第11話 岳の背で空へ
瑠璃が採掘詰所へ解毒薬を届けた翌朝、狩人小屋の前には見慣れない革具が置かれていた。
幅広の革帯と厚手の毛布を組み合わせた、簡素な騎乗具だ。
薬の件が片づいたあとでリーベルへ出向き、革職人に岳の体格と翼の位置を説明して作ってもらった。馬角獣用の鞍をそのまま流用すると翼の付け根を圧迫するので、必要なのは座面と身体を固定する帯だけにしてある。
『それを付けるのか』
小屋の前に伏せていた岳が、革具を見ながら訊いた。
「ああ。昨日みたいに遠くへ急いで行く必要が出た時、俺だけ地上を走ってたら意味がないからな」
『最初から乗ればよかった』
「お前、少し前まで翼を怪我してただろ」
『もう治った』
「だから今日乗るんだよ」
岳の左翼は、朝の確認でも問題なかった。傷口は塞がり、羽ばたいても痛みはない。昨日も短時間とはいえ飛んでいる。
これ以上、飛行を止める理由はなかった。
「立ってくれ」
岳が四本の脚で立ち上がる。
俺は翼の付け根を避けて毛布を置き、その上から革帯を回した。腹を強く締めるのではなく、前後へずれない程度に固定する。翼を大きく開かせても革が擦れない位置なのは、職人と何度も寸法を確認してある。
手綱はない。
岳に進む方向を伝えるのに、口へ金具を入れる必要などないからだ。
前方には掴むための革輪。腰から伸ばした安全帯を繋ぐ金具もある。
『まだか』
「もう終わる」
『朝から随分触るな』
「飛んでる途中で外れるよりいいだろ」
『外さなければいい』
「だから外れないようにしてるんだよ」
屋根の上で見ていた瑠璃が首を傾げた。
『隼人、岳に乗る?』
「そのつもり」
『変』
『何が変だ』
『いつも岳が隼人についていく。今日は隼人が岳についてる』
岳が屋根を睨んだ。
『黙って見ていろ』
『見てる』
「朝から仲いいな、お前ら」
『よくない』
二羽の返事が重なった。
そこだけ妙に息が合っている。
俺は岳の背へ跨がった。
翼より後ろ、腰より前。大型馬より少し幅があるが、脚を無理に開かされるほどではない。
岳が立っただけで、視線が一気に高くなる。
「オオタカだった頃は腕に乗せてたのにな」
『今は逆だ』
「随分でかくなったもんだ」
革輪を左手で握り、身体を軽く前へ倒す。
「空き地を一周。そのまま飛んでくれ」
『低くか?』
「最初だけな。問題なければそのまま上げていい」
『分かった』
岳が歩き出した。
数歩で速歩へ変わり、すぐに走る。
四脚の上下動が腰へ伝わったが、毛布と座面がかなり吸収してくれる。
空き地の端へ来た瞬間、岳が地面を強く蹴った。
大きな翼が開く。
風圧で草が伏せ、次の羽ばたきで地面が離れた。
身体が一瞬だけ沈むような感覚のあと、革帯に支えられた腰が安定する。
「そのまま行ける」
『上げるぞ』
「ああ」
岳が翼を傾けた。
狩人小屋が小さくなる。
沢が銀色の細い線へ変わり、その周囲を埋める森の梢が一枚の緑の面になった。
山の上から谷を見下ろす経験ならいくらでもある。
だが、自分の真下に何もない状態で山を見るのは初めてだった。
「……これはすごいな」
『怖いか』
「いや」
風で目を細めながら答える。
「楽しい」
岳の声に、わずかに満足そうな響きが混じった。
『そうだろう』
右側から瑠璃が追いつく。
灰白色の翼を細かく動かし、岳の翼端から流れる風を避けながら並んだ。
『岳、遅い』
『隼人を乗せている』
『言い訳』
『瑠璃』
「帰るまで競争は禁止」
『帰ったらいい?』
「そういう意味じゃない」
瑠璃は納得していない顔で先へ出た。
岳まで速度を上げようとしたので、首筋を軽く叩く。
「張り合うな。今日は仕事が先だ」
『分かっている』
本当に分かっているのかは怪しい。
◇
目的地は、北へ向かう街道の途中にある吊り橋だった。
採掘詰所への解毒薬を瑠璃が空から運ぶことになった原因でもある。
雨による増水で橋が落ち、馬車も馬角獣も通れなくなっていた。迂回すれば三時間以上余計にかかるため、町では早急に復旧したいらしい。
俺たちに頼まれたのは、空から破損状況を見ることだった。
地上から橋の両岸を調べようとすれば、それだけで時間がかかる。
空からなら早い。
岳の背で移動を始めて二十分ほど。
『あれ』
先を飛んでいた瑠璃が高度を落とした。
「見えた」
谷間を流れる川。その上に架かっていたはずの吊り橋は、中央から大きく崩れていた。
片側の主索が切れ、床板の半分ほどが川へ垂れ下がっている。
まだ水量は多い。
濁流が岩へぶつかるたびに白い飛沫が上がっていた。
「岳、橋の上を二周してくれ」
『分かった』
高度を下げる。
俺は革紙を膝へ当て、炭筆で簡単に形を描いた。
主索一本。
床板は半数近く消失。
東側の支柱も傾いている。
この位置へ同じ橋を架け直すだけなら、かなり手間がかかりそうだった。
上流へ目を向ける。
「もう少し北へ」
『何か見つけたか』
「川幅が狭くなってる場所がある」
数百メートル進むと、谷の幅が半分近くまで狭まっていた。
両岸には太い木が生え、足場になる岩も多い。
仮橋なら、崩れた場所へ無理に作り直すよりこちらの方が楽かもしれない。
さらに上流を確認していると、川の流れが妙に偏っている場所があった。
「岳、あそこへ」
近づく。
斜面が大きく崩れ、倒木と土砂が川の一部を塞いでいた。
完全に止めてはいないものの、水路が狭くなったせいで流速が上がっている。
「なるほどな」
『何だ』
「橋だけの問題じゃない。あの土砂で流れが絞られてる」
雨が降って水量が増えれば、細くなったところへ一気に水が集まる。
吊り橋が落ちた原因の全部ではないにしても、影響はしたはずだ。
「町には、橋を直す前にこっちも確認するよう伝えた方がいい」
『空から見ると分かるのか』
「地上でも分かる。ただ、見つけるまでが早い」
革紙へ崩落箇所と狭窄部を書き足す。
これで十分だ。
「戻ろう」
岳が南へ旋回した。
その直後、瑠璃だけが西へ進路を変えた。
『いた』
「何が?」
『大きい。羽がある。でも岳と違う』
瑠璃の視線の先には、高原が広がっている。
岳も首を向けた。
『七頭いる』
「俺にはまだ見えないな」
『隼人の目は悪い』
「お前らと比べるな」
岳の視力はオオタカだった頃から人間とは比較にならない。瑠璃も同じだ。
「少しだけ見に行こう。報告があるから長居はしない」
『分かった』
◇
高原が近づくにつれて、点にしか見えなかったものの輪郭がはっきりしてきた。
最初は馬の群れかと思った。
違う。
頭から胸にかけては大型の鷲に近く、前脚には鋭い鉤爪がある。背には大きな翼。
ところが胴の後半から後脚にかけては馬そのものだった。
「ヒポグリフ……」
地球なら物語の中でしか見ない生き物だ。
それが七頭、高原の草地にいる。
二頭は草を食み、残る個体は翼を畳んで休んでいた。
そのすべてが、ほぼ同時に俺たちを見上げた。
『見てる』
瑠璃が言う。
「ああ」
敵意はない。
それどころか、こちらへ向けられる感情には覚えがあった。
興味。
親しみ。
近づきたいという強い好意。
岳が低く息を吐いた。
『またか』
「何が」
『お前を見ている』
「《猛禽寵愛》の対象なんだろうな」
鷲の上半身を持つなら、不思議ではない。
七頭のうち一頭が翼を開いた。
灰白色の羽毛に、淡い栗色の後半身。他の個体より一回り小さい。
若い個体らしい。
地面を蹴ると、一気にこちらまで上がってきた。
『来る』
瑠璃は特に警戒していない。
俺も同じだった。
「岳、少し速度を落として」
『分かった』
ヒポグリフが左側へ並んだ。
瑠璃より遥かに大きいが、岳よりは一回り小さい。
金茶色の目が、俺へまっすぐ向けられる。
『見つけた』
頭の中へ意思が届いた。
初めて聞く声――と言っていいのかは分からないが、岳とも瑠璃とも違う感触だった。
「俺を探してたのか?」
『違う。飛んでたら、分かった』
「俺がいるって?」
『好きなのがいる』
「なるほど」
名前までは知らない。
当然だ。
初対面なのだから。
「俺は隼人。神代隼人だ」
ヒポグリフが少し首を傾ける。
『隼人』
「ああ」
『好き』
「それは伝わってる」
岳が俺とヒポグリフの間へ少し寄った。
『近い』
ヒポグリフが岳を見る。
『あなたは?』
『岳だ。隼人の相棒だ』
『岳』
続いて瑠璃が反対側から顔を出す。
『私は瑠璃』
『瑠璃』
「自己紹介は地上でやろう。飛びながら集まられると危ない」
『下りる?』
「そうしてくれ」
俺たちが高度を落とすと、ヒポグリフもついてきた。
◇
草地へ着地してみると、残り六頭までこちらへ集まってきた。
一頭だけならまだしも、七頭に囲まれるとさすがに迫力がある。
だが怖さはなかった。
先頭の一頭が嘴の横を俺の肩へ押し当てる。
別の一頭が後ろから首を伸ばしてきた。
「押すな。順番」
言葉そのものというより、意思が伝わったのだろう。
二頭目が素直に半歩下がった。
『本当に懐くな』
岳が横から言う。
「そういう能力だからな」
『分かっている』
「なら今さら驚くなよ」
『驚いてはいない。増えそうだと思っているだけだ』
「連れて帰るとは言ってない」
俺は最初に来たヒポグリフへ向き直った。
「お前たちはここで暮らしてるのか?」
『ここ。向こうの山にも行く。湖にも行く』
「七頭で?」
『いつも一緒』
野生の群れらしい。
人間に飼われている様子もない。
「俺と一緒に来たいか?」
訊くと、ヒポグリフはすぐには答えなかった。
仲間を見る。
高原を見る。
それから俺へ顔を戻した。
『隼人は好き。でも、ここも好き』
「それならここにいればいい」
『いい?』
「当たり前だろ」
好かれることと、俺の所有物になることは別だ。
ついてこいと命令する理由もない。
「また会いたくなったら会えばいい。俺も近くへ来たら寄る」
『また会う』
「ああ」
他のヒポグリフたちも同じだった。
近くへ寄ってはくる。
身体にも触らせる。
それでも群れを離れる気はない。
俺には、その方が自然に思えた。
瑠璃だって自分の意思で俺についてきた。
ロック鳥も巣へ帰った。
こいつらにもこいつらの生活がある。
『名前は?』
最初のヒポグリフが訊いた。
「お前の?」
『岳。瑠璃。ある。私はない』
そこで岳が俺を見る。
『付けるのか』
「今日は付けない」
『なぜ?』
ヒポグリフまで首を傾げた。
「名前って、会ってすぐ思いつきで付けるものでもないだろ。お前が欲しいなら、次に会うまでに考えておく」
少なくとも俺にとって、名前は魔獣を強くするための道具ではない。
岳は何年も一緒にいた相棒。
瑠璃も、自分の意思で狩人小屋までついてきた仲間だ。
名付けによって進化の可能性が開くと分かったからこそ、なおさら軽く扱う気にはならなかった。
ヒポグリフは少し考えたあと、翼を畳み直した。
『次』
「ああ。次に会った時にな」
◇
町へ戻るため岳が飛び立つと、三頭のヒポグリフが一緒に上がってきた。
俺の左右をしばらく飛び、高原の端まで来ると一頭ずつ離れていく。
最後まで残ったのは、最初に近づいてきた灰白色の個体だった。
『隼人』
「何だ?」
『また来る』
「分かった」
『名前、考える』
「俺が考えるんだよ」
『私も考える』
「自分で付けるのもありか」
それならそれで面白い。
ヒポグリフは満足したように翼を傾け、仲間の待つ高原へ戻っていった。
姿が小さくなる。
その横で瑠璃が呟く。
『増えなかった』
「残念そうに言うな」
『仲間、多い方が楽しい』
『俺は今で十分だ』
岳が即答する。
「ロック鳥まで来るのに?」
『あれは帰る』
「ヒポグリフも帰っただろ」
岳は返事をしなかった。
どうやら基準はそこではないらしい。
俺は苦笑してから、眼下へ目を向けた。
森の間を川が走り、その向こうにはリーベルの城壁が見えている。
地上から歩けば遠かった場所が、岳の背では驚くほど近い。
橋の破損。
上流の崩落。
高原に暮らすヒポグリフの群れ。
今まで道の上からしか見えなかった世界が、空へ上がっただけで一気に広がった。
「岳」
『何だ』
「これから忙しくなりそうだな」
『俺は構わない』
「瑠璃は?」
『飛べるならいい』
二羽らしい答えだった。
俺たちは魔獣を倒すためだけに空を飛ぶ必要はない。
人を探せる。
薬を届けられる。
道や川の異常を上から見つけられる。
遠く離れた場所へ、地上より遥かに早く移動できる。
そして、その空の先には、まだ会ったことのない猛禽や魔獣がいる。
俺は革輪を握り直した。
「まずは橋の報告。そのあと、この騎乗具を少し直したい」
『どこが悪い』
「お前の背中が思ったより硬い」
『俺のせいではない』
「だから座面を厚くするんだよ」
『人間は面倒だな』
「落としたくないなら付き合え」
『仕方ない』
瑠璃が横から俺たちを追い越す。
『遅い』
『瑠璃』
「町まで競争は禁止!」
岳が一瞬だけ速度を上げ、すぐに戻した。
俺を乗せていることは、ちゃんと分かっている。
その背中に身体を預けながら、俺は遠くの城壁を見た。
異世界へ来てから、俺の行動範囲はずっと足で歩ける場所に限られていた。
今日、それが終わった。
岳が飛べる場所なら、俺も行ける。
世界は昨日までより、ずっと近くなっていた。




