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第一話 踏み込む境

 九条家の門は、やけに静かだった。


 近衛の屋敷と比べて、造りそのものが変わるわけじゃない。見た目だけなら、よくある大きな公家屋敷だ。

 それなのに、前へ立った途端、足が半歩ぶんだけ鈍った。

 俺は頭を掻いた。


「……なんだこれ」

「何がだ」

「いや……」


 言いかけて、やめる。

 形にならない。ただ、入りたくない。それだけが先にあった。


 光太郎が門を見上げたまま言う。


「中」


 重俊が小さく息を吐く。


「分かっておる。無論警戒はする」


 宗冬は何も言わない。門へ向かう足取りも変わらない。俺は舌打ちを飲み込み、その後を追った。


 門が開く。重い門のはずなのに、開いたと目で分かるだけで、音が耳には届かない。


 中へ入る。庭が広がる。砂は一筋も乱れず、植木は刈り揃えられ、池の水面は鏡みたいに静かだった。

 手が入っているのは分かる。分かるが、手が入りすぎている。


 重俊が見渡した。


「見事なものだ。隙がない」

「……隙なさすぎだろ」


 一歩踏み込む。砂を踏んだはずなのに、足裏に残る感じがない。

 光太郎が地面を見たまま言う。


「止まる」

「何がだよ」

「動かぬ」


 風は吹いている。枝も揺れている。

 だが、庭全体は止まって見えた。揺れているものだけが浮いて、肝心の庭が動いていない。

 俺は目を細めた。


「……気味悪ぃな」


 視線を上げる。使用人が数人、こちらへ気づいて頭を下げた。誰が先でも後でもない。同じ速さで頭を下げ、同じ速さで戻る。

 俺は思わず足を止めた。


「……おい」


 重俊が小さく振り返る。


「どうした」

「今の見たか」

「何がだ」


 言葉に詰まる。何が、ではない。あれ全部だ。だが、それをそのまま口にすると、自分が変なものを見てるみたいだった。

 光太郎が落とす。


「同じ」


 使用人たちは顔を上げ、何事もなかったように散っていく。その時だけ、足音が一拍遅れてついてきた。

 俺は振り返りかけて、やめた。


「……気のせいか」


 そう言ってもう一歩踏み出す。背中が、じわりと粟立った。

 案内の男が現れる。昨夜の使者とは別人だ。顔も背丈も違う。

 なのに、歩き方と仕草だけが似ている。


「こちらへ」


 短い。無駄がない。俺たちはそのまま廊下へ通された。


 板はよく磨かれている。足音が軽く響くはずなのに、途中で切れる。

 前を歩く男の足音だけが先に消えて、こっちの音が後から追いかけるように耳へ返ってきた。


 廊下の途中、襖が並んでいる。

 何気なく目をやる。山水画だ。岩や松、遠山。ごく普通の絵に見える。

 そのはずなのに、一瞬だけ、岩の陰に角をはやした人影が立っているのが、見えた。

 俺は足を止めた。


「……なんだ今の」


 目を凝らす。もう何もない。岩はただの岩、人は描かれていない。重俊が不審そうに見る。


「どうした」

「いや、何でもねえ」


 言いながら視線を外す。胸の奥がざわついたまま収まらない。

 光太郎が襖を見たまま言う。


「鬼」


 はっきりしていた。俺は思わず振り返る。


「いや、普通の絵だろ」

「違う」

「何が」

「形だけ人。でも、鬼」


 重俊が眉をひそめる。


「妙なことを申すな」


 宗冬は振り返らない。最初から、九条だけを見るつもりで来ている顔だった。


 廊下を抜ける。案内の男が止まり、襖の前で手を引く。


「こちらでございます」


 俺は小さく舌打ちを飲み込んだ。


「早すぎるだろ」

「準備が行き届いておるのだ」


 重俊の言葉はもっともだ。だが、そういう話とも違う。

 何かが先回りしていて、人が後から追いついているみたいだった。

 光太郎が襖の向こうを見たまま言う。


「いる」


 さっきまでより低い。警戒が見える声だった。俺は喉を鳴らした。


「……分かってるよ」


 分かってるつもりで、分かっていない。嫌な感じだけが胸に残る。


 襖が開く。座敷は広く、香の匂いが薄く漂っていた。だが、その匂いも鼻へ届く直前で薄れて、何の香か分からなくなる。

 部屋の上座近くに綺麗な水槽がある。金魚が数匹優雅に泳いでいる。光太郎が驚いたように見つめていた。


 そして、その奥で足音が止まった。

 さっきまで、この屋敷の中は妙なほど静かだった。人の気配はあるのに、音だけがどこか遠い。

 その遠さの向こうで、足音だけが急にはっきりと止まる。


 俺は無意識に背筋を伸ばした。


(……来る)


 重俊も同じように気配を締めている。

 宗冬だけが動かない。最初から、ここに来るべくして来た者の座り方だ。

 光太郎は襖でなく、その奥を見ている。ずっとだ。


 烏羽色からすばいろの水干に長烏帽子を纏う男が音もなく、入ってくる。

 年の頃は宗冬とそう変わらない。顔立ちは整っている。表情も柔らかい。だが、笑みも視線も動きも、必要なぶんだけしか動かない。

 九条兼嗣くじょうかねつぐだった。

 俺は一瞬だけ息を止めた。


(……なんだ、こいつ)


 怖いわけじゃない。威張ってもいない。ただ、人を見ていない。人を見ているふりだけが、うまい。


 兼嗣はゆっくり歩み、宗冬の前へ座る。衣擦れの音がほとんどしない。

 座り終える前に、もう姿勢が決まっていた。

 視線が宗冬へ向く。


「お初にお目にかかります。麿は九条兼嗣と申します」


 声は柔らかい。丁寧で、淀みがない。宗冬がわずかに頷いた。


「柳生宗冬である」


 それだけだ。余計な言葉を置かない。

 九条は微笑んだまま続ける。


「お噂はかねがね。剣の家にして、政にも通じると」


 褒めているように聞こえる。だが、軽い。相手の価値まで量って、先に棚へ置いたような軽さだった。

 宗冬は動じない。


「噂は噂だ」

「噂ほど当てにならぬものはございませぬ」


 そう言いながら、視線がわずかに動く。俺の方を見た。一瞬だけだ。なのに、ぞくりとした。


(……何を見たんだ)


 そんな感じがした。俺が誰かじゃなく、何人目か、どの位置か、それだけを見られた気がした。重俊も同じものを感じたのか、わずかに顎を引く。光太郎だけが全く動かない。

 宗冬が口を開く。


「京の様子を見に来た」

「様子、でございますか。そのためにわざわざ江戸より?」

「妙だ。整いすぎている」


 一瞬、間が落ちる。九条はすぐに笑みを戻す。


「都とは、整うものにございます」


 柔らかい言葉だ。だが否定はしていない。宗冬が続ける。


「人の都は、人で乱れる。それがないなら、別のことわりが入っている」


 部屋の空気がわずかに締まる。俺は息を詰めた。


(殿……踏み込んだな)


 九条は一拍だけ沈黙し、それから静かに答えた。


「理とは、人が作るものにございます。人が動けば、乱れることも整うこともありましょう」


 理屈は通る。通るのに、噛み合わない。宗冬が盃に手を伸ばす。


「人が動いているようには見えぬ」


 九条はその動きを見ていた。視線が、ほんの少しだけ盃へ落ちる。


「見えぬものを、あると断じるのは難しゅうございます」


 逃げているようで、逃げていない。線だけは、きっちり引いている。

 俺は膝の上で手を握った。


(……なんだよ、こいつ)


 重俊が低く息を吐く。光太郎が、初めて口を開いた。


「揃う」


 その一言で部屋の空気が一段沈んだ。九条の視線がわずかに光太郎へ向く。


「面白いことを申される」


 笑っている。だが、目は笑っていない。光太郎は動かない。


「崩れぬ」

「人の形でございましょう」

「中が違う」


 今までより多い。そのこと自体が、もう警戒だった。九条はそれ以上返さない。ただ、静かに宗冬へ視線を戻す。

 宗冬が言う。


「九条家の出入りが増えている」

「人が集まるのは、自然なことでございましょう」

「中はどうだ」


 宗冬は一歩踏み込む。九条はわずかに間を置いた。その間が妙に長く感じた。


「我が家にございますれば」


 それだけだ。だが、それ以上踏み込ませないことだけは、はっきりと見えた。

 俺は舌打ちを飲み込んだ。


(固ぇな……)


 宗冬はそれ以上追わない。

 盃を持ち上げる。指先に迷いはない。

 九条はそれを見ている。ただ見ている。

 その視線が、妙に気にかかった。俺は喉の奥に引っかかるものを覚えた。嫌な感じだけが、じわじわと広がる。

 光太郎が低く言った。


「違う」


 その一言で、空気がぴたりと止まった。宗冬の手が、わずかに止まる。九条の目が、ほんの一瞬だけ揺れた。

 俺はそれを見逃さなかった。


(今、動いた)


 宗冬はそのまま盃を下ろす。音もなく、卓へ戻す。


「……また改めよう」


 短い。それで十分だった。九条は一拍置き、ゆっくりと頷いた。


「それもまた、よろしいでしょう」


 宗冬が立つ。俺はすぐに続いた。重俊も無言で立ち上がる。光太郎が最後に動く。


 障子へ向かう。背中に視線が刺さる。


 廊下へ出た瞬間、空気が少し軽くなる。俺はそこでようやく息を吐いた。


「……なんだよ、あれ」


 声が掠れていた。重俊が低く答える。


「理は通っておる」

「でも、人じゃねえ」


 思わずそう言った。重俊は否定しない。ただ、目を伏せる。


「人だ」


 宗冬の短い断定だった。俺は顔をしかめる。

 宗冬は少し置いて、低く続けた。


「……そう見る」


 その言い方で、逆に嫌なものが残った。言い切ったのではない。言い聞かせたのだ、と分かったからだ。


 光太郎が最後にぽつりと落とした。


「中だ」


 それだけだった。俺はそれ以上聞かなかった。

 ただ――あの部屋の空気だけが、背中に張りついて離れなかった。

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