第31話 銀嶺が知っている北の空
北の村から来た狩人が、川の水が急に濁ったと話している。
翌朝、ギルドへ顔を出した俺に、受付のミラが最初に伝えたのはワイバーンの目撃情報ではなかった。机へ広げられた地図には、昨日までなかった印が、見張り塔よりさらに北へ書き込まれている。
「八日前の昼過ぎに、北の川がひどく増水したそうよ。その村では雨も降っていなかったのに、折れた木や泥まで流れてきたって」
「上流で崩落があったのかもしれませんね。そのあとも、水は増えたままだったんですか?」
「夕方には引き始めたそうよ。ただ、それまであった浅瀬が埋まって、川沿いの獣道も何か所か消えたらしいわ」
俺は地図の川筋を指で追った。
増水した川はリーベルへ直接流れてくるものではない。北の山裾を西へ抜け、別の街道沿いへ向かっている。こちらの町で知られるまで時間が掛かったのも、そのせいだろう。
「その狩人がワイバーンを見たのは、川が増水したあとですか」
「初めて見たのは五日前。その時は二頭だったそうよ。村の上は通らず、南の山へ飛んでいったって」
昨日、俺たちが確かめたのは少なくとも四頭だ。
目撃した場所も時間も違うので、数を足すことはできない。それでも、北側でも同じ時期に移動が起きていたことは分かる。
「この上流に、大きな湖か、崩れやすい谷はありますか?」
「古い地図には湖が描いてあるわ。ただ、そこまで入った記録は少ないの。狩人も、手前の尾根より向こうは知らないそうよ」
ミラは棚からもう一枚、端の傷んだ地図を持ってきた。
新しい地図と並べると、山と川の位置が少しずれている。正確な測量図ではないらしいが、北の山々に囲まれた窪地へ、細長い湖が描かれていた。
「今日は、こちらを確かめたいです。ワイバーンの集まっている崖を通らず、西から回れそうなら」
「東への連絡も必要だけど、向こうへ飛ぶ前に北の様子が分かるなら助かるわ。商人組合には、南へ迂回する条件で話を進めておく」
「お願いします。北へ入れるかどうかは、岳と風を見て決めます」
「無理そうなら引き返して。分からない場所を、今日一日で全部埋めなくてもいいんだから」
借りた地図を筒へ収め、俺はギルドを出た。
昨日の崖へ戻り、同じワイバーンを眺めるより、調べる場所は絞れた。まずは高原へ寄り、あちらの空を知っていそうな相手に聞いてみる。
◇
高原の草は、朝露を残して白く光っていた。
岳が群れから離れた岩場へ降りると、草地にいたヒポグリフたちが次々と顔を上げた。俺が地面へ降りる間に、近くの二頭がゆっくり歩み寄ってくる。
一頭は差し出した手へ嘴の横を擦りつけ、もう一頭は首を低くして俺の顔を覗き込んだ。少し離れた岩場からも穏やかな声が届き、そちらを向くと、大きな翼が軽く持ち上がる。
『また来た』
『こっち、風が弱い』
「ありがとう。今日は少し、山のことを聞きたいんだ」
首筋へ触れると、手近な一頭が気持ちよさそうに羽毛を膨らませた。俺の肩にいる瑠璃も、近づいてきた嘴を眺めている。
ほかの個体からも敵意は感じない。身体をこちらへ向けて迎えるものもいれば、日当たりのいい岩から声だけを掛けてくるものもいる。ひとしきり俺を確かめた一頭は、自分の寝場所へ戻って羽繕いを再開した。
その間を抜け、灰白色のヒポグリフが俺の正面へやってくる。銀嶺は手へ首を寄せてから、顔を上げた。
『隼人。今日はこっち?』
「ああ。北にある湖を、銀嶺が知ってるかと思ってな」
俺は地図を広げたが、銀嶺は紙の線より、俺が指した山の方角を見ていた。
「山に囲まれた、長い湖らしい。この先で見たことはあるか?」
『ある。向こうの、白い山の下』
銀嶺の嘴が、幾重にも重なる尾根の一つへ向いた。
地図の線だけを見ていた時には分からなかった距離が、ようやく景色と繋がる。見張り塔から真っすぐ北へ行くより、高原の西側を回った方が入りやすそうだった。
『魚がいる。水のところに降りたこともある』
「その近くで、岩が崩れたのを見てないか。川へ泥が出たらしいんだ」
『最近は行ってない』
「分かった。見てないなら、それでいい」
銀嶺は北の山をしばらく眺め、翼を身体から少し浮かせた。
『私も行く。道、知ってる』
「助かる。ただ、見張り塔の北にはワイバーンが何頭もいる。そっちへ近づかずに行けるか?」
『西から行く。高いところを通れる』
俺が岳を見ると、相棒はすでに同じ方角へ顔を向けていた。
『場所を知っているなら案内は任せる。お前を運ぶのは俺だ』
「そこは最初から頼りにしてるよ」
銀嶺が岳の鞍へ目を向け、それから俺を見た。
『戻ったら、私の背中も見て』
「ああ。騎乗具を作るなら、どこへ重さが掛かるか確認しないとな」
『うん』
その返事で銀嶺は満足したらしい。
俺はそばにいたヒポグリフたちにも礼を言い、岳の背へ戻った。先に空へ上がった銀嶺へ群れの一頭が短く鳴きかけ、銀嶺も振り向いて応える。
草地から何頭かがこちらを見送ったが、ついてはこなかった。それぞれが寛ぐ高原を背に、灰白色の翼が北西へ伸びていく。
◇
銀嶺は、ただ湖へ向かって真っすぐ飛んでいるわけではなかった。
尾根の手前で西へ寄り、窪地を避けて岩の斜面に沿う。岳もそのあとへ続くと、翼を大きく動かさなくても身体が持ち上がる場所へ入った。
斜面へ当たった風が、上へ抜けている。
銀嶺はその空気を使い、次の尾根を越える高さを稼いでいた。速く飛ぶ姿ばかりが目立つが、遠くまで行ける理由は翼の力だけではないらしい。
『向こうは下がる。こっちがいい』
横へ戻ってきた銀嶺が、鞍の高さで翼を傾ける。
「分かった。今日はお前についていく」
岳がわずかに進路を変えた。
冷たい空気が頬を撫で、防寒着の襟を持ち上げる。南の森では見えなかった低い草や、灰色の岩肌が増え、尾根の向こうへはさらに高い山が連なっていた。
銀嶺は先へ離れても、尾根を一つ越える前には戻ってくる。俺たちの姿を確かめ、次に通る場所へ向かう。その背を追っているうちに、借りた地図の余白へ入った。
やがて銀嶺が、前方の山を回り込まずに戻ってきた。
『隼人。水、少ない』
「湖が見えたんだな。前に来た時とは、かなり違うのか?」
『うん。岸が広くなってる』
俺は岳の背で身体を起こした。
銀嶺が示したのは、二つの尾根が開く先だった。そちらからは濡れた土のような匂いが風に混じり、空の下にあるはずの湖面は、まだ見えない。
「岳、尾根から離れすぎずに回ってくれ。まずは上から見る」
『分かっている』
岩の肩を越えたところで、山に囲まれた窪地が一気に開けた。
底の方に細く残った湖を囲み、濡れた土と崩れた岩が、広い範囲に露出していた。
◇
水の残っている場所は、窪地の奥へ寄っていた。
その手前には泥地が広がり、倒れた木や岩が不規則に重なっている。斜面に残る濃い帯からすると、つい先日まであの高さに水があったのだろう。
俺は湖の西端へ目を向けた。
水が流れ出すはずの場所が、大きくえぐれている。その先には、木をなぎ倒して下った太い筋があり、谷の底まで泥と石が続いていた。
「出口が崩れて、湖の水が流れ出したのか……」
岳に少し向きを変えてもらい、今度は北の斜面を見る。
そこにも、新しく露出した明るい岩肌があった。崖の一部が丸ごと剥がれ、崩れた岩が湖の縁へ積み重なっている。上流で起きた崩落と、下流へ流れた大量の水が、ここで繋がった。
ただ、どちらが先だったかまでは分からない。
崩れた岩が湖へ落ち、水が出口を越えたのか。別の理由で水が流れ出し、岸や崖まで崩したのか。空から見える跡だけで、順番まで決めるのは早い。
『前は、あそこも水だった』
銀嶺が泥地の端を示す。
「ずいぶん減ったな。前に来た時、あの崖に何かいたか?」
『翼のある蜥蜴。近くには行かなかった』
ワイバーンという呼び名を、銀嶺が知っている必要はない。
俺は昨日見た個体の特徴を伝え、長い首と尾、それに皮膜の翼を確かめた。銀嶺の返事は迷いがなかった。
『それ。何頭かいた』
「なら、巣があったかもしれないな」
崖の途中に残った棚を探す。
日が当たる位置には、枯れ枝が絡んだ大きな塊が二つ見えた。その下の棚は途中からなくなり、折れた枝が、根ごと引き抜かれた木の間へ散っている。
あの崖にいた個体が南へ移ったのなら、時期は合う。
それでも、昨日見た傷まで、すべてこの崩落のせいとは考えられなかった。古く塞がったものもあったし、傷を負った理由は個体ごとに違う可能性がある。
『隼人。動いてる』
肩を離れていた瑠璃が、俺たちの横へ戻った。
青い冠羽が向いた先を追うと、残った湖の対岸に細長い影があった。伏せていたワイバーンが首を起こし、こちらを見ている。
すぐに飛び立ちはしない。
その奥の岩棚にも、もう一つ同じような色の塊が見えた。
「岳、近づかずに西へ戻る。銀嶺も一緒だ」
『あれはこちらを見ているだけだ』
「分かってる。今は、あそこに残ってる個体もいるって分かれば十分だ」
岳は静かに翼を傾けた。
俺たちが離れ始めると、対岸のワイバーンが口を開いた。距離のある咆哮が湖盆へ響き、岩肌に何度も返る。
岳は首だけをそちらへ向け、低く鳴いた。
ワイバーンは翼を開きかけたものの、俺たちを追って湖を横切ってはこなかった。
◇
湖から尾根を一つ隔てた岩場で、俺たちは地上へ降りた。
高い位置に乾いた平場があり、湖側の斜面を見ずに休める。地面へ足をつけた途端、鞍の上では気づかなかった脚のこわばりが分かった。
俺は岳の安全帯を外し、水筒を取り出してから、岩の上へ地図を広げた。
銀嶺が知っていた湖と、古い地図の湖は同じ場所で間違いなさそうだ。尾根と川の位置を見比べながら、崩れた出口と巣のあった崖を書き込んでいく。
『こっちは、もっと曲がってる』
俺の横へ来た銀嶺が、地図の線へ嘴を寄せた。
「川の形を描き違えたなら、実際に曲がる方角を教えてくれるか」
銀嶺が北の山へ首を向け、また地図を見る。紙へ描かれた線を見ているというより、俺がさっき指で示した場所と、目の前の景色を結びつけようとしているらしい。
地図を回して景色の向きと合わせると、銀嶺はようやく示したかった谷へ嘴を向けた。
『山の裏。あっちへ流れる』
「こっちの谷へ曲がるんだな。なら、村のある川へ出るのも合う」
『うん』
「ありがとう。古い地図をそのまま信じてたら、違う谷へ入ってた」
銀嶺の首筋へ手を当てると、羽毛の下から温かさが伝わった。
岳は岩場の端で風を受け、湖のある方角を見張っている。瑠璃は低い灌木へ移り、斜面を行き来する小さな鳥を眺めていた。
ひと息ついたところで、銀嶺が俺の袖を嘴で軽く引いた。
『もう一つ、見えた』
「湖の近くで、ほかにも何か見つけたのか?」
『水がなくなったところ。四角い石が並んでる』
俺は地図から顔を上げた。
湖の底には、崩れた岩がいくらでも転がっていた。だが、銀嶺は岩の形を詳しく説明する代わりに、隣の小さな峰へ首を向ける。
『あそこから見える。近くまで行かなくていい』
岳を見ると、相棒は前脚を伸ばして身体を起こした。
『人間の作ったものなら、お前が見た方が早い』
「もう一度だけ、上から確かめよう。湖の中へは降りない」
俺は地図を収め、鞍の帯を締め直した。
◇
銀嶺が教えた小峰からは、泥の広がる湖岸を斜めに見下ろせた。
さっき俺たちが飛んだ位置からは、崩れた岩の影になっていた場所だ。岳が風上へ向けて速度を落とすと、茶色い地面の一角に、不自然な直線が見えた。
同じ幅に切り揃えられた石が、段を作って並んでいる。
上の方は泥に半ば埋まり、下の方は崩れた岩の陰まで続いていた。周囲の岩とは明らかに形が違い、角が残った石の表面には、平らに削った跡もある。
「階段だな。水があった場所へ、そのまま下りてる」
『前は見えなかった』
銀嶺の声が、すぐ横から届く。
俺は残った湖面と、岸に残る水位の帯を見比べた。あの階段は、もともとの水面よりかなり下にある。湖へ降りるためだけのものなら、ここまで続ける必要はないはずだ。
その先へ視線を送ると、半ば傾いた二本の石柱があった。
上を渡していたらしい石は落ちている。だが、片方の柱には、翼を広げた鳥のような浮き彫りが残っていた。
羽根を表した溝の間に泥が詰まり、首から上は欠けている。
種族までは分からない。それでも嘴の先が鉤のように曲がっていることだけは、岳の背からでも見て取れた。
『鳥だ』
瑠璃が少し前へ出る。
「ああ。ただ、何の鳥かはまだ分からない。瑠璃も、そのままこっちへ戻ってくれ」
青い冠羽が一度こちらを向き、瑠璃は岳の背へ戻った。
石柱の向こうには、泥と崩れた石で塞がれた窪みがある。入口なのか、建物が崩れた跡なのかも、今の高さからは判断できない。
長い間、水の下に隠れていた場所が、今は日の光を受けている。あそこへ立てば、どんな鳥を刻んだのかも分かるかもしれない。
柱を見つめていると、岳の声が届いた。
『降りたそうな顔をしている』
「気にはなるよ。水の下に、あんなものがあったんだからな」
『獲物の跡を見つけた時も、その顔だ』
俺は柱から目を離し、湖の対岸を確かめた。
ワイバーンはこちらへ来ていない。だが、その姿が見えないことと、好きに湖底を歩いていいことは違う。足場も、崩れた斜面の状態も確かめていなかった。
「覚えて帰る。あそこを見るための準備は、帰ってからだ」
『なら、今日は帰れるな』
「ああ。銀嶺、いいものを見つけてくれた」
隣を飛ぶ灰白色のヒポグリフが、首をこちらへ向ける。
『また来る?』
「来たい。次は湖の周りも、もう少し分かってからな」
『私も行く』
そう言って銀嶺は、帰りの尾根へ翼を向けた。
◇
リーベルへ戻った時には、まだギルドの窓から明るい日が差していた。
俺の描き足した地図を見たミラは、湖の出口と、南側の崖を交互に指で押さえた。
「北の湖が崩れて、そこにいたワイバーンが移ってきた可能性があるのね」
「はい。湖側にも少なくとも二頭いました。崖には巣らしいものもあって、一部は崩れています。ただ、南で見た個体と同じかどうかまでは分かりません」
「傷の原因も、まだ別に考えた方がよさそうね」
「そう思います。古い傷まで崩落のせいにはできませんから」
ミラは頷き、北の村へ送る書類を手元へ寄せた。
「川の濁りと湖の変化は伝えておくわ。下流では渡れる場所が変わっているかもしれないし、狩人たちにも確かめてもらう」
「東側へも、ワイバーンの移動があったことは知らせてください。旧道の調査で、北へ入りすぎない方がいいです」
「それも回す。それで、湖の西岸にある四角い印は、何を見つけた場所なの?」
俺は石の階段と、鳥を刻んだ柱について説明した。ミラは途中で口を挟まずに聞き、最後に古い地図を引き寄せる。
「この地図には、何も描いてないわね。町の記録に残っているか、調べてみる」
「お願いします。地面が乾いて、斜面が落ち着くまで待った方がいいと思いますけど、何の跡なのかは知りたいです」
「あなた、自分で見に行くつもりでしょう」
「はい。鳥の柱を見たら、余計に気になりました」
ミラは少し笑い、地図の湖岸へ小さな印を添えた。
「北の様子が分かれば、という仕事だったのに、調べたいものまで増やしてきたのね」
「見つけたのは銀嶺です。俺だけだったら、崩れた岩だと思って通り過ぎてました」
「じゃあ、北の地図を埋めたお礼も、ちゃんと伝えておいて」
地図の写しを預け、俺は門外へ戻った。
岳のそばでは、銀嶺が西の空を見ていた。高原へ帰る前に町まで来て、俺が出てくるのを待っていてくれたらしい。
「ミラも助かったって言ってた。今日はありがとう、銀嶺」
『場所、分かった?』
「ああ。お前のおかげでな」
差し出した手へ、銀嶺が首を寄せた。
俺は灰白色の羽毛を撫でてから、岳の鞍を置ける乾いた場所を確かめた。
「帰る前に、背中を見せてくれるか。さっき約束したからな」
銀嶺はすぐに身体を寄せ、肩の付け根を見せるように翼を少し開いた。岳はその横へ腰を下ろし、こちらを眺めている。
俺はまず、銀嶺の背へ何も載せずに手を添えた。骨の出方も、背の傾きも岳とは違う。翼を動かしてもらうと、指の下で筋肉が大きく動き、革帯を通せそうに見えた場所まで形を変えた。
「ここを締めたら、翼の邪魔になるな。岳の鞍をそのまま使うのは、やっぱり無理そうだ」
『私の、作る?』
「作れるか、職人に相談する。その時にも、こうして見せてやってくれるか」
『隼人もいる?』
「ああ。俺から説明するよ」
銀嶺は落ち着いて翼を畳み、もう一度俺の手へ首を寄せた。
その背越しに、北へ連なる山が見えた。あの向こうには、水の減った湖と、崩れた巣と、鳥を刻んだ柱がある。
俺は銀嶺の身体をもう一度横から確かめ、職人へ伝えるため、翼の付け根と背の形を手帳へ描き始めた。
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