第2話 岳以外も懐くらしい
森の奥から聞こえた咆哮は、一度きりでは終わらなかった。
二度目は少し近い。
腹の底へ響く低い音に合わせて、巨木の高い枝から何羽もの鳥が飛び立った。長い尾を持つもの、翼の先が青く光っているもの。そのどれも長野では見たことがない。
俺は立ち止まらず、斜面を横切るように歩いた。
『さっきの声から離れるのではないのか』
隣を進む岳が訊いてくる。
「離れてる。真っ直ぐ背を向けて逃げるより、まず位置をずらす」
血の匂いは風上から流れてきていた。
つまり、何かが獲物を仕留めた場所は風上側にある。今の風向きなら、こちらの匂いが向こうへ流れている可能性は低い。
わざわざ風向きを跨いで自分たちの存在を知らせる必要はなかった。
「腹が減って獲物を探してるなら別だけど、血の匂いがこれだけ濃いってことは、向こうにはもう餌がある。縄張りに踏み込まなきゃ追ってくる可能性は下がる」
『なるほど』
岳は素直に頷いた。
グリフォンの身体になっても、こうして話していると昔と変わらない。
いや、昔からこんなに理屈っぽい奴だったのかもしれない。俺が理解できなかっただけだ。
「それより岳、身体はどうだ」
『重い』
「だろうな」
『飛べないとは思わない。ただ、以前と同じようにはいかない』
岳が翼を半ばまで広げる。
枝葉の隙間を抜けた光が、金褐色の羽毛を滑った。オオタカだった頃とは比較にならない翼幅だ。左右いっぱいまで開けば、狭い森の中では木にぶつかる。
飛行能力そのものはあるらしい。
だが、転移して数十分も経っていない。新しい身体でいきなり俺を背負わせる気にはならなかった。
「今日は無理に飛ぶな。広い場所を見つけてから試そう」
『俺もそのつもりだ』
「そこは話が早くて助かる」
『昔からお前より慎重だ』
「それは初耳だな」
岳の嘴がわずかに開いた。
笑っているのかもしれない。
会話ができるようになったことで、今まで何となく感じていた岳の性格が輪郭を持ち始めていた。
落ち着いている。
少し気取っている。
そのくせ妙に自信家だ。
二枚目という言葉が鳥に当てはまるのか知らないが、少なくとも本人はかなり格好をつける方らしい。
斜面を下りながら、俺は足元と周囲を交互に見る。
水を探すなら低い方へ向かうのが基本だ。
もちろん地形次第では沢が地下へ潜ったり、崖へ出たりする。何でも下ればいいわけではない。
だが、木々の根元を見る限り、こちら側は湿っている。
苔の量も増えていた。
しばらく進むと、微かな音が耳に入った。
「水だ」
『分かるのか』
「聞こえる」
岳が首を傾ける。
『俺にはまだ聞こえない』
「お前、耳は悪くなったのか?」
『知らん。今日初めてこの身体になった』
「それもそうか」
百メートルほど下ったところで、小さな沢が見えた。
幅は二メートルほど。
透明な水が岩の間を流れ、底の小石まで見える。
だからといって、そのまま口をつける気にはならない。
見た目が綺麗でも、上流に死骸があるかもしれない。異世界ならなおさら、何が混じっているか分からなかった。
俺は沢沿いを少し上り、周囲を確認する。
大型動物の足跡はある。
三本指。
鳥に似ているが、一つの足跡が俺の手より大きい。
「岳」
『俺ではない』
「分かってる」
岳の足跡はもっと大きい。
それに、この跡は古い。
泥の縁が崩れて乾き始めているから、少なくとも今すぐ近くにいるわけではなさそうだ。
俺はザックを下ろした。
中身を確認する。
水筒、救急用品、携帯食、細引き、折り畳み式の小型鋸、火を起こす道具、予備の革紐。それから山へ入る時に持ち歩いている刃物。
スマートフォンもあった。
画面は点く。
当然ながら圏外だった。
「まあ、そうだよな」
『それは何だ』
岳が覗き込んでくる。
「スマホ」
『知っている』
「そういや見てたな」
『光る板だ』
「だいぶ雑な理解だな」
『俺には必要なかった』
それはそうだ。
俺は時刻を確認する。
十四時十三分。
問題は、こっちの世界でも日本と同じ速度で時間が進むかどうかだ。
空の明るさを見る限り、すぐ日が暮れる感じではない。それでも見知らぬ森で夜を迎える以上、余裕を持った方がいい。
「水を確保して、寝る場所を探す」
『食べ物は』
「今日は持ってる。岳の分は……」
そこで止まった。
オオタカだった頃と違って、今の岳がどれだけ食うのか見当もつかない。
岳自身も気づいたらしい。
『かなり腹が減っている』
「どれくらいだ」
『分からん。ただ、お前が持っている肉では足りないと思う』
「だろうな」
この体格で、鶏肉数百グラムというわけにはいかない。
今日中に獲物を確保する必要があるかもしれない。
とはいえ、先ほどの咆哮の主がいる森で、血の匂いを撒き散らすのも危険だ。
俺はまず水筒を満たし、携帯用の浄水手段を使って飲める状態にした。
岳は沢へ嘴を入れようとしたので止める。
「待て」
『喉が渇いた』
「上流をもう少し見る」
『水だぞ』
「水だからだ」
岳が不満そうに目を細めた。
「今までの日本の山と一緒だと思うな。見たことない寄生虫がいても知らんぞ」
『寄生虫』
「腹の中に住み着く奴だ」
岳は沢から一歩下がった。
『確認してこい』
「急に素直だな」
『腹の中を何かに住まわせる趣味はない』
そこは俺も同感だった。
上流へ百メートルほど進んだところで、湧き出している場所を見つけた。
岩の隙間から直接流れ出している。
周囲に死骸もない。
俺が先に少量確認し、その後で岳にも飲ませた。
巨大な嘴で水を飲む姿は迫力があるのに、動き自体は昔とあまり変わらない。
何度か嘴を水へ入れ、顔を上げる。
そのたび、首の羽が揺れた。
「岳」
『なんだ』
「見た目だけなら本当に別の生き物だな」
『中身は同じだ』
「分かってる」
だからこそ、不思議だった。
どういう理屈でオオタカがグリフォンになるのか。
俺は人間のままなのに、岳だけが変化した。
《猛禽寵愛》と関係があるのか、それとも異世界転移そのものの影響なのか。
考えても答えは出ない。
今必要なのは原因究明より、日が暮れる前の準備だった。
◇
沢から少し離れた場所に、岩壁が張り出した場所を見つけた。
完全な洞窟ではない。
巨大な岩が斜めにせり出し、その下が雨を避けられる程度の空間になっている。
背後が岩。
正面はある程度開けている。
沢にも近すぎない。
「今夜はここだな」
『狭い』
「お前基準で選んだら家が要る」
岳が中を覗く。
人間一人なら十分だが、今の岳が入れば身体の半分以上が外へ出る。
『俺は外でいい』
「雨が降ったら?」
『羽がある』
「風邪引いても知らんぞ」
『鳥に風邪の心配をするのか』
「昔からしてた」
岳は少し黙った。
『……そうだったな』
そこだけ声が柔らかくなった。
俺はザックを下ろし、周囲の枯れ枝を集める。
火は小さくする。
煙を上げれば、人間がいれば目印になるが、同時に魔獣にも居場所を教えることになる。
どちらが正解か分からない以上、今は目立たない方を選んだ。
枯れ枝を拾いながら、俺は岳へ声をかける。
「動けそうなら、周囲を見てきてくれるか」
『飛ぶのか』
「いや。歩ける範囲でいい。血の匂いが濃くなったら戻れ」
『分かった』
岳が森へ消える。
四本脚で歩く姿は、まだ少しぎこちない。
前脚は鳥の鉤爪。
後ろ脚は獅子。
本人も時々歩幅を合わせ損ねている。
それでも、巨体の割に音は小さかった。
元々、獲物へ悟られず近づくことに慣れた鳥だ。その感覚が身体を変えても残っているのだろう。
俺は簡単な寝床を整えたあと、周辺で食べられそうなものを探した。
知らない植物は口にしない。
山菜に似ているからといって食える保証はない。
茸など論外だ。
携帯食があるうちは無理をしない。
ただ、この先何日山にいるか分からない以上、食料になるものの目星は付けておきたかった。
少し離れた場所で、土が掘り返されている。
獣が根を漁った跡だ。
さらにその先。
小さな糞。
草食獣らしい。
周囲の枝には毛も付着している。
「鹿みたいなのがいるか」
俺は膝をついて痕跡を見る。
足跡は二つに割れている。
蹄だ。
大きさからして、中型。
新しい。
まだ縁が乾いていない。
狩るなら候補になる。
だが、今日は追わない。
知らない獲物を、知らない土地で、知らない捕食者がいる状態で追跡するのは危険すぎる。
戻ろうとした時だった。
上から、細い鳴き声が落ちてきた。
「……ん?」
見上げる。
枝の間に何かいる。
小型の鳥。
いや、鳥にしては大きい。
翼を畳んでも一メートル近くある。
身体は灰白色で、頭部は鷹に似ていた。だが額から後頭部にかけて、青い羽毛が冠のように伸びている。
足の爪も異様に長い。
どう見ても普通の鳥ではない。
そいつが俺を見ていた。
「猛禽……か?」
独り言のつもりだった。
ところが。
『見つけた』
頭の中に声が届いた。
俺は動きを止める。
「……今の、お前か?」
枝の上の鳥が翼を広げた。
次の瞬間、こちらへ飛び降りてくる。
身構えたが、敵意は感じない。
というより。
「おい、待て」
鳥は速度を落とさず俺へ向かってきた。
反射的に左腕を上げる。
革手袋の上へ、ずしりと重みが乗った。
「重っ……」
岳だった頃より明らかに重い。
十キロまではないだろうが、片腕で長く支えるのはきつい。
灰白色の猛禽は、俺の腕へ止まったまま顔を近づけてきた。
警戒の様子はない。
それどころか、額を俺の肩へ擦りつけてくる。
『いい匂い』
「何が?」
『お前』
「……いや、知らん」
困っていると、視界に文字が浮かんだ。
『《猛禽寵愛》が発動しています』
『対象:蒼冠鷹』
『好意:非常に高い』
俺は表示と、腕の上の鳥を交互に見る。
「本当に岳だけじゃないのか」
『岳?』
「相棒だ」
『会いたい』
「たぶんすぐ戻ってくる」
言った直後、森の奥から枝が鳴った。
岳だった。
口元には血が付いている。
その嘴には、兎を一回り大きくしたような獣が咥えられていた。
どうやら自分で夕食を確保してきたらしい。
『隼人。食えるものを――』
岳が止まった。
金色の目が俺の左腕へ向く。
蒼冠鷹も岳を見る。
しばらく沈黙。
『誰だ、それは』
「俺が聞きたい」
『なぜお前の腕にいる』
「勝手に来た」
『勝手に?』
「《猛禽寵愛》らしい」
岳は獲物を地面へ置いた。
ゆっくりこちらへ歩いてくる。
蒼冠鷹は怖がるどころか、俺の肩へさらに頭を押しつけた。
『この人間、好き』
岳の歩みが止まる。
『……そうか』
声は平静だった。
顔も平静。
ただし尾だけが、地面を一度強く叩いた。
「岳」
『なんだ』
「怒ってるか?」
『別に』
「そうか」
『俺は別に何も思っていない』
「分かった」
『昔からお前の腕は俺が使っていたが、それだけだ』
「かなり思ってるじゃないか」
岳が顔を逸らした。
どうやらグリフォンになっても、分かりやすいところはあるらしい。
俺は腕に止まった蒼冠鷹を見る。
向こうは完全にくつろいでいる。
岳とは何年もかけて関係を築いた。
餌を与え、訓練し、毎日状態を見て、一緒に山へ入ってきた。
それが、この鳥は出会って数十秒だ。
警戒どころか、自分から身体を寄せている。
スキルの説明にあった言葉を思い出す。
猛禽および猛禽系統に属する魔獣・幻獣から、極めて強い好意を受ける。
「思ってたより、とんでもない能力かもしれないな」
『今さら気づいたのか』
岳が呆れたように言う。
「実物を見るまでは半信半疑だった」
『俺がいる』
「お前は元から俺の相棒だろ」
岳は一瞬黙った。
それから、少しだけ胸を張った。
『それもそうだ』
二枚目を気取っていても、こういうところは昔から変わらないらしい。
俺は蒼冠鷹を腕に乗せたまま、地面へ置かれた獲物を見る。
「ところで岳、それ自分で獲ったのか」
『当然だ』
「新しい身体で?」
『四本脚はまだ邪魔だが、飛びつく程度なら使える』
よく見ると獲物の首が一撃で折れている。
余計な傷も少ない。
身体が変わっても、狩りの技術まで消えたわけではない。
俺は獲物の身体を確認した。
兎に似ているが、耳は短く、背中に硬い鱗が並んでいる。
知らない動物だ。
食えるかどうかも分からない。
『食べないのか』
「まず調べる」
『腹が減った』
「お前はもうちょっと待て」
『さっきから待っている』
「腹壊すよりいいだろ」
岳は不満そうだったが、それ以上は言わなかった。
俺は腰の刃物へ手を伸ばす。
異世界で最初の夜。
水は確保した。
寝場所もある。
食料候補も手に入った。
そして岳以外の猛禽が、会った瞬間から俺へ懐いた。
まだ人里がどこにあるのかすら分からない。
それでも、この世界で生きるための手札が一枚ずつ見えてきていた。
問題は。
左腕に蒼冠鷹。
目の前にグリフォン。
その二羽――いや、一羽と一頭が、互いに俺を挟んでじっと見ていることだ。
『隼人』
「なんだ」
『そいつはいつまでいる』
『ここにいる』
蒼冠鷹が先に答えた。
岳の尾が、もう一度地面を叩いた。
どうやら異世界で最初に頭を悩ませるのは、食料でも魔獣でもないかもしれない。




