第3話 グリフォンがいても夜は危険だ
岳が仕留めてきた獣を食料にできるかどうか。
結論から言えば、俺は食べないことにした。
「少なくとも、今日はな」
岩陰から五十メートルほど離れた沢沿いで、俺は獲物を仰向けにした。
外見は兎に近い。短い耳、発達した後ろ脚。ただし背中から腰にかけて、爬虫類のような硬い鱗が並んでいる。
腹を開けば、内臓の配置にも見慣れない部分があった。
血の色は赤い。肉の匂いにも極端な違和感はない。
それでも、地球の常識をそのまま当てはめる気にはなれなかった。
『食えないのか』
岳が俺の手元を覗き込む。
「食えるかもしれない。でも、食えるかもしれないものを食う必要が今はない」
俺には携帯食が残っている。
異世界へ来て半日も経っていない段階で、未知の動物を試食して腹を壊すのは馬鹿らしい。
『俺は食う』
「お前は?」
『獲った時から食えると思っていた』
「何で分かる」
『匂いだ』
なるほど、と言いかけてやめた。
人間と猛禽では食べられるものが違う。それどころか、今の岳はグリフォンだ。何を消化できるのか本人にも分かっていない。
「少しだけにしろ。異常がないか様子を見る」
『この身体で腹を満たすには、少しでは足りん』
「だからこそだ。全部食ってから駄目でしたじゃ遅い」
岳は金色の目を細めたが、反論はしなかった。
こういうところは助かる。
気位は高いが、理由が通っていれば意地を張らない。
俺は食べられそうな肉を切り分け、岳へ一部だけ渡した。
残った内臓や血のついた部分を野営場所の近くへ捨てるような真似はしない。匂いに寄ってくるものが、この森に何種類いるか分からないからだ。
獣の残滓はさらに下流へ運び、寝場所から十分に距離を取った。
戻ると、蒼冠鷹は相変わらず近くにいた。
俺の左腕からは下りているものの、岩壁脇の枝へ止まり、こちらを見ている。
「お前、帰らないのか」
『ここにいる』
「巣は?」
『向こう』
嘴が森の奥を示す。
「なら戻った方がいいんじゃないか」
『今日はここ』
理由は聞かなくても分かる気がした。
《猛禽寵愛》。
説明通りなら、こいつは俺のそばにいたいだけなのだろう。
岳が少し離れたところから蒼冠鷹を見る。
『好きにさせればいい』
「さっきまで気にしてただろ」
『何のことだ』
声は平然としている。
尾だけが一度、地面を払った。
俺はそれ以上触れなかった。
◇
日が傾き始める前に、夜の準備を終えた。
火は大きくしない。
岩壁の前に小さな焚き火を一つ置き、寝床との間には十分な距離を取った。
湿った森では山火事の危険は低そうだが、ゼロではない。それ以上に、炎を大きくすれば遠くから目立つ。
周囲には細引きを張った。
罠ではない。
足首ほどの高さで木と木を結び、途中に乾いた枝を何本か引っかけただけだ。何かが踏み込めば枝が落ちて音がする。
『それで止められるのか』
岳が訊く。
「止めない。起こしてもらうだけだ」
『なるほど』
「知らない場所で寝る時に、一番怖いのは近づかれたことに気づかないことだからな」
焚き火のそばには、真っ直ぐな枝を一本置いた。
俺の身長より少し長い。
先端を山刀で削り、火で軽く炙って乾かしてある。
槍と呼べるほど立派なものではない。
熊のような大型獣をこれ一本で仕留めようとも思わない。
目的は距離を作ることだ。
牙や爪を持つ相手に、刃物一本で懐へ入るよりははるかにいい。
『俺がいる』
岳が言った。
「知ってる」
『なら、そこまでする必要はないのではないか』
俺は枝の先端を確認してから、岳を見る。
「お前は今日グリフォンになったばかりだろ」
『飛べなくなったわけではない』
「森の中じゃ翼を広げる場所も限られる。それに四本脚で歩くのもまだ慣れてない」
岳は黙った。
「お前が強いのは分かってる。でも、お前だけに全部任せる気はない」
金色の目がこちらを見る。
しばらくして、岳は岩壁の前へ伏せた。
『それでいい』
「何が」
『俺も、お前に守られているだけのつもりはない』
「……そうか」
鷹だった頃は、こんなことを考えていたのか。
聞けなかっただけで、岳にも岳なりの考えがずっとあったのだろう。
蒼冠鷹は頭上の枝へ移り、羽の間へ嘴を入れ始めた。
『寝る』
「自由だな、お前は」
『眠い』
「はいはい」
『隼人』
岳の低い意思が届く。
『そいつへの返事だけ雑ではないか』
「お前まで張り合うな」
異世界の最初の夜にしては、妙に賑やかだった。
だからこそ、一瞬だけ油断しかけたのかもしれない。
◇
枝が折れる乾いた音で目を覚ました。
身体を起こす前に耳を澄ます。
火はまだ残っている。
森は暗い。
二つの月があるとはいえ、巨木の葉が光を遮って、岩陰の外は黒く沈んでいた。
『起きているな』
岳の声。
「ああ」
声量を落として答える。
『五……いや、六いる』
「どっちだ」
『六だ』
岳はすでに立っていた。
羽毛がわずかに膨らみ、顔は森へ向いている。
蒼冠鷹も目を覚ましていた。
昼間の気楽な様子はなく、枝の上で身体を低くしている。
『嫌な奴ら』
短い意思が届いた。
「知ってるのか」
『肉を奪う。群れで来る』
森の暗がりに、光が浮いた。
一対。
少し離れてもう一対。
さらに左右。
目だ。
焚き火へ薪を一本足す。
炎が少し強くなり、その向こうに輪郭が見えた。
狼に似ている。
ただし、肩までの高さは大型犬どころではない。俺の腰近くまであり、胴も太い。
背中には黒い板状のものが何枚も並び、頭から肩を守るように重なっている。
「こっちの狼は鎧まで着てるのか」
『狼なのか』
「似たのが日本にいる。ここまで大きくないし、背中もあんなじゃない」
六頭はすぐには来なかった。
散らばって、こちらを囲もうとしている。
俺は即席の長物を手に取った。
「岳、追うな」
『分かっている』
「岩を背にする。左右から回らせない」
寝場所に選んだ岩壁が、ここで役に立った。
背後から来られる心配がない。
正面から入れる幅も限られている。
六頭が同時に飛びかかることはできない。
昼間なら逃げる選択肢もある。
だが夜の森を、土地勘もなく走る方が危険だ。
今はこちらの方が地形がいい。
一頭が前へ出た。
黒い鼻が空気を嗅ぐ。
岳が食べた獲物の血だろうか。
処理場所は離した。それでも岳自身や俺の手に残った匂いまで完全には消せない。
「食い物が目的なら、諦めて帰ってくれると助かるんだけどな」
『その顔には見えない』
「俺にもそう見える」
先頭の一頭が地面を蹴った。
速い。
焚き火を避け、右から飛び込んでくる。
『下がれ』
岳が前へ出た。
巨大な前脚が振られる。
鉤爪が狼に似た魔獣の肩へ食い込み、その身体を横へ弾き飛ばした。
鈍い音とともに、獣が地面を転がる。
強い。
予想以上だった。
だが、その一撃で終わらない。
倒れた仲間を避けるように、二頭目が岳の左から入り込んだ。
『――っ!』
岳が振り向く。
遅い。
「岳!」
俺は一歩踏み込み、長物の先を獣の顔へ突き出した。
仕留めようとは思っていない。
狙ったのは目と鼻。
硬く削った木の先が鼻面へ当たり、獣が顔を逸らす。
そこへ岳の嘴が落ちた。
一撃。
獣の首から、嫌な音がした。
その身体が崩れる。
「左!」
『見えている!』
今度は岳も反応した。
翼を開く。
飛ぶためではない。
巨大な翼が空気を叩いた。
突風が枯れ葉を巻き上げ、飛びかかろうとしていた三頭目が一瞬、体勢を崩す。
岳の前脚がその横腹へ入った。
だが、同時に別の一頭が低く潜った。
狙いは岳ではない。
俺だ。
「そう来るか」
長物を両手で構え直す。
逃げるスペースはない。
真正面から噛みつかれれば、腕一本では済まない。
獣が跳ぶ寸前、左へ半歩ずれた。
突っ込んできた頭を避け、肩口へ木の先を押し込む。
衝撃が両腕へ走った。
「ぐっ……!」
止めきれない。
俺より遥かに重い。
長物が弾かれ、獣の前脚が右腕を掠めた。
服が裂ける。
熱い痛み。
それでも倒れなかった。
近すぎる。
俺は長物を捨て、腰の山刀へ手をかけた。
その瞬間。
横から金褐色の塊が突っ込んだ。
岳だ。
獣の胴へ肩からぶつかり、そのまま岩壁から離れた場所まで押し飛ばす。
『隼人!』
「浅い! 俺より前を見ろ!」
傷を確認している暇はない。
残りが動く。
四頭。
いや、最初に弾き飛ばした一頭は起き上がれていない。
実質三頭。
こちらが二頭を倒したことで、動きが変わった。
さっきまで距離を詰めていたのに、今は円を描くように遠巻きにしている。
学習している。
「岳、出るな」
『逃がすのか』
「追えば囲まれる。向こうが帰るならそれでいい」
岳の爪には血が付いている。
呼吸も少し荒い。
グリフォンとして初めての実戦だ。
勝てるからといって、必要のない追撃をする理由はなかった。
獣たちはしばらくこちらを見ていた。
やがて一頭が低く唸り、森へ下がる。
残りも続いた。
暗闇に光っていた目が、一対ずつ消えていく。
すぐには動かない。
一分。
二分。
音が完全に遠ざかるまで待った。
「……行ったな」
『ああ』
岳が答える。
その直後だった。
左の翼が少し下がった。
「岳」
『問題ない』
「見せろ」
『浅い』
「見せろ」
もう一度言うと、岳は渋々身体をこちらへ向けた。
翼の付け根。
羽毛の間に細長い裂傷がある。
深くはない。
だが確実に血が出ている。
「これのどこが問題ないんだ」
『飛べる』
「飛べるかどうかの話はしてない」
『お前も血が出ている』
「俺は後だ」
焚き火を明るくする。
まず岳の傷を洗う。
日本から持ってきた救急用品には限りがある。グリフォンへ人間用の消毒薬を使っていい保証もないから、むやみに薬剤は使わず、清潔な水で汚れを落として圧迫した。
幸い出血はすぐに弱くなった。
筋や骨へ届いた様子もない。
「明日は飛行禁止」
『そこまでではない』
「却下」
『隼人』
「翼を悪化させたら、お前の一番の武器がなくなるだろ」
岳は何か言い返そうとして、やめた。
『……分かった』
「それでいい」
次は自分の腕を見る。
三本の線が走っていた。
服は裂けているが、傷そのものは浅い。
洗浄して処置を済ませる。
少し離れた場所では、蒼冠鷹が枝からこちらを見下ろしていた。
「お前は無事か」
『無事』
「それならいい」
『隼人、弱い』
「否定はしない」
『岳、強い』
『当然だ』
「そこで胸を張るな。怪我人だろ」
岳は黙った。
蒼冠鷹は俺の右腕の傷を見る。
『でも逃げなかった』
「逃げられなかっただけだ」
『同じ』
「結構違うぞ」
蒼冠鷹には伝わらなかったらしい。
首を傾げたあと、また羽を膨らませた。
俺は倒した獣へ目を向ける。
二頭。
岳がいなければ、俺一人ではまず勝てなかった。
逆に、俺が地形を選ばず、岳が六頭を追って森へ出ていたら、結果は違ったかもしれない。
グリフォンだから強い。
それは間違いない。
だからといって、何をしても勝てるわけではない。
この森には、昼間に岳自身が「俺より強い」と判断した何かまでいる。
焚き火へ枝を足しながら、俺は改めて暗い森を見た。
「やっぱり、早く人里を探した方がいいな」
『俺もそう思う』
岳が俺の横へ伏せた。
今度は先ほどより近い。
『次は俺が先に気づく』
「頼む」
『お前は寝ろ』
「交代でな」
『俺は昼間も眠れる』
「俺だって昼寝くらいする」
『では俺が先だ』
「分かったよ」
今度は反論しなかった。
夜はまだ長い。
それでも、さっきまでより少しだけ、この森の怖さが分かった。
分からないものより、分かった危険の方が対処できる。
山では、それだけでも大きい。
◇
夜明けまで、二度ほど遠くで鳴き声を聞いた。
それ以上の襲撃はなかった。
空が明るくなり始めると、俺は昨夜倒した獣を確認した。
食べるつもりはない。
必要なのは情報だ。
背中の黒い板は毛でも皮膚でもなく、骨に近い硬さだった。爪も長い。
犬歯に似た牙の根元には、細い溝がある。
「毒……か?」
断定できない。
ただ、噛まれなくてよかったと思う。
『持っていくのか』
「全部は無理だ」
岳が倒した証拠として何か使える可能性はある。
この世界に人間がいるなら、魔獣の素材を利用していてもおかしくない。
俺は比較的状態のいい黒い背板を一枚だけ外し、布で包んでザックへ入れた。
残りは持てない。
「行こう」
『どこへ』
「まず沢沿いに下る。人がいるなら、水の近くに道か集落がある可能性が高い」
『それなら』
声を挟んだのは蒼冠鷹だった。
いつの間にか、頭上から下りてきている。
『人間、いる』
俺は顔を上げた。
「どこに?」
蒼冠鷹が南東の空へ顔を向ける。
『遠い。木が切れているところ。人間がたくさん通る』
「道か?」
『道?』
「地面を踏んで、同じ場所を何度も通る」
『それ』
岳と目を合わせる。
『行くのか』
「行く」
迷う理由はなかった。
もっとも、蒼冠鷹の言う「遠い」が人間の距離感でどれほどなのかは分からない。
「案内できるか?」
『できる』
蒼冠鷹が飛び上がった。
そのまま行ってしまうかと思ったが、数十メートル先の枝へ止まり、こちらを振り返る。
どうやら俺たちの速度に合わせるつもりらしい。
「便利すぎて少し怖いな、このスキル」
『俺は最初から便利だったぞ』
岳が歩き出す。
「お前はスキル関係ないだろ」
『なら、もっと価値がある』
「自分で言うか」
『事実だ』
昨日までなら、鳴き声一つで済んでいた。
喋れるようになってから、岳が思っていた以上に自信家だったと知った。
俺は少し笑い、ザックを背負う。
右腕は動く。
岳の翼も、歩く分には問題なさそうだ。
飛ばないよう何度か念を押してから、蒼冠鷹の後を追った。
◇
森を抜けるまで、三時間ほどかかった。
蒼冠鷹は先へ行きすぎない。
こちらが遅れると枝で待ち、追いつけばまた飛ぶ。
途中で二度、大きく進路を変えた。
一度目は谷。
二度目は、蒼冠鷹が近づこうとしなかった区域だった。
『嫌な匂い』
それだけしか教えてくれなかったので、俺も無理に近づかなかった。
知らない場所では、現地の動物が避けるところを人間だけが平気だと思わない方がいい。
やがて木々の間隔が広くなる。
地面にも変化が出た。
「岳」
『見えている』
切り株だ。
自然に折れたものではない。
平らに切断されている。
刃物の跡まで残っていた。
少し先では、枝が人間の背丈ほどの高さで払われている。
さらに進む。
今度は地面に轍を見つけた。
二本。
雨で少し崩れているが、車輪が何度も通った跡だ。
「ようやくだな」
俺はしゃがみ、土へ触れた。
新しい。
昨夜雨が降った様子はない。それでも轍の一部はまだ角が崩れ切っていない。
最近、何かが通っている。
『これが道か』
「そうだ」
岳が左右を見る。
『人間の匂いもする』
「どっちが新しい?」
岳が少し鼻先を上げた。
『右だ』
蒼冠鷹も同じ方向を見る。
『人間、そっち』
「決まりだな」
轍を追い始めて十分ほど。
森の向こうから、初めて人の声が聞こえた。
「――誰か! そっちへ行ったぞ!」
言葉の意味が分かる。
《猛禽寵愛》とは関係ない。
転移時に何か別の作用があったのかもしれないが、今は考えている場合ではなかった。
続いて、金属同士が激しくぶつかる音。
獣の吠える声。
男の怒鳴り声。
岳が俺を見る。
『争っている』
「ああ」
少なくとも、人間はいた。
そして出会い方としては、あまり穏やかではなさそうだ。
「岳、翼は使うな。走れるか」
『誰に訊いている』
金色の目が細くなる。
昨夜の傷があるというのに、声には余裕が戻っていた。
「怪我人に訊いてる」
『余計な心配だ』
「無茶したら止めるからな」
『分かっている』
俺は山刀の位置を確認し、即席の長物を握り直した。
蒼冠鷹が先に飛び立つ。
だが、すぐに引き返してきた。
『人間、三人。大きい獣、四匹』
「人間が襲われてるのか?」
『追われてる』
それだけ分かれば十分だった。
「行くぞ、岳」
『ああ』
異世界へ来てから初めて出会う人間が、まともな奴らかどうかは分からない。
助けたあとで剣を向けられる可能性だってある。
それでも、目の前で食われようとしている人間を、確認もせず見捨てる理由にはならなかった。
俺と岳は声のする方へ走った。
木々の間から、荷車が見えた。
横倒しになった車輪。
剣を構える二人の男。
その後ろに、足を押さえて倒れている若い女。
そして彼らを囲んでいる、昨夜とはまた違う四頭の魔獣。
その一頭が女へ飛びかかった。
「岳!」
『任せろ』
金褐色の巨体が、俺の横から一気に加速した。




