第10話 瑠璃、空を走る
瑠璃と名付けた翌朝、最初に変わったのは姿ではなかった。
「瑠璃」
『なに?』
狩人小屋の屋根から、返事とほぼ同時に灰白色の影が降りてくる。
以前も俺の呼びかけには反応していた。それでも、名前を呼んだ時の反応は明らかに違った。
種族を指しているのではなく、自分が呼ばれたと分かっている。
俺の左腕へ降りた瑠璃は、青い冠羽を立てて得意そうにこちらを見た。
『もう一回』
「何を?」
『呼ぶ』
「瑠璃」
『うん』
「気に入ったのは分かったよ」
革手袋の上で体勢を整えた瑠璃の頭を軽く撫でる。
昨日表示された情報では、上位種への進化条件はまだ満たしていない。
名前を持っただけで即座に姿が変わるわけではないらしい。
それでいいと思う。
岳だって、単に名前があったからグリフォンになったわけじゃない。俺と一緒に世界を越え、その際にこの世界へ適応できる姿へ再構成された。
瑠璃には瑠璃の条件があるのだろう。
『隼人』
小屋の前から岳が呼ぶ。
「どうした?」
『そろそろいいだろう』
「何が」
岳が無言で左翼を広げた。
昨日まで傷のあった付け根を見せている。
「ああ、それか」
『朝から待っている』
「今見るよ」
『昨日も問題なかった』
「昨日飛べたから今日も平気とは限らない」
『隼人はこういう時だけ細かい』
「こういう時だから細かいんだ」
羽毛を分けて傷口を見る。
裂けていた部分はほぼ塞がり、腫れもない。翼をゆっくり動かしても痛みは出ていないようだった。
これなら軽い飛行だけに制限する必要もなさそうだ。
「よし。今日は飛んでいい」
『本当か』
「ただし痛みが出たらすぐ降りろ」
『分かっている』
返事をした時には、もう岳は空き地の中央へ歩き始めていた。
よほど待ち遠しかったらしい。
大きな翼を左右へ広げる。
朝日に照らされた金褐色の羽毛が一斉に風を孕み、ひと羽ばたきで草が低く伏せた。
次の瞬間、岳の巨体が浮く。
二度、三度と翼を打ち、屋根より高く上がったところで旋回する。
『いい』
「問題ないか?」
『ない。この身体にも慣れた』
さらに速度を上げる。
オオタカだった頃と飛び方は違う。
身体が重く、翼も遥かに大きい。それでも上昇気流を捕まえた後の滑空には、昔の岳を思わせるものがあった。
生き物は身体が変われば、ここまで早く適応できるものなのか。
いや、岳だからかもしれない。
瑠璃も俺の腕から飛び立った。
岳の横まで上昇する。
『遅い』
『小さいくせに』
『速い』
『俺が本気を出していないだけだ』
「朝から競争するなよ」
聞こえていない距離ではない。
二羽とも返事をしなかった。
完全に競争する気だ。
「怪我したら飯減らすぞ!」
岳が速度を落とした。
瑠璃も戻ってくる。
『卑怯だ』
「言うこと聞かないからだろ」
これでようやく岳も普通に動ける。
小屋の修理も進めたいし、保存肉を干す棚も作りたい。
俺は作業小屋から板を運び出そうとした。
その時、遠くから馬の蹄の音が聞こえてきた。
◇
狩人小屋へやって来たのは、冒険者ギルドの若い職員だった。
馬から降りるなり俺を探し、岳を見て一度足を止める。
「神代隼人さんですね?」
「はい」
「ミラさんから急ぎです」
差し出されたのは、小さく折り畳まれた紙だった。
内容を読む。
北の山間部にある採掘詰所で、作業員が岩蛇という魔物に噛まれた。
毒そのものは治療可能。
問題は、詰所に解毒薬の在庫がなかったことだ。
「薬は?」
「持ってきています」
職員が腰の鞄から小さな木箱を出した。
中には布で厳重に包まれた細い瓶が二本。
「昨日の雨で沢が増水して、北の吊り橋が落ちました。馬では迂回路を使って三時間以上かかります」
「噛まれたのはいつです?」
「一時間ほど前です。詰所から来た男が、橋の手前から馬を乗り換えて知らせに来ました」
三時間。
薬が届くまでの時間として長いのか短いのか、それだけでは分からない。
「岩蛇の毒は、どれくらいで危なくなるんですか?」
「体格にもよりますが、治療師は四時間を越えたくないと」
残りを計算する。
普通に運べばかなり厳しい。
だから俺のところへ来たのだろう。
「瑠璃」
屋根の上にいた瑠璃が降りてくる。
『仕事?』
「そうだ」
職員が目を丸くした。
「今、話を?」
「こいつに薬を運んでもらいます」
「蒼冠鷹一羽で?」
「瑠璃です」
「え?」
「こいつの名前です」
そこを説明している時間は惜しい。
俺は木箱から瓶を取り出した。
二本合わせても大した重さではない。
だが、そのまま嘴で運ばせるのは駄目だ。落とす可能性があるし、飛行の邪魔にもなる。
「少し待ってください」
小屋へ戻り、昨日町で買った革の端切れと細い紐を持ってくる。
鷹を扱うための道具は、日本から持ってきた分も少し残っている。
瓶を布で包み直し、薄い革で小さな筒を作る。脚の動きを邪魔しない位置へ二点で留め、飛行中に振れないよう紐の長さを詰めた。
「向こうの人が見て薬だと分かるものはありますか?」
「あ、はい」
職員が木箱の中から、小さな札を取り出した。
表には冒険者ギルドの印が押され、その下に文字が書かれている。
「『岩蛇咬傷用解毒薬・至急』です。詰所の治療師なら分かります」
「これも付けましょう」
革筒の外側へ、飛行の邪魔にならないよう札を固定する。
これなら瑠璃が人間と話せなくても問題ない。
「歩いてみろ」
瑠璃が地面を数歩進む。
『邪魔じゃない』
「飛んでみて」
軽く浮き、空き地を一周して戻ってくる。
革筒も札も暴れていない。
「よし」
職員が俺の手元を見ていた。
「そんな道具まで作れるんですか?」
「鷹を飛ばす仕事をしてたので」
正確には薬を運ばせた経験などない。
それでも鳥の動きを邪魔しない場所や、紐が羽へ絡む危険くらいは分かる。
「場所を教えてください」
職員が簡単な地図を広げる。
「ここです。北の尾根を越えて、細長い湖が見えたら東側。採掘詰所は岩壁に沿って建ってます。屋根は青です」
『知ってる』
瑠璃が言った。
「行ったことあるのか?」
『上を飛んだ。石を掘ってる人間がいる』
「それなら早いな」
職員には聞こえないので説明する。
「瑠璃は場所を知っています」
「本当に?」
「ええ」
俺は瑠璃を見る。
「青い屋根のところまでこれを持っていってくれ。着いたら、人が集まっている場所を探せ」
『分かった』
「岩蛇に噛まれた人は横になってる可能性が高い。足が黒く変わってるかもしれない。見つけたら、その人のそばへ降りてくれ」
『薬は?』
「付けたままでいい。人間がこの札を見れば分かる。誰かが薬を外すまで、その場にいてくれ」
『分かった』
「瓶を割るなよ」
『分かってる』
「頼む」
瑠璃が翼を開く。
一度地面を蹴ると、灰白色の身体は急角度で上昇した。
屋根を越え、木々の上へ出る。
そこから北へ向きを変えた。
数秒で小さくなる。
『俺ならもっと速い』
岳が横で呟く。
「お前はでかすぎるんだよ」
『速さの話だ』
「薬瓶二本運ぶのにグリフォンが飛んできたら、向こうが腰抜かすだろ」
『慣れればいい』
「何に慣れさせる気だ」
岳は少し不満そうだった。
ただ、今回の仕事は瑠璃の方が向いている。
小さく、速く、人間のいる場所へ降りても岳ほどの騒ぎにならない。
同じ空を飛べても、できることは違う。
◇
瑠璃を送り出したあと、俺は何もせず待っていたわけではない。
ギルド職員から採掘詰所までの地形を詳しく聞いた。
もし瑠璃が途中で戻ってきた場合は、岳で俺自身が向かう必要がある。
翼は治った。
今日なら俺を乗せて飛べるかもしれない。
ただ、人を乗せる飛行はまだ一度も試していない。
「岳。もし必要になったら俺を運べるか?」
『当然だ』
「試してないだろ」
『お前一人くらい軽い』
「重さだけの問題じゃない。急に旋回されて落ちたら終わりだ」
『落とさない』
この自信はどこから来るのか。
オオタカだった頃からそうだった気もする。
その時。
『隼人』
瑠璃の声が頭の中へ届いた。
「瑠璃?」
姿は見えない。
かなり離れているはずだ。
それでも意思が届いた。
『湖、見えた』
「もう?」
出発して十分ほどしか経っていない。
地上を馬で進む距離と、山を直線で飛ぶ距離では違うのだろう。
「青い屋根は?」
『見える』
「そのまま行け」
『分かった』
通信できる距離まで伸びている。
昨日までも離れた瑠璃と多少は意思疎通できたが、ここまで距離を取ったことはなかった。
《猛禽寵愛》の影響なのか。
名前を持ったことで何か変わったのか。
考えているうちに、再び瑠璃の意思が届いた。
『着いた』
「人は?」
『いっぱいいる。騒いでる』
まあ、突然蒼冠鷹が薬を付けて降りてきたら騒ぐだろう。
「黒くなった足の人はいる?」
『いる。寝てる』
「その人のそばへ降りて。薬は付けたままでいい」
『分かった』
少し間があった。
ギルド職員が落ち着かない様子で俺を見る。
「どうなんです?」
「着いてます。負傷者も見つけました」
「もう!?」
「空から直線で行ってますから」
さらに少し待つ。
『人間、薬を取った』
「札も見た?」
『見てる。急いで持っていった』
「よし。そこまででいい。帰ってこい」
『分かった』
その直後だった。
視界の端に文字が浮かぶ。
『命名個体《瑠璃》の行動を確認』
『自発的役割形成を確認しました』
『適性《伝令》《探索》を獲得』
『上位進化条件の一部を達成しました』
俺は表示を読む。
岳もこちらを見ていた。
『何か出たのか』
「ああ。瑠璃の進化条件が一つ進んだ」
『薬を運んだからか』
「たぶん、それだけじゃない」
名付けた。
俺の言葉を理解した。
役割を与えられ、それを自分の意思で遂行した。
表示にある「自発的役割形成」という言葉から考えれば、単純に経験値を稼げばいいわけではなさそうだ。
「名前を持ったあと、どう生きるかも必要なのかもしれないな」
『面倒な仕組みだ』
「お前は世界を越えるだけで一段飛ばしたみたいだけどな」
『俺だからな』
「はいはい」
岳の得意そうな顔を見ていると、いつもの返事が出た。
◇
瑠璃が戻ってきたのは、出発から四十分ほど後だった。
遠くの空に小さな影が見えたと思ったら、見る間に大きくなる。
最後は速度を落とし、俺の左腕へ着地した。
「おかえり」
『帰った』
革筒は空になっている。
代わりに細い布切れが結びつけられていた。
「これは?」
『人間が付けた』
布には炭のようなもので文字が書かれている。
俺には読めた。
『受領。投薬済み。感謝する――採掘詰所治療師』
「ちゃんと届いてます」
職員へ渡す。
男は何度も布と瑠璃を見比べた。
「馬で三時間以上の場所だぞ……」
「山道なら、でしょう」
「それでも速すぎる」
「こいつは鳥ですから」
『瑠璃』
「そうだった。瑠璃です」
瑠璃が訂正を求めるように俺の腕で羽を膨らませた。
名前を付けたばかりだというのに、もう種族名だけで呼ばれるのが気に入らないらしい。
職員が苦笑する。
「瑠璃……ありがとう。人一人、助かったかもしれない」
『何て言った?』
「ありがとうって」
『そう』
素っ気ない返事なのに、冠羽が少し立つ。
褒められたのは分かっているらしい。
俺は脚に付けた革筒を外した。
擦れもない。
飛行にも問題はなかったようだ。
「今後も使えるな」
『またやる』
「気に入った?」
『隼人が頼むなら』
「そっか」
その時、瑠璃の冠羽が陽を受けた。
一瞬だけ。
青い羽の縁に、淡い光が走ったように見えた。
「瑠璃?」
『なに?』
「いや……」
本人は気づいていない。
ステータスを確認する。
『個体名:瑠璃』
『種族:蒼冠鷹』
『適性:探索・伝令』
『上位進化:条件未達』
まだ進化はしていない。
ただ、その下に昨日までなかった表示が増えていた。
『変異兆候:微弱』
少しずつ始まっている。
「岳」
『何だ』
「瑠璃、変わり始めてるかもしれない」
岳が瑠璃をじっと見る。
『今は同じに見える』
「俺もそう見える」
『なら、変わった時に見ればいい』
「それもそうだな」
焦る必要はない。
瑠璃は瑠璃だ。
強くなるためだけに名前を付けたわけでもない。
それより、今日分かったことの方が大きい。
森の捜索。
遠距離の伝令。
薬の緊急輸送。
岳なら人や重い荷物を運べる可能性がある。
瑠璃なら、小さな荷を速く遠くへ届けられる。
ロック鳥なら、さらに大きな物資だって運べるかもしれない。
俺一人では山を越えるだけで何時間もかかる。
だが、猛禽たちにとって道は地面だけではない。
頭上には、どこまでも続く空がある。
この世界で俺に何ができるのか。
ようやく、その答えの一つが見え始めていた。




