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第二話 歪む気配

 屋敷の門を出たところで、声がかかった。


「お待ちくだされ」


 振り返ると、九条家の使いらしい男が深く頭を下げていた。息が少し上がっている。


「所司代様より、至急お耳に入れるべき件にて、御伝言がございます」


 俺は顔をしかめた。


「またかよ」


 隣で重俊が眉を寄せる。


「軽口を叩くな。所司代殿からの使いだぞ」


 宗冬が一歩だけ足を止めた。わずかに視線を落とし、すぐに上げる。


「……すぐ済むのだな」

「は」


 短い返事だった。それで決まった。

 宗冬が踵を返す。俺は小さく舌打ちしたが、ついていくしかない。重俊も黙って後ろにつく。

 ふと見ると、光太郎だけが一瞬、動かなかった。

 門の内側をじっと見ている。


「おい、どうした」


 声をかけると、光太郎はゆっくり視線を戻した。


「……変だ」

「何がだ」


 重俊が問うが、光太郎はそれ以上言わない。そのまま歩き出す。

 肩をすくめて、後を追った。


 廊下の空気が、さっきより重い気がした。足音がやけに響く。板の軋みが、遅れて耳に届く。

 誰かが歩いているはずなのに、気配が揃わない。


 前を行く宗冬の背中が、わずかに遠く見える。

 光太郎だけが、一歩遅れていた。視線が、壁でも床でもなく、空間をなぞっている。


「……いるな」


 小さく、そう言った気がした。だが、聞き返す前に、何事もなかったように歩き出す。


 部屋に通されると、部屋の隅に小さな水槽が置かれていた。数匹の赤い金魚が、ゆっくり尾を揺らしている。


 兼嗣がすでに座っていた。さっきと同じ顔だ。だが、どこか違う。いや、違う気がするだけかもしれない。


「お戻りいただき、かたじけない」


 柔らかい声だった。

 宗冬が軽く頷く。


「手短に頼む」

「もちろん」


 兼嗣が目を細める。そのまま、後ろに控えていた者に合図を送った。

 すぐに茶が運ばれてくる。湯気が立つ。香りは普通だ。さっきと変わらない。

 俺は何も考えずに手を伸ばしかけた。兼嗣が先に茶碗を取る。迷いがない。

 そのまま口をつけ、一口で飲み下した。何も起きない。重俊が小さく息を吐いた。


「……問題なさそうだな」

「だろうな」


 俺も肩の力を抜きかけた。さすがに二度も同じ手は――

 そこで、宗冬が茶碗を手に取る。ほんのわずか、動きが遅かった気がしたが、気のせいだろう。

 次の瞬間。

 光太郎が宗冬の手首を掴む。


「触るな」


 低い声だった。宗冬の動きが止まる。俺も思わず息を止めた。


「……何事だ」


 宗冬が静かに問う。光太郎は答えない。ただ茶碗を見ている。


「違う」


 それだけ言った。意味がわからん。でも、声の調子が妙だった。いつもより硬い。

 宗冬がゆっくりと光太郎を見る。光太郎は視線を外さない。

 そのまま、動かない。


 ――妙な間が落ちた。


 そのときだ。

 兼嗣の動きが止まった。ほんの一瞬だけ。それから、ゆっくりと光太郎に視線を向ける。

 目が細くなる。口元が、わずかに歪んだ。息が漏れる。

 くっ、と小さく喉が鳴った。


「……これは」


 そこで言葉を切る。肩が揺れた。

 次の瞬間、はっきりと声が出た。


「面白い」


 笑っている。さっきまでの柔らかい顔は消えていた。声も、少し違う。

 宗冬の目が鋭くなる。

 俺は背中に冷たいものが走るのを感じた。光太郎は動かない。ただ、茶を見ている。


「……どういうことだ」


 重俊が低く言う。光太郎は短く答えた。


「触るな」


 同じ言葉だ。だが、今度ははっきりと拒んでいる。

 俺は茶碗を見た。湯気は変わらない。匂いも、特におかしいとは思えない。

 それでも、手が出なかった。

 理由はわからない。

 ただ、出す気にならなかった。


 光太郎の声が落ちた瞬間、部屋の空気が変わった。誰も動かない。

 兼嗣の笑いだけが、まだ残っている。

 くっく、と喉の奥で鳴るそれが、やけに長く感じた。

 茶碗に視線を落とす。湯気は変わらない。匂いも、普通だ。

 だが――


「……やるか」


 小さく呟いて、茶碗を取った。重俊が横で顔をしかめる。


「何をする気だ」

「確かめる」


 それだけ言って、立ち上がった。部屋の隅へ向かう。さっき目に入っていた水槽だ。

 中で金魚が一匹、ゆっくり尾を揺らしている。

 茶を少しだけ傾け、水面へ落とす。わずかな波紋が広がった。一瞬、何も起きない。

 次の瞬間。びくりと跳ね、裏返る。それきり動かない。水面に、腹を見せて浮く。


 沈黙が落ちた。誰も声を出さない。

 俺は茶碗を持ったまま、動けなかった。


「……毒か」


 宗冬の声が低く響き、茶碗を見たまま動かなかった。

 わずかに目を細める。怒りではない。迷いでもない。

 ただ、計るような視線だった。この場の誰が、どこまで関わっているのか。

 それを一瞬で見極めようとしている。

 やがて、ゆっくりと顔を上げた。

 視線が、兼嗣へ向く。何も言わない。

 だが、それだけで十分だった。


 この屋敷の中で。背中に冷たいものが走る。視線を上げると、兼嗣がこちらを見ていた。

 さっきまでの笑いは、もうない。

 何事もなかった顔に戻っている。


 でも、目だけが違う。細いまま、じっと見ている。

 人の目じゃない。そう思いかけて、俺は言葉を飲み込んだ。

 違う。まだ、そこまでは言えない。


「なるほど……そう言うことか」


 宗冬が小さく言う。それだけだった。

 でも、十分だった。場の全員が、それを理解する。


 そのときだ。ふっと、音が消えた。

 風もないのに、障子がわずかに揺れる。いや、揺れたように見えただけか。

 わからない。

 だが、確かに変わった。


 光太郎が顔を上げる。視線が、天井へ向く。


「来る」


 短い声だった。それで十分だった。

 宗冬の手が、今度は迷いなく刀にかかる。

 鯉口が切られる音が、小さく響いた。

 重俊も一歩前に出る。


「来るか」

「近い」


 光太郎が言う。俺は思わず、障子の方を見た。何もいない。


 ――いる。そうとしか思えなかった。視線を感じる。

 外じゃない。中だ。ここに、もう入り込んでいる。そのとき、障子の向こうで、何かが動いた。


 わずかな衣擦れの音。

 次の瞬間、影が一つ、障子に映る。

 人の形だ。山伏の装束に見える。


 だが――妙だった。立っているだけなのに、気配が揺れる。もう一つ、影が重なる。さらに一つ。

 数は増えているはずなのに、距離が掴めない。

 足音は、聞こえない。それなのに、近い。


 光太郎が一歩前に出た。


「中だ」


 それだけ言う。宗冬が抜いた。刃が光る。

 重俊が構える。俺も遅れて、腰のものに手をかけた。

 障子の向こうの影が、ぴたりと止まる。

 一瞬の静寂。


 次の瞬間――

 障子が、内側から裂けた。

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