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第四話 断ち切る刃

 兼嗣が立ち上がった。


 それだけで、空気が、がらりと変わった。

 誰も動かない。倒れたままの者たち、血の臭い、斬り合いの熱もまだ残っているはずなのに――この場所が、さっきまでとはまるで別物になっていた。

 俺は刀を握りしめたまま、息を浅く吐く。


「……おい」


 声が勝手にこぼれた。隣の重俊は構えを崩さない。


「下がるなよ」

「わかってる」


 そう答えながらも、足の裏が妙に頼りない。地面を踏んでいるのに、踏んでいる実感が薄い。

 光太郎が、動かずに短く言った。


「違う」


 それで足りた。

 兼嗣は一歩も動かない。ただ立ったまま、こちらを見ている。さっきの目ではない。人を見る目じゃない。値踏みでもない。

 まるで――何かを選んでいるような目だ。


(……なんだよ、これ)


 嫌なものが、形を持った。誰をとか、何をとかじゃない。どこを壊すか――ただそれだけを見ている。

 重俊が低く唸るように言った。


「来るぞ」


 次の瞬間、兼嗣の姿が消えた。

 視界から消えたんじゃない。位置が、抜け落ちた。気づいたときには、もう間合いの中にいた。


「――っ!」


 俺は反射的に踏み込み、刀を振るう。手応えはあった。でも軽い。斬ったはずの感触が、遅れて戻ってくる。


「抜けてる……!」


 舌打ちが漏れた。重俊が横から斬り込む。宗冬の声が鋭く飛ぶ。


「詰めるな、散れ!」


 その言葉で一歩引く。同時に、兼嗣の刃が走った。速くはない。でも、間がない。

 受ける。重い。人の力とは思えない。押し切られそうになる。


 足を踏み直すと、畳が沈んだ。その隙に光太郎が滑り込む。兼嗣の動きが、ほんの少し止まる。


「取った!」


 俺は迷わず踏み込む。今度は肩口を狙う。刃が深く入った――はずだった。


「……足りねえ!」


 通らない。肉の奥に、骨じゃない別の抵抗がある。兼嗣の顔が、初めて歪んだ。そして、笑った。


「惜しいな」


 声は柔らかいのに、温度がない。次の瞬間、身体がずれる。影が裂けるように、光太郎の拘束を無理やり引きちぎる。


「抜けた!?」


 重俊が間に入る。刃を合わせるが、押される。


「下がれ!」

「無理だろ!」


 言いながら俺は横へ回る。三方向から詰めようとする。光太郎が低く言った。


「揃う」


 その一言で、息が合った。重俊が正面を押さえ、俺が横から、光太郎が足を取る。

 今度こそ、形になる。兼嗣の動きが、わずかに止まった。


「そこだ!」


 喉元へ刃を突き込む。今度こそ、確実に――はずだった。

 そこで兼嗣の目が動いた。俺を、まっすぐに見た。初めて、はっきりと。

 そして、口が動く。


「なぁ、先生」


 息が止まった。その言葉で、足が止まった。刀が、途中で凍りつく。音が消え、視界がずれる。


「応えてほしかった」


 ――同じ声だった。

 あの時の響きと、何一つ変わらない。

 違うのは、目の前にいるのがあいつじゃないということだけ。


 動かない。分かっているのに、動かない。斬らなければいけない。分かっているのに、指一本動かせない。


「……おい」


 誰かが何か言っている。聞こえない。視界の端で、重俊が前に出た。俺を押し退ける。


「下がれ!」


 その声だけが、はっきり届いた。次の瞬間、刃がぶつかる。重い音。受けているのに、押されている。


 俺は――動けなかった。

 重俊の身体が崩れた瞬間、場の均衡がはっきりと壊れた。

 畳に広がる血が、ゆっくり滲んでいく。その赤が目に残るのに、身体は言うことを聞かない。刀は握っているのに、指の感覚だけが遠い。


 宗冬が駆けつけ、自身の袖を千切り止血した。それから、部屋の端へと運ぶ。俺の腕を掴み、重俊の隣に座らせた。


 兼嗣は止まったまま、こちらを見ている。さっきまでの人間らしい動きが、そこでぷつりと途切れた。


「……脆いな」


 声は落ち着いている。理が通っている。でも、意味が違う。

 次の瞬間、兼嗣の身体が内側から歪んだ。骨が軋む乾いた音。

 ――見てはいけないものを見ている気がした。

 肩が片方だけ不自然に持ち上がり、背がねじれる。首が一度沈み、別の位置で浮かび上がる。


 顔は、まだ兼嗣のままだった。

 だがそれ以外は、もう人の形を保とうとしなかった。

 腕の届く位置が変わる。関節が増えたように折れ曲がり、肘の向きが途中で入れ替わる。脚も同じ。踏み出してもいないのに、距離が詰まる。

 影が遅れる。床に落ちた影が半拍遅れて別の形になり、壁にももう一つ影が生まれる。どれが本体か、分からなくなる。


「なるほどのぅ。其方は人にあらずか」


 視線が光太郎に向いた。その瞬間、光太郎が変わった。

 足元の影が一気に立ち上がり、黒い影が光太郎の身体を包み込む。包むというより、押し潰す。人の輪郭が崩れ、丸い塊となる。体中から触手が伸びる。太さも長さもバラバラ。一本一本形が違う。でも、すべて兼嗣を向いていた。


 顔はもうない。目の位置に暗い穴のようなものが開き、そこから見ているのかどうかもわからない。ただ、視線だけが絡みつく。


「重俊をよくも」


 声が落ちる。さっきと同じ声なのに、距離が違う。耳の奥に直接響く。

 兼嗣がわずかに笑った。


「良いのか?」


 歪んだ身体が天井に張り付く。四肢が畳を離れた瞬間、そこにあるだけだ。


「このままだと、殺すぞ」


 その言葉が耳に届く前に、その体が落ちてきた。

 宗冬が一歩で入り、刃が兼嗣の腕を捉える。でも斬れたはずの感触が、途中で空になる。


「……なるほど」


 低く呟く。同時に、光太郎の触手が動いた。一本じゃない。数えきれないほどの触手が空間を埋め尽くす。絡めつつも、逃げ場を無くしていく。

 兼嗣が動く。しかし、動いた先に空間がない。踏み込んだ足が着地する場所を失う。腕を振っても、軌道が途中で曲がる。さらに、そこにも触手が絡む。


「……面白い」


 兼嗣が嗤う。声はまだ人のままだ。


「ならば」


 身体がさらに崩れる。顔の位置がずれ、目が四つに見える。影が重なっている。口が開くが、歯は見えない。黒いものが詰まっている。


 光太郎は一歩も動かず、空間ごと押し潰していく。


「やってみるがいい」


 その言葉で、すべてが変わった。宗冬が迷いなく踏み込む。触手が固定する。兼嗣のずれが、止まる。その一点へ、刃が入る。深く、確実に。


 黒い瘴気が噴き出す。血でも液でもない、濁った塊が内側から溢れ出す。人の形がそれを支えきれず、崩れていく。


 兼嗣の顔が、初めて本気で歪んだ。笑みでも怒りでもない。ただ、形が保てなくなっただけの歪み。


「……そこか」


 宗冬が言う。次の一手は速かった。刃を引き、同じ場所へもう一度。

 兼嗣がもがく。が、触手がさらに絡まり、容赦なく締める。

 黒が裂ける。今度は抜けなかった。

刃が止まり、そこで中身を断った感触が来た。


 兼嗣の形が崩れ落ちる。人の輪郭がほどけ、黒い塊だけが畳に残る。動かない。広がりもしない。ただ、そこにある。


 光太郎の触手が、ゆっくりと引いていく。人の姿に戻る。

 宗冬は刀を下ろさない。完全に終わるまで、じっと見つめている。


     ◇


 外の音が戻ってきた。京の夜は、そのまま続いている。

 何も変わらない。

 なのに、俺だけが動けなかった。

 隣で重俊が息をしている。守られた。まただ。

 何もできなかった。


 刀を握ったまま、ただ座っている。それが、何より重かった。

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