を見ている姿を、俺は少し離れたところから眺めた。
「写しを作ったら、小屋にも置いておくか」
『雨に濡れない場所がいい』
「お前の寝床から見えるところにしよう」
岳は返事をせず、ようやく手帳から顔を上げた。
鞍を載せるために身を屈めた背中へ、俺はいつもどおり手を置いた。羽毛の下で、二枚の大きな翼を動かす筋肉が、力強く動いた。
──────────────────
YouTubeでショート動画作ってみました
https://youtube.com/shorts/spSkAdkT0sE?si=_5PpM7nCYZM6czxo
──────────────────




