第1話 愛鷹がグリフォンになった
異変に最初に気づいたのは、俺ではなく岳だった。
長野の山に九月の乾いた風が吹き抜け、尾根沿いの木々がざわざわと葉を揺らしている。谷から上がってくる風は少し冷たいが、空はよく晴れていた。
俺は革手袋をはめた左腕を下ろし、上空を旋回する一羽のオオタカを見上げた。
「岳」
声をかける必要はなかったかもしれない。
岳は俺の位置を把握している。何年も一緒に山へ入っている相棒だ。こちらがわずかに身体の向きを変えただけでも、次に何を求めているか察することさえある。
だが、その岳が戻ってこない。
獲物を見つけたわけでもなかった。
翼を張ったまま、山の上空の一点を見つめている。
「どうした?」
神代隼人、二十三歳。
俺は長野県の山間部で、代々鷹を扱ってきた家に生まれた。
祖父も父も鷹を飛ばし、俺も物心つく前から鳥の羽音を聞いて育った。鷹の扱いだけでなく、山の歩き方、天候の読み方、野営、水場の探し方まで教え込まれている。
鹿や猪を捌く手伝いも何度となくしてきた。
だから、山に入って何かがおかしい時には、理由が分からなくても先に警戒する癖がついている。
岳の様子は明らかにおかしかった。
俺は背負っていたザックの肩紐を締め直し、周囲へ視線を走らせた。
風向きは変わっていない。獣の気配もない。
それなのに、森から音が消えていた。
さっきまで枝の間で鳴いていた小鳥の声も、草むらを走っていた虫の羽音も聞こえない。
「岳、戻れ」
今度は明確に呼び戻した。
岳が翼を傾ける。
こちらへ向きを変えた、その時だった。
空が割れた。
「……は?」
雲ひとつなかった青空に、黒い線が走った。
最初は細かった。それが枝分かれしながら広がり、空そのものに巨大な亀裂が入ったように見えた。
その奥から青白い光が漏れ出す。
雷ではない。
雲もないのに腹の底へ響く低い音が山全体を震わせ、足元の小石が跳ねた。
「岳! 来い!」
考えるより先に左腕を上げていた。
岳が急降下する。
普段なら見惚れるほど正確な降下だったが、今日は途中で横風でも受けたように身体が流れた。
いや、風じゃない。
空の亀裂へ向かって、何もかもが引っ張られている。
枯れ葉が舞い上がり、細い枝がしなり、俺の服まで背中側へ引かれ始めた。
「くそっ……!」
右足を木の根元へ踏み込み、身体を低くする。
逃げるなら岳を回収してからだ。
その判断だけは迷わなかった。
翼を激しく打った岳が距離を詰め、伸ばした俺の左腕へ降りる。鉤爪越しの重みが革手袋へ乗った瞬間、俺は岳を胸元へ引き寄せた。
「大丈夫だ。離れるなよ」
岳が短く鳴いた。
次の瞬間。
空の亀裂から光が落ちた。
避ける暇などなかった。
山も、木も、岳も、俺自身も、視界から一度に消えた。
◇
身体が落ちている。
そんな感覚だけがしばらく続いた。
上下の感覚がなくなり、耳の奥で甲高い音が鳴っている。息をしようとしても胸がうまく膨らまない。
それが突然終わった。
「ぐっ!」
肩から硬い地面へ叩きつけられ、肺の空気が一気に抜ける。
枯れ葉と湿った土の匂いが鼻へ入った。
すぐには起き上がらない。
まず指を動かす。次に肘、肩、足首。頭を打った感覚はなく、吐き気もない。右肩に鈍い痛みはあるが、骨が折れた感じでもなかった。
俺は身体を横へ向け、片膝を立てた。
「岳」
返事がない。
その瞬間、痛みより先に意識が覚醒した。
「岳!」
立ち上がる。
背中のザックはある。革手袋も左手にはまったままだ。しかし、転移直前まで腕にいた岳がいない。
周囲は森だった。
ただし、長野の山ではない。
最初に目についたのは木の太さだ。数人が腕を広げても囲めそうにない巨木が並び、その幹には青みを帯びた苔のようなものが張りついている。
葉も見たことがなかった。
楓に似ているが、一枚が俺の顔ほどもある。
空気には湿気が多く、知らない花の甘い匂いに混じって、獣臭のようなものが漂っていた。
そして頭上。
枝の隙間から見える空には、さっきまでなかったものが浮かんでいる。
昼間だというのに、青白い月が二つ。
「……長野じゃないな」
混乱はしている。
だが、目の前にあるものまで否定しても仕方がない。
山で道を失った時、最初にやってはいけないのは、焦って動き回ることだ。
位置が分からないなら現在地を確認する。日没までの時間を見る。水、風、地形、安全に夜を越せる場所。それから移動する。
問題は、今回は遭難とは少し事情が違うことだった。
少しどころではないか。
空が割れて光に呑まれ、見知らぬ森に落とされた。二つの月まで浮いている。
「異世界……ってことか?」
自分で口にすると、さすがに現実味がなかった。
だが、その直後。
視界の中央に淡い光が浮かんだ。
『異界転移が完了しました』
「……なるほど」
ここまで明確に答えを出されたら、疑う余地もない。
続いて半透明の文字が並ぶ。
『転移個体の情報を確認します』
『神代隼人』
『種族:人間』
『固有スキルを確認』
『《猛禽寵愛》を獲得しました』
知らない文字のはずなのに読める。
いや、読んでいるというより、意味そのものが頭に入ってくる感覚に近い。
俺は表示された最後の一行を見る。
「猛禽寵愛……?」
嫌なほど俺向きの名前だった。
文字へ意識を向けると、説明が開いた。
『《猛禽寵愛》』
『猛禽および猛禽系統に属する魔獣・幻獣から極めて強い好意を受けます』
『対象との意思疎通が可能になります』
そこまで読んだところで、俺は表示を手で払った。
今はスキルより岳だ。
「岳!」
声が巨木の間へ抜けていく。
耳を澄ます。
返事はない。
代わりに、かなり離れた場所で枝が折れる音がした。
俺は腰へ手を伸ばした。
山へ入る時に持っている刃物は残っている。一本でどうにかなる相手かは知らないが、素手よりはましだ。
音は一度では終わらなかった。
太い枝が次々に折れ、何か大きなものが近づいている。
四足獣にしては重い。
熊よりも明らかに大きい。
俺は巨木を背にし、左右を確認した。正面から来るなら木を挟む。走って逃げるのは相手を見てからだ。
やがて低い茂みが揺れた。
現れたものを見て、俺は刃物を抜く手を止めた。
「……嘘だろ」
鳥の頭。
鋭く湾曲した巨大な嘴。
金褐色の羽毛に覆われた首から、二枚の翼が畳まれている。
そこから後ろは、獅子そのものだった。
肩の高さだけでも俺の胸を越えている。
前脚には、鹿くらいなら簡単に掴み上げそうな黒い鉤爪。後ろ脚は太く、尾の先では房状の毛がゆっくり揺れている。
知らなくても分かる。
「グリフォン……」
子供の頃に図鑑やゲームで見た怪物が、十メートルも離れていない場所に立っていた。
しかもこちらを見ている。
逃げるか。
木を挟んで時間を稼げるか。
翼がある以上、走って振り切るのは難しい。
頭の中で選択肢を組み立てていると、グリフォンが一歩前へ出た。
「止まれ」
通じるとは思っていない。
だが、声量を上げずに告げる。
グリフォンは本当に止まった。
「……通じたのか?」
返事はない。
代わりに、そいつは頭を少し右へ傾けた。
その仕草を見た瞬間、胸の奥が妙にざわついた。
見覚えがあった。
岳は昔から、俺の声を聞き取ろうとする時だけ、わずかに右へ首を傾ける。
もちろん、それだけなら偶然だ。
俺はグリフォンの顔を見た。
鋭い金色の目。
黒に近い嘴。
そして――右目の上。
羽毛の間を斜めに走る、細い傷跡。
呼吸が止まった。
岳にも同じ場所に傷がある。
二年前、山で枝へ接触した時についた古傷だった。目には届かず大事には至らなかったが、羽毛が生え替わっても傷の部分だけはわずかに残った。
同じ位置。
同じ角度。
俺は刃物から手を離した。
「……岳?」
グリフォンの翼がわずかに浮いた。
次いで、大きな身体がこちらへ向かって動き始める。
「待て、岳なら――」
言い終わる前に距離を詰められた。
巨大な嘴が顔のすぐ横まで来る。
反射的に身体へ力が入ったが、グリフォンは噛みつかなかった。
嘴の横を、俺の左腕へ押しつけてくる。
革手袋へ。
岳が呼び戻しのあと、機嫌がいい時にやる癖だった。
「……本当に岳なのか」
『遅い』
男の声ではない。
音ですらなかった。
それなのに、その言葉だけがはっきり頭の中へ届いた。
俺はしばらく岳を見上げた。
グリフォンも俺を見下ろしている。
「お前、喋れるのか?」
『今までも伝えていた。お前が分からなかっただけだ』
静かで、妙に落ち着いた意思が返ってくる。
これまで鳴き声や仕草でしか分からなかった相棒の中身が、いきなり言葉になった。
しかも思っていたよりずいぶん気取った奴らしい。
「そうかよ」
『そうだ』
岳は当然のように答えたあと、自分の身体を見下ろした。
鳥だった頃にはなかった獅子の前脚を眺め、身体をひねって後ろ脚を見る。
長い尾が視界へ入ったところで、その動きが止まった。
『隼人』
「なんだ」
『俺の身体が妙だ』
「俺も今、それをどう説明するか考えてた」
岳はもう一度、自分の後ろ半分を確かめた。
『脚が増えている』
「そこからか」
『尾もある』
「あるな」
『大きくなった』
「それは見れば分かる」
真面目に確認している岳を見ているうちに、張りつめていたものが少しだけ緩んだ。
状況そのものは何ひとつ解決していない。
ここがどこなのか。
どうして転移したのか。
岳がなぜグリフォンになったのか。
帰る方法があるのか。
分からないことばかりだ。
それでも、一人ではなかった。
俺は岳の右目の上へ手を伸ばした。
巨大な鉤爪も嘴もある怪物が、俺の手を避けずに頭を下げる。
指先に触れた羽毛の感触まで、昔の岳とは比べものにならないほど硬く厚い。
「まあ、生きてたならいい」
『お前もな』
短く返した岳が顔を上げる。
その金色の目が突然細くなった。
『隼人』
さっきまでとは声の質が違った。
「どうした」
『血の匂いがする』
俺はすぐに右肩へ手を当てた。
「俺じゃない。擦りむいてる程度だ」
『違う。向こうだ』
岳の顔が森の奥へ向く。
俺もそちらを見る。
風向きはこちら側。
数秒遅れて、俺の鼻にも鉄臭い匂いが届いた。
かなり濃い。
何か一頭を解体した程度ではない。
その時、遠くから低い咆哮が響いた。
空気が震え、頭上の巨大な葉から水滴が落ちる。
岳が翼をわずかに開いた。
広げ切ってもいないのに、それだけで周囲が暗くなるほど大きい。
『あれは俺より強い』
初めて聞く異世界の生物について、岳は迷いなくそう判断した。
俺はザックの肩紐を締め直した。
「なら、離れる。水場を探して、暗くなる前に寝場所を決めるぞ」
『戦わないのか』
「勝てない相手と戦うほど、山を知らないわけじゃない」
岳が少しだけ嘴を開いた。
笑ったように見えたのは、気のせいではないらしい。
『それでいい』
俺は森の木々を見上げた。
二つの月。
見たことのない植物。
どこかで獲物を食っている、岳より強い何か。
そして俺の隣には、昨日までオオタカだったグリフォンがいる。
視界の端では、《猛禽寵愛》という文字がまだ淡く光っていた。
この能力が何を意味するのかは、まだ分からない。
ただ一つだけ確かなことがある。
ここは長野の山じゃない。
俺たちは、本当に異世界へ来てしまった。
「行くぞ、岳」
『ああ』
山で生きるために必要なのは、勇気じゃない。
状況を見て、無理をせず、生き残るための判断を積み重ねることだ。
世界が変わっても、それまで変わったとは思わない。
俺は岳と並び、見知らぬ森の奥へ歩き始めた。




