第20話 岳の背から矢を射る
アデル村へ向かう空の下には、途中で土砂に消える北街道が細く伸びていた。
岳の左右には、薬や包帯、工具、保存食を分けて固定してある。
人を一人乗せるより軽い。ただし荷物は、自分で身体を傾けて釣り合いを取ってくれない。
「岳、左右で違和感は?」
『ない』
「なら、このまま行こう」
『昨日から確認が多いな』
「人も荷物も運び始めたばっかりだからな。慣れるまでは付き合ってくれ」
『仕方ない』
岳が翼を大きく打つ。
騎乗具へ付けた荷物用の固定具は安定していた。左右の袋もほとんど振れていない。
前方では瑠璃が街道沿いを先行している。
『人がいっぱいいる』
「崩れたところか?」
『うん。縄も見える』
俺は眼下へ目を凝らした。
昨日、道路管理の男と上空から確認した斜面には、朝から大勢の作業員が入っていた。
途中で止まっていた太い倒木には何本もの縄が掛けられ、その下へ人が入らないよう範囲を空けている。
「ちゃんと上から処理してるな」
『昨日の人もいる』
「残って指揮するって言ってたからな」
そのまま崩落地点を越える。
空なら数秒だった。
地上では人も荷車も通れない場所を、岳は何事もなかったように越えていく。
ほどなくアデル村が見えてきた。
◇
村外れの畑へ降りると、人々がすぐに集まってきた。
「町から来たぞ!」
「薬もあるのか?」
「あります。まず岳から荷を下ろしますから、少し離れてください」
岳が伏せる。
俺は右側の荷を一つ外し、次に左側。
一方だけ急に軽くならないよう交互に降ろしていく。
村の薬師が薬箱を受け取り、その場で中を確認した。
「消毒薬に包帯……鎮痛薬まである。これは助かる」
「治療師さんが使った分の補充も入ってるそうです」
「これだけあれば十分だ」
工具と縄は復旧作業へ。
保存食は、道の両側で働いている作業員へ回される。
昨日まで孤立していた村へ、町から必要な物が届く。
地上の道はまだ一本も開いていない。
それでも届いた。
「隼人!」
土の付いた作業着姿で、道路管理の男が歩いてきた。
「作業はどうです?」
「順調だ。昨日、上から見られたのが効いた」
男は崩落地点の方角を振り返る。
「危ない倒木は固定した。今日は上に残ってる土を少しずつ落とす。明日には人が歩ける幅くらいは作れるはずだ」
「荷車が通れるのは?」
「そのあとだな。道幅を戻して、地面も締め直さなきゃならん」
「なら、この空輸もしばらく役に立ちそうですね」
「しばらくどころじゃない」
男の目が岳へ向く。
「橋が落ちた時も、山道が塞がった時も使える。今までは道が切れたら、人も荷もそこで止まってた」
「岳が運べる範囲だけですけどね」
「それでも十分だ」
男は空になった荷具を見て笑った。
「本当に空が道になったな」
『もう帰るのか』
岳の声が頭へ届く。
「ああ。荷物は全部渡した」
男が俺を見る。
「岳、何て?」
「仕事が済んだなら帰るのかって」
「働き者だな」
『当然だ』
「そこは本人も異論ないそうです」
男が笑った。
◇
リーベルへ戻る空で、俺はずっと考えていたことを岳へ話した。
「岳」
『何だ』
「俺、お前の背から弓を射てるようになった方がいいと思う」
『今は射てないのか』
「やろうと思えば矢は放せる。でも、狙って当てられるとは言えない」
『なら射てないのと同じだな』
「厳しいけど、その通りだ」
鉤翼蜥に襲われた時、俺はいったん地上へ降りて弓を使った。
あれは正しかったと思う。
足場を安定させた方が当てやすい。
だが今は、人を運ぶ仕事まで始まった。
治療師を乗せている時に空の魔獣へ襲われても、毎回安全な場所へ降りられるとは限らない。
岳には戦う力がある。
それでも俺ともう一人を背負ったまま格闘させるのは避けたい。
なら、俺にも空から使える手札が要る。
「瑠璃」
『何?』
「練習する時、矢がどこへ飛んだか上から見てくれないか」
『見る』
「頼む」
『外したら教える』
「当てた時も教えてくれ」
『分かった』
妙に楽しそうなのが少し気になった。
◇
ギルドへ戻り、報告を済ませてからミラへ相談した。
「弓を練習できる場所ってあります?」
「射場ならあるけど」
「岳に乗ったまま使いたいんです」
ミラの視線が止まった。
「そっちね」
「町の射場でグリフォンに乗って矢を飛ばす気はないですよ」
「それなら安心したわ」
地図を開いてもらう。
リーベルの南西に、今は使われていない古い採石場があった。
三方を岩と土の壁に囲まれ、人が立ち入る理由もほとんどない。
「ここなら、奥の斜面を背にして的を置けばいい。ギルドから使用許可を取っておく」
「助かります」
「急にどうしたの?」
「人を運ぶようになったからです」
鉤翼蜥の件を説明する。
「岳に乗客を守らせながら空中戦までやらせるより、俺も弓を使えた方が選択肢が増えるでしょう」
「なるほど」
「いきなり戦いながら当てられるとは思ってませんけど」
「そこまで言われなくても、いきなり飛んでる魔獣を狙うつもりなら止めてたわ」
「俺も止めます」
◇
翌朝、古い採石場へ藁束を三つ運んだ。
奥の土壁を背にして積む。
まずは二十メートル。
地面からなら難しい距離じゃない。
岳の背へ跨がる。
「最初は立ったままでいい」
『飛ばないのか』
「順番にやるんだよ」
『乗っている意味が薄い』
「地面とお前の背中じゃ姿勢が違う。それを確認する」
弓を構える。
俺は右利きだ。
左手で弓を持ち、右手で弦を引く。
岳の背では、左側へ身体を開く方が自然だった。
「左の方が射ちやすいな」
『なぜだ』
「右利きだから。弓を左手で持つから、こっちの方が身体を無理に捻らずに済む」
左前方へ置いた藁束へ向ける。
ここで初めて、地上との違いをはっきり感じた。
足で踏ん張れない。
腰を回しすぎれば、騎乗具の上で重心がずれる。
岳の翼の付け根にも気を配る必要がある。
「少し左へ向いて」
『こうか』
「そのまま」
引く。
放す。
矢は藁束の中心から左へ外れ、後ろの土壁へ刺さった。
『外した』
「分かってる」
瑠璃が上から声を落とす。
『左』
「それも見えてる」
『もっと右』
「はいはい」
二本目。
腰を捻りすぎず、肩も力ませない。
今度は藁束の端へ入った。
「まずはこんなもんか」
『端だ』
「さっきより進歩してる」
◇
次は岳に歩いてもらった。
「真っ直ぐ。ゆっくりでいい」
『遅い』
「練習だからいいんだ」
藁束を左側に置き、その横を通る。
岳の肩が動くたび、俺の視界も僅かに上下した。
ずっと狙い続けようとすると、揺れを腕で追いかけてしまう。
それでは駄目だ。
狩りと同じように、撃てる瞬間を待つ。
岳の歩幅が一度揃った。
放つ。
矢は藁束の下へ刺さった。
『低い』
「分かってる」
『下』
「同じ意味だよ、瑠璃」
もう一度。
今度は藁束へ入る。
さらに一度。
少し中心へ寄った。
「歩きなら何とかなりそうだな」
『走るか』
「まだゆっくりだぞ」
『分かった』
岳が速度を上げる。
一気に難しくなった。
上下動だけではない。
前へ進む速さも増える。
一射目は外れた。
二射目は藁束の外縁。
三射目で、ようやく中央より少し下へ刺さった。
「なるほどな」
『何がだ』
「狙い続けるから遅れる。撃てる姿勢になった瞬間だけ使えばいい」
獲物を追いながら照準を振り回すのではなく、通る場所を読んで待つ。
昔からやってきた狩りに近いところはある。
◇
「次は飛ぶ」
『やっとだな』
「その前に矢を拾う」
射った矢を全部回収する。
一本ずつ矢柄と鏃を確かめ、傷んでいないものだけ矢筒へ戻した。
岳にも水を飲ませる。
最初から高く飛ぶつもりはない。
採石場の底から十メートルほど。
的へ向かって突っ込まず、土壁と平行に飛ぶ。
的は岳の左側へ置く。
外しても矢が採石場の外へ抜けにくい角度にした。
「岳、的の横へ来た時だけ滑空できるか?」
『できる』
「俺が合図したら、二秒くらい姿勢を安定させてくれ」
『分かった』
「ただし何か避ける必要があったら、俺の合図は無視していい」
『当然だ』
「それでいい」
騎乗具へ跨がる。
安全帯を締める。
「最初の一周は撃たない」
『行くぞ』
岳が地面を蹴った。
翼が空気を叩く。
地面が離れる。
低空とはいえ、歩いていた時とは風圧が違う。
羽ばたくたび、岳の背から大きな力が伝わってくる。
「的の前で滑空」
翼が広がる。
上下動が急に小さくなった。
「ここならいけそうだな」
二周目。
弓を持つ。
まだ矢は番えない。
身体を左へ開く。
弦を引く軌道。
弓の下端。
岳の翼。
騎乗具。
一つずつ位置を確認する。
左前方から左側面までなら、今の姿勢でも無理が少ない。
逆に右側へ射とうとすると、身体を大きく捻る必要がある。
今はやめた方がいい。
「次、撃つぞ」
『分かった』
三周目。
矢を番える。
藁束が近づく。
まだ。
岳が羽ばたく。
まだ。
「今」
滑空。
引く。
風が顔を叩く。
放す。
矢は藁束の上を抜け、土壁へ刺さった。
「高いか」
『外れた』
『上』
「二頭で言わなくていい」
地上と同じように狙ったつもりでも、身体ごと前へ進んでいる。
風もある。
弓を引いている間にも位置は変わる。
「もう一回」
◇
四周目。
岳の羽ばたきが止まる瞬間を待つ。
「今」
少し低め。
放つ。
矢が藁束の左端へ刺さった。
「入った」
『端だ』
「入ったのは入った」
『獲物なら逃げる』
「はいはい。分かってる」
的は逃げない。
魔獣なら進路を変える。
今の一射で満足する気はない。
そこから何度も回った。
羽ばたき直後に射って大きく外す。
身体を左へ開きすぎて姿勢を崩す。
的だけに意識を向けて、岳の動きを読めなくなる。
そのたびに一つずつ直した。
「岳、的の手前で羽ばたきを一回少なくできる?」
『速度が落ちる』
「それでいい。今は当てる練習だ」
『分かった』
岳も俺に合わせ始める。
ただ俺が岳の揺れへ慣れるだけではない。
岳も、俺が射ちやすい飛び方を覚えている。
鷹匠と鷹。
やっていることは昔とは違う。
だが、二人で狩り方を合わせていく感覚は変わらなかった。
十数回目。
岳が二度羽ばたく。
速度が乗る。
藁束が左前方へ近づく。
「今」
翼が広がる。
風の音が一定になる。
俺は弦を引いた。
焦らない。
放す。
矢が藁束の中央近くへ深く刺さった。
今までとは違う手応えが指に残った。
『当たった』
「ああ」
『真ん中に近い』
「岳から褒められたと思っていい?」
『近いと言っただけだ』
「そうだと思った」
瑠璃が高度を落としてくる。
『上手くなった』
「お前は素直に褒めてくれるんだな」
『最初はいっぱい外した』
「それは余計だ」
『本当』
「知ってるよ」
◇
昼前には練習を切り上げた。
当たり始めたところで続けたくなるが、肩にも疲れが出ている。
岳も低空で何度も旋回した。
疲れて雑になった状態で続けても、変な癖が付くだけだ。
「今日は終わり」
『次はもっと速く飛ぶ』
「勝手に難しくするな」
『必要になるのだろう』
「最終的にはな」
今日できたのは、決まった方向から、決まった速度で、岳に滑空してもらった状態で矢を当てることだけだ。
実戦なら相手も動く。
岳も回避する。
風向きも変わる。
後ろへ人を乗せていれば、射撃そのものを諦める判断も必要になるだろう。
それでも、昨日までとは違う。
岳が戦わなければならない時、俺はただ背中へしがみついているだけではなくなった。
「少しずつ手札は増やせそうだ」
『次は動く相手か』
「まだ早い」
『慎重だな』
「矢が当たったら洒落にならないからな」
『俺には当てるな』
「だから練習してるんだよ」
岳の背から降りる。
藁束へ刺さった矢を一本ずつ回収する。
最後に、中央近くへ入った一本を抜いた。
特別な矢ではない。
昨日まで使っていたものと同じだ。
それでも俺にとっては、初めて岳と飛びながら狙って当てた一本だった。
空を道として使うなら、その道で起きる危険にも備える。
《猛禽寵愛》が通じる相手ばかりじゃない。
岳だけに全部任せるつもりもない。
俺は鷹匠だ。
相棒と一緒に動いてこそ、できることがある。
「帰るか」
『肉か』
「昼飯だよ」
『肉だな』
「まあ、肉もある」
『なら帰る』
瑠璃がすぐ横へ降りてくる。
『私も』
「分かってるよ。お前の分もある」
岳が身を低くする。
俺は再びその背へ跨がった。
練習は終わった。
次に矢を番える時が、今日みたいに安全な場所だとは限らない。
だからこそ、できる時にできることを増やしておく。
岳が翼を広げた。
瑠璃が先に舞い上がる。
そのあとを追って、俺たちも午後の空へ上がった。
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