第26話 空の中継所
岩翼鷲と見張り塔の使い方を話し合った翌朝、ギルドへ顔を出すと、ミラの受付前には道路管理を担当している男と、もう一人、見覚えのない大柄な男が待っていた。
厚手の作業着には白っぽい石粉が染みつき、腰の革袋からは小ぶりの槌や鑿が覗いている。太い指にも細かな傷が多く、何を仕事にしているのかは紹介される前からだいたい想像できた。
「石工の親方よ。昨日話していた見張り塔を見てもらうことになったわ」
「神代隼人です。よろしくお願いします」
「ああ。空から見つけた古い塔だろ。話は聞いてる」
差し出された手を握ると、分厚い掌は硬かった。
道路管理の男が机へ地図を広げ、北東の尾根を指す。
「旧道を本格的に直すのは、まだ少し先になる。ただ、あの塔が本当に使えるなら、先に最低限の補修だけしておきたい。地上から向かえば崩落と倒木を避けるだけで相当時間が掛かるからな」
「今日は状態を確認するのが中心ですか?」
「そうだ。使えない建物へ材料を運んでも仕方ない。親方に見てもらって、危ない石を落とすとか、一階を休憩に使える程度まで片づけられるなら、その場でやってしまいたい」
運ぶ荷物の一覧も用意されていた。石工道具のほかに、水袋、乾燥肉、毛布、油布、縄、火起こしの道具と簡単な救急用品。遠くへ飛んだ人間が予定外に足止めされた時、一晩をしのぐための最低限の備えだ。
「これくらいなら岳も問題ないと思います。ただ、親方も乗るなら、実際に積んでから左右の重さを確認させてください」
「そこは任せるわ」
ミラが頷く。
「それと、塔を使ってる岩翼鷲の方もお願いね。人間が勝手に押しかけて揉めるのは避けたいから」
「分かりました。昨日は一階を使うくらいなら構わないと言ってましたけど、工事する人を連れていく話まではしてません。着いてからもう一度確認します」
道路管理の男が苦笑した。
「猛禽系魔獣に工事の説明まで必要になるとは思わなかった」
「向こうからすれば、自分の休み場に知らない人間が道具持って来るわけですからね」
「そう言われると、挨拶なしで入る方が失礼に思えてくるな」
話が早い相手で助かる。
◇
西門の外へ出ると、岳はいつもの草地で待っていた。
石工の親方は近くまで来てから足を止め、しばらく岳を見上げた。昨日まで話だけ聞いていた巨大なグリフォンを、実際に自分が乗ることになるのだから無理もない。
「岳、今日は俺とこの人を見張り塔まで運んでほしい。塔を直せるか調べる石工さんだ」
『また人間を乗せるのか』
「ああ。道具と備蓄も少しある」
岳が親方を上から下まで見る。
『昨日の人間より重そうだ』
思わず口元が緩む。
「何か言ったか?」
親方に訊かれ、少し迷ったが隠すほどのことでもない。
「岳が、今まで乗せた人より重そうだって言ってます」
親方は腹を立てるどころか、豪快に笑った。
「そりゃそうだ。石を相手に三十年も働いてりゃ、細くはならん」
『怒らないのか』
「笑ってるよ」
『変な人間だな』
「そこまで伝えなくていいか」
「今度は何だ?」
「内緒にしときます」
「余計に気になるじゃねえか」
話しながら補助座席を取り付ける。
胸と腰を支える安全帯の位置を確認し、親方には実際に座ってもらった。工具袋は背負わせず、岳の身体の横にある荷物用固定具へ取り付ける。反対側には水と備蓄品を分け、荷が動かないよう締め直した。
「岳、立ってみて」
ゆっくり身体が持ち上がる。
親方の手が革輪を強く握った。
「左右どうだ?」
『左が少し重い』
「分かった」
水袋を一つ右へ移し、もう一度確認する。
『これならいい』
「大丈夫そうです」
俺が伝えると、親方は岳の背を軽く見下ろした。
「本人がそこまで分かるなら、俺が口出すことはなさそうだな」
「飛ぶ本人ですからね。違和感がある時は岳の感覚を優先します」
安全帯を最後に引き、俺も前の座席へ跨がった。
「離陸の時が一番驚くと思います。怖くても岳の首や翼には掴まらず、革輪を持ったままでいてください」
「今のうちに言っとくが、もう少し足が震えてる」
「初めてなら普通ですよ」
「町へ帰ったら黙っといてくれ」
「善処します」
「そこは約束しろ」
岳が地面を蹴った。
◇
親方が息を呑む気配は、背中越しでも分かった。
岳は人を二人乗せていることを意識して、普段より大きく翼を使っている。急に身体を傾けることもなく、緩やかに高度を上げていく。それでも地面が離れていく感覚は、初めての人間にはかなり強烈なのだろう。
「大丈夫ですか?」
「ああ。大丈夫だが……これ、まだ上がるのか?」
「尾根を越えるので、もう少しだけ」
「聞かなきゃよかった」
声は強張っているが、革輪から手を離したり身体を反らしたりはしない。
瑠璃が横を飛びながら親方を見る。
『怖がってる』
「初めてだからな」
「瑠璃か?」
「はい。怖がってるって言ってます」
「見れば分かるだろうが」
親方が苦笑する。
「この歳になって鳥に心配されるとは思わなかった」
『鳥』
瑠璃が少し嬉しそうに翼を上げた。
「今度は?」
「鳥って呼ばれたのが気に入ったみたいです」
「蒼冠鷹って魔獣なんだろ?」
「本人の認識はかなり鳥寄りみたいですね」
そんな話をしているうちに、親方の肩から少し力が抜けていった。
眼下には、調査した旧道が伸びている。補修が必要な木橋、風倒木で塞がれた区間、山肌ごと道が消えた大崩落。地上からなら簡単には越えられない場所が、空から見ると地図の印と重なるように並んでいた。
「なるほどな」
親方が下を見て呟く。
「何がです?」
「お前たちが空から道を調べる意味だ。地面から歩いてたら、あの崩れの向こうを見るだけでも一仕事だろう」
「だからといって、地上の道が要らなくなるわけじゃないですけどね」
「その辺は分かってる。俺たちみたいな人間まで毎日グリフォンで飛べるわけじゃない」
「それなら話が早いです」
「もう一度乗れって言われた時は考えるけどな」
さっきより声に余裕があった。
◇
尾根の見張り塔が見え始めた頃、塔の上から灰褐色の影が舞い上がった。
親方の身体に再び力が入る。
「あれか?」
「岩翼鷲です」
大きな翼がこちらへ向かってくる。
岩翼鷲は岳へ敵意を見せず、その周囲を一度ゆっくり回ったあと、俺の方へ顔を向けた。
『隼人』
「また来たよ」
『知らない人間もいる』
「塔を直せるか見てもらうために連れてきた。昨日話した人間の工事を、この人が考える」
岩翼鷲は親方を見る。
『上は壊さない?』
「そこを気にしてるのか」
俺は親方へ振り向いた。
「岩翼鷲が、塔の上を壊さないか気にしてます」
「上はあいつが使う場所なんだろ?」
「はい」
「なら勝手には触らん。危なくて放っておけない石があるなら、隼人を通して話してからだ。俺が見たいのはまず一階と外壁だからな」
そのまま岩翼鷲へ伝える。
「上を勝手に作り変えるつもりはないって。もし危険な場所があって触る必要が出たら、その時は先に俺から話す」
岩翼鷲はしばらく親方を見つめ、それから一度だけ翼を畳んだ。
『ならいい』
「大丈夫だそうです」
「よし。魔獣から工事の許可を取るのは初めてだが、仕事は仕事だ」
親方の返事に、俺は少し笑った。
◇
岳を塔から離れた岩場へ降ろし、親方の安全帯を外す。
地面へ両足を付けた瞬間、親方は腰へ手を当てて大きく息を吐いた。
「地面ってありがたいな」
「帰りも岳ですけど」
「今だけは忘れさせてくれ」
工具と荷物を下ろし、塔へ向かう。
岩翼鷲は先に頂上へ戻っていた。瑠璃は昨日と同じように塔の上を奪おうとはせず、少し低い石壁へ止まる。
『上はあの子の場所』
「覚えてたんだな」
『言ってたから』
相手の縄張りや定位置に関しては、猛禽同士の方が人間より分かりやすいのかもしれない。
石工の親方は塔へ着くなり、昨日の俺とは比べものにならないほど細かく外壁を調べ始めた。手で石を押し、槌で軽く叩き、目地へ鑿の先を当てて崩れ方を見る。大きな亀裂では足元まで確認し、時々塔から距離を取って全体を眺めた。
しばらく黙って見ていたが、やがて親方が頷く。
「思ってたより残ってるな」
「使えそうですか?」
「一階なら十分だ。石そのものは丈夫だし、外壁も今すぐ倒れるような状態じゃない。ただ、目地が痩せてる場所は多い。雨水が入ったまま冬を迎えると、凍って亀裂が広がる」
「そこは直した方がいい?」
「ああ。本格的にやるなら材料が要るが、今日は応急でいくつか塞げる」
次に崩れた階段を見る。
「こっちは駄目だ。人間は上へ上がらない方がいい。階段だけじゃなく、二階の床まで傷んでる可能性が高い」
「岩翼鷲は上を使ってますけど」
「あいつは階段も床も使わず、外から直接降りるだろ。人間とは条件が違う」
もっともだった。
◇
まず、一階に転がっている瓦礫を片づけることになった。
人間二人で運べる石は俺と親方で外へ出し、持ち上げるのが危ない大きさだけ岳に頼む。
「岳、この石を入口の外まで動かせる? 壁にはぶつけないでくれ」
『これか』
「そう。それだけでいい」
岳は前脚と嘴を使い、重い石をゆっくり持ち上げた。力任せに放り出すことはせず、親方が指した場所へ置く。
「こりゃ助かる」
親方が素直に感心する。
「人間だけなら、てこを組むところから始めなきゃならん」
『褒めたな』
「かなり褒めてる」
『当然だ』
「最近そればっかりだな」
親方が笑う。
「何て言った?」
「自分なら当然だって」
「力がある奴は違うな」
岳は少し胸を張った。
瓦礫を取り除くと、昔使われていた床がかなり見えるようになった。古い炉の跡もあり、壁際には石造りの槽が残っている。中には泥と枯れ葉が溜まっていたが、底まで割れている様子はない。
「これ、水を貯められますか?」
「洗って張ってみないと断言はできんが、直す価値はある。雨水を受ける溝まで残ってるぞ」
言われて見上げると、外壁から石槽へ水を導くための浅い溝があった。長い間使われていないせいで土と苔に埋まっている。
「これが使えるなら、水を毎回運ばなくて済みますね」
「飲み水にするなら一度濾した方がいいが、身体を洗ったり火を消したりする水には十分だ。飲み水も煮沸すりゃ使えるだろう」
泥を掻き出し、沢から持ってきた水で何度か洗う。塔へ置く備蓄についても、ただ床へ転がしておくのではなく、湿気を避けられる壁際へ木箱を置くことにした。
乾燥肉と火起こし道具は油布で包み、毛布と救急用品もまとめる。縄だけはすぐ手に取れるよう外側へ置いた。
「これで急に天気が崩れても、一晩くらいは何とかなりそうですね」
「食料を放置するなら、ちゃんとした蓋付きの箱は後で持ってきた方がいい。獣より虫と湿気の方が面倒だぞ」
「次に用意します」
ただ物を置くだけでも、山で保存するなら考えることは多い。
◇
作業が昼近くまで進んだ頃、岩翼鷲が塔の頂上で急に風上へ顔を向けた。
『雨が来る』
「雨?」
『風が変わった。近い』
俺も空を見る。
ここからでは尾根に隠れて見えにくい。
「瑠璃、北側を見られる?」
『見る』
瑠璃が舞い上がる。
ほどなく戻ってきた。
『黒い雲が来てる。速い』
「親方、雨が近いみたいです。かなり速く来るって」
親方も外へ出て空を見た。
「風が冷たくなってるな。山の雨なら一気に来るぞ」
「今から町へ戻ります?」
少し考えたあと、親方は首を振った。
「無理に飛ぶ必要はないだろ。ここを休める場所にするために来たんだ。まず俺たち自身で使ってみりゃいい」
その判断に異論はなかった。
岳は塔の中へ入れない。
そこで岩翼鷲へ訊く。
「岳が雨風を避けられる場所、近くにある?」
『ある。こっち』
岩翼鷲が塔の北西側へ飛ぶ。
外壁と大きな岩の間に、風を受けにくい窪みがあった。岳ほどの身体でも伏せられる広さがある。
「岩翼鷲が、ここなら風を避けられるって」
親方へ伝える。
「そこまで知ってるのか」
「本人もここで風待ちするって言ってましたからね」
岳を窪みへ移し、瑠璃は一階へ入れる。
岩翼鷲自身は、塔上部の張り出した石の下へ身体を収めた。
全員が場所を決めた直後、大粒の雨が石畳を叩いた。
◇
雨はすぐに本降りになった。
風に煽られた雨粒が入口近くまで吹き込んでくるが、塔の奥まで入れば身体はほとんど濡れない。外壁の隙間を風が抜ける低い音と、屋根代わりに残った石の上へ落ちる雨音が重なっている。
親方は壁際へ座り、持ってきた毛布を膝へ掛けた。
「早速役に立ったな」
「まだ正式に直してないですけどね」
「それでも、あの尾根でこの雨に捕まるより百倍ましだ。これなら補修する意味は十分ある」
外は白く霞み、さっきまで見えていた山の稜線も消えている。
「飛んでたら危なかったですね」
「危ないどころか、俺は二度と岳へ乗らんって言ってたかもしれん」
「それは困ります」
「また乗せるつもりか?」
「必要なら」
「遠慮を覚えろ」
親方が笑う。
塔の中は決して快適ではない。床は冷たく、壁には隙間もある。それでも、山の悪天候をやり過ごせる場所があるというだけで安心感が違う。
遠距離を飛ぶ時に必要なのは、目的地だけではない。
途中で無理をしなくて済む場所だ。
天候が変われば降りる。
岳が疲れれば休ませる。
怪我をすれば手当てする。
予定より帰りが遅れれば、夜を越す。
そういう選択肢を持てることの方が、ただ遠くまで飛べることより大事なのかもしれない。
◇
一時間ほどで雨脚は弱まった。
塔の外へ出ると、濡れた石が黒く光っていた。森からは水滴が落ち続け、雨上がり独特の土と葉の匂いが漂っている。
岳のところへ向かう。
「大丈夫だった?」
『少し濡れただけだ』
翼の羽へ触れる。
表面には水滴が残っているが、風をまともに受けていたわけではない。岩と外壁がかなり雨を遮ってくれたらしい。
「寒くない?」
『問題ない』
「ならよかった」
岩翼鷲も石の張り出しから出てくる。
『言った通り』
「ああ。助かったよ。この場所が風待ちに向いてる理由も分かった」
岩翼鷲はどこか満足そうに首を上げた。
親方は濡れた塔を改めて見回し、雨漏りしている場所や外壁を流れる水の方向まで確認していた。
「本格的に直そう」
「使えそうですか?」
「ああ。一階の目地をやり直して、入口に簡単な扉を付ける。石槽へ水を入れる溝も掃除して補修すれば、雨のたびに水が溜まる。上は岩翼鷲が使う場所を避けて、落ちそうな石だけ処理すればいい」
俺は岩翼鷲へ内容を伝えた。
「人間がもう少し塔を直したいって。下を中心にして、上はお前が使う場所を残す。落ちそうで危ない石だけは、触る必要があるかもしれない」
『隼人も来る?』
「工事を始める時は来るよ」
『ならいい』
結局、許可の基準は俺らしい。
「大丈夫だって」
親方が肩を竦めた。
「俺の石工としての信用は、お前一人に負けるのか」
「岩翼鷲とは昨日会ったばかりなんですけどね」
「余計に納得いかんな」
◇
帰りの飛行では、親方も行きほど身体を固くしていなかった。
まだ高い場所を好んでいるようには見えないが、少なくとも革輪を握り潰しそうな勢いではない。
「慣れました?」
「ほんの少しだ」
「下を見ても平気になりました?」
「聞かれると意識するから黙っててくれ」
「すみません」
岳の声が頭へ届く。
『面白い人間だ』
「俺もそう思う」
「今、俺のことを話したな?」
「岳が親方は面白い人だって」
「グリフォンから褒められたと思っていいのか?」
「たぶん」
『褒めたとは言っていない』
「そこは伝えないでおきます」
「おい」
親方の声には、もう朝ほどの緊張はなかった。
◇
リーベルへ戻ると、ミラと道路管理の男が待っていた。
親方は机へ道具袋を置くなり、結論から話し始めた。
「使える。一階は少し直せば十分休憩所になる。外壁も急に崩れる状態じゃない。上階は人間を入れない方がいいが、岩翼鷲が使う分には今のところ問題なさそうだ」
「石槽は?」
「補修すれば使える。飲み水にするなら処理は必要だが、雨水を貯められるだけでも価値はある」
道路管理の男が地図へ塔の印を書き込む。
「本格補修にはどれくらい人が要る?」
「四、五人いれば十分だ。材料の量もそれほど多くない。ただ、旧道がまだ通れないから、最初の分だけ空から運んでもらえると早い」
男が俺を見る。
「お願いできますか?」
「荷物を見て、岳に負担がない範囲なら大丈夫です」
「その条件でいい」
最近は最初からそこまで含めて話してくれるようになった。
「あと、もう使ったぞ」
親方が言う。
「使った?」
ミラが目を丸くする。
「作業中に雨に捕まった。俺と隼人は塔の中、瑠璃も中へ逃げた。岳には岩翼鷲が風を避けられる場所を教えた。正式な工事前でも、雨宿りくらいならもう役に立つ」
「岩翼鷲が岳の避難場所まで教えてくれたの?」
「はい。本人が普段から風待ちに使ってる場所みたいです」
ミラは数秒黙り、それから小さく息を吐いた。
「もう見張り塔の主というより、現地案内役ね」
「本人は自分の休み場所を教えただけだと思いますよ」
「その結果、全部便利になってるじゃない」
確かに否定しづらい。
道路管理の男が備蓄についても確認を始める。置く量は少なくし、使った人間がギルドへ報告して補充する。食品は密閉箱に入れ、水は定期的に入れ替える。危険な上階へ人が入らないよう表示も置く。
ただの廃塔だった場所が、少しずつ使える場所へ変わっていく。
リーベルと狩人小屋だけだった俺たちの行動範囲に、途中で降りられる点が一つ増えた。
◇
話がまとまりかけたところで、ミラが机の端に置いていた封筒をこちらへ滑らせた。
「もう一つあるんだけど」
「何です?」
「昨日、山の向こうに見えた盆地のこと覚えてる?」
「はい。大きな町も見えました」
「あっち側の商人組合から返事が来たの」
「もうですか?」
「旧道を復旧できないかって話自体は、前から両側で出てたそうよ。リーベル側で空から調査を始めたって連絡したら、向こうも詳しい情報を欲しがってる」
封筒の中には、新しい地図が入っていた。
これまで使っていたものより東側が詳しい。
山を越えた盆地。
複数の村。
川。
そして、昨日遠くに見えた町。
「依頼は町まで行くことですか?」
「そこまでは求められてないわ。こっちの見張り塔から、向こう側の旧道入口までをもう少し詳しく見てほしいって。向こうからも地上で調査隊を出す予定らしい」
「なるほど」
「距離は今までで一番長くなる。急がなくていいし、天候が怪しければ中止して」
「岳とも相談します」
「そうして」
俺は地図を畳んだ。
昨日までなら、この距離を見た時点で日帰りできるか、天候が変わったらどうするかを先に考えていただろう。
今も考えること自体は変わらない。
ただ、一つだけ条件が違う。
途中に休める塔がある。
天気が崩れれば降りればいい。
岳を休ませることもできる。
水も置けるようになる。
だから、昨日より少し遠くへ行ける。
◇
西門を出ると、岳が俺の持つ地図へ視線を向けた。
『また仕事か』
「よく分かるな」
『紙を持って出てくる時は、大体そうだ』
「そこまで覚えた?」
『昔から隼人を見ている』
そう言われると弱い。
瑠璃が俺の肩へ降りる。
『どこ行く?』
「山の向こう。昨日見えた東の方だ」
『遠い?』
「今までよりはな」
岳へ事情を説明する。
「途中で例の塔へ降りる。必要ならそこで休む。天気が悪ければ、そのまま引き返す」
『塔があるなら問題ない』
「まだ本格的には直してないぞ」
『屋根がある。水も置く』
「お前の基準は分かりやすいな」
『十分だ』
瑠璃も頷くように首を動かした。
『岩翼鷲もいる』
「ああ。上はあいつの場所だから邪魔しないようにな」
『覚えてる』
「偉い」
岳が身を低くする。
『今日は行くのか』
「今日は帰って準備する。地図も見直したいし、天気も確認したい」
『慎重だな』
「遠くへ行く時ほど、それでいいんだよ」
岳はもう反論しなかった。
俺は背へ跨がり、騎乗具の安全帯を締める。
北東の山には、古い見張り塔が残っている。豪華な宿ではないし、まだ補修すら途中だが、雨風を避けられる石壁があり、水と最低限の備えを置ける場所がある。岳が身体を休められる岩陰も、岩翼鷲のおかげで分かった。
たったそれだけでも、遠くへ飛ぶ時の選択肢は大きく増える。
行くか戻るかしかなかった空の旅に、途中で休むという選択が加わったからだ。
岳が翼を広げると、瑠璃が一足先に飛び上がった。
俺たちも地面を離れる。
眼下ではリーベルの城壁が少しずつ小さくなり、その向こうに山々が連なっている。さらに奥には、まだ詳しく知らない盆地と町がある。
急いで辿り着く必要はない。
休める場所を一つずつ確保し、飛べる範囲を少しずつ伸ばしていけばいい。
そうすれば、いつか地図の薄いところも、俺たちにとっては普通に行き来できる場所になる。
空の道は、ようやく最初の中継点を持ったところだった。
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