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柳生長屋の三人組 湧いた事件を片付けます  作者: 月城玉菜
第九章 潜む影と揺らぐ理
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第五話 見えぬものの在処

 宿の二階は妙に静かだった。


 階下じゃ客が飯を食ってるはずだ。女中が盆を運ぶ音や、笑い声も聞こえてくる。でも、この部屋に上がってくる頃には、どの音も薄れてしまう。障子の向こうで夜がじわじわ深くなって、行灯の火だけが頼りなく揺れてる。

 俺は窓の桟に肘をついて、通りを見下ろした。


「……なんか、落ち着かねえな」


 後ろで重俊が膝を正して、静かに息を吐いた。


「落ち着いてられる場合じゃねえ。敵地にいるようなもんだ」


 俺は肩をすくめた。


「わかってるよ。けどよ、宿って普通はもうちょい気が抜けるもんだろ」


 そう言って振り返る。

 宗冬は部屋の真ん中に座って、湯呑を手にしたまま何も言わない。顔色一つ変えずにいるだけで、部屋の空気がぴたりと締まる。

 光太郎は柱にもたれて目を閉じていた。眠ってるように見えるけど、そうじゃない。あいつはこういうときほど、耳を澄ましてる。

 俺は畳に座り直して膝を立てた。


「九条から何か来ると思うか」


 重俊が答えるより先に、光太郎が目を開けた。


「来る」


 短い一言で、部屋の空気が少し重くなった。俺は顔をしかめた。


「やめろよ。そういうの、当たるから」


 重俊が呆れたように俺を見た。


「当たらねば困る場面だろうが」


 そのときだった。

 戸が、こつ、と鳴った。

 強くもない。乱暴でもない。でも、二度、同じ間隔で叩かれた。


 俺は思わず重俊を見た。重俊ももう戸口に視線をやっている。宗冬だけが、湯呑を置く音一つ立てずに言った。


「入れ」


 外から、すぐに声が返ってきた。


「失礼つかまつります」


 声は柔らかい。でも、妙に平べったい。

 戸が開く。

 入ってきた男は、若くも老いても見えない顔つきで、着物にも乱れがない。息の乱れもない。ただ礼だけが、先に用意されている。

 俺は目を細めた。


(宿に来る顔じゃねえ)


 男は部屋に入ると、迷いなく宗冬の前で膝を折った。頭を下げる角度まで、測ったみたいに正確だ。


「九条家より、柳生様へご伝言にございます」


 宗冬は視線を落としたまま答える。


「申せ」


 男は顔を上げた。目が揺れない。


「我が主、九条兼嗣様が、ぜひ一度お目通りをと」


 俺は思わず口を挟みかけ、重俊に肘で止められた。 それでも小さく漏れる。


「早すぎるだろ……」

「整いすぎておる」


 男はその声にも反応しない。ただ宗冬だけを見ている。

 光太郎が柱から離れず、ぽつりと言った。


「中」


 俺はそっちを振り向いた。


「何がだよ」


 光太郎は使者を見たまま、もう一度だけ繰り返す。


「中」


 それ以上は何も言わない。でも、その短さがかえって嫌な感じだった。


 宗冬は男を見た。礼、声、目、間――全部を一度に見抜くような目つきだ。


「今か」

「ご都合のつく折に、とのこと」


 柔らかい。でも、逃げ道を残してるようで、実は一つも残してねえ言い方だ。

 俺は舌打ちを飲み込んだ。


「どう見ても罠だろ」

「礼はある。だが、人の温度が薄い」


 男はなおも静かだ。驚きも怒りも、何も見せない。

 宗冬がわずかに目を細めた。


「応じよう」


 俺は思わず身を乗り出した。


「行くのかよ」

「ああ」


 宗冬はそれだけだった。重俊が背筋を伸ばす。


「承知した。ならば、こちらも備えるのみ」


 俺は膝に手をついて息を吐いた。


「備えるって言ってもよ……」


 そのとき、使者が初めてわずかに頭を下げた。でも、そこにも安堵はなかった。ただ形だけがある。

 俺はその顔を見て、喉の奥が急に冷えた。

 人の顔をしてる。なのに、誰かに使われてる気配だけが濃すぎる。

 光太郎が障子の外へ目をやった。


「待つ」


 その一言が、やけに耳に残った。

 使者は頭を下げたまま、静かに言った。


「では、刻を改めてご案内いたします」


 宗冬が短く返す。


「任せる」


 それで話は終わった。男はそれ以上言葉を足さず、すっと立ち上がる。動きに迷いがない。畳を踏む音もほとんどしないまま、戸口へ向かった。


 俺はその背を目で追った。歩いてるはずなのに、重みがない。戸が開き、廊下の灯りが差し込む。男は一度も振り返らず、そのまま出ていった。戸が閉まる。音が、やけに小さく響いた。


 しばらく、誰も口を開かなかった。

 外の気配がゆっくり戻ってくる。階下の話し声、器の触れる音、女中の足音。それらが全部薄く聞こえた。

 俺は頭を掻いた。


「……なあ」


 重俊が視線だけ寄越す。


「何だ」

「行くんだよな、あそこ」


 重俊は一拍置いて、静かに答えた。


「殿がそう決めた以上、止められぬ」

「止めろよ、そこは」


 重俊がわずかに眉を寄せる。


「止める理由があるか」

「あるだろ。あからさまにおかしい」


 俺は指で畳を軽く叩いた。


「来るの早すぎるし、段取り良すぎるし、あいつ――」


 言いかけて、言葉が詰まる。何がどうおかしいのか、うまく言葉にならない。

 重俊が低く言った。


「人ではある」


 俺は顔を上げた。


「そうか?」

「少なくとも、礼は通しておる」


 それはそうだ。無礼じゃない。むしろ、整いすぎてる。

 だから余計に気味が悪い。

 光太郎が壁にもたれたまま、目を開けた。


「違う」


 短い。俺は振り向いた。


「何がだよ」


 光太郎は戸口の方を見たまま、ゆっくり言う。


「外と同じ」

「どういう意味だろうか」

「揃う」


 それだけだった。俺は顔をしかめた。


「またそれか」


 でも、さっきの使者の動きが頭にこびりついている。歩き方、間、声――全部が、通りで見た連中と同じ調子だった。

 宗冬が静かに立ち上がった。湯呑を置く音だけが、小さく鳴る。


「支度をする」


 それだけ言って、部屋の奥へ視線をやる。迷いはない。

 俺はその背を見て、ため息をついた。


「……ほんとに行くんだな」


 宗冬は振り返らない。


「ああ」


 短い。それで決まりだ。重俊が立ち上がり、衣を整える。


「罠であれば、なおさら中へ入らねば見えぬ」


 俺は肩を落とした。


「理屈は分かるけどよ……」


 納得はできない。

 光太郎がゆっくり身体を起こした。その動きだけが、さっきまでと違って重い。


「近い」


 俺は舌打ちを飲み込んだ。


「やめろ、それ」


 光太郎は俺を見ない。


「呼んでる」


 その一言で、背筋がぞくりとした。

 誰が、とは言わない。でも、行き先が決まってる感じだけが、はっきり伝わってくる。

 重俊が戸口へ向かう。


「行くぞ」


 俺は最後にもう一度だけ、部屋の中を見回した。

 何も変わらない。畳も、行灯も、湯呑も、そのままだ。なのに、ここにいたときとは、なんだか違って見える。


「……やめときゃいいのに」


 小さく呟く。返事はない。戸を開ける。廊下の灯りが、やけに白く見えた。

 外へ出る。

 京の夜は変わらず、人がいて、声があって、灯りも多い。

 でも、そのどれもが、どこか同じ調子で揃っている。


 俺は足を止めかけて、やめた。

 宗冬は前を向いたまま進む。重俊が続く。光太郎が最後に出て、ゆっくり戸を閉めた。戸が閉まった音だけが、やけに長く残った。


 光太郎が、振り返らずに言った。


「中で」


 それだけだった。

 俺はそれ以上聞かなかった。

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