第五話 見えぬものの在処
宿の二階は妙に静かだった。
階下じゃ客が飯を食ってるはずだ。女中が盆を運ぶ音や、笑い声も聞こえてくる。でも、この部屋に上がってくる頃には、どの音も薄れてしまう。障子の向こうで夜がじわじわ深くなって、行灯の火だけが頼りなく揺れてる。
俺は窓の桟に肘をついて、通りを見下ろした。
「……なんか、落ち着かねえな」
後ろで重俊が膝を正して、静かに息を吐いた。
「落ち着いてられる場合じゃねえ。敵地にいるようなもんだ」
俺は肩をすくめた。
「わかってるよ。けどよ、宿って普通はもうちょい気が抜けるもんだろ」
そう言って振り返る。
宗冬は部屋の真ん中に座って、湯呑を手にしたまま何も言わない。顔色一つ変えずにいるだけで、部屋の空気がぴたりと締まる。
光太郎は柱にもたれて目を閉じていた。眠ってるように見えるけど、そうじゃない。あいつはこういうときほど、耳を澄ましてる。
俺は畳に座り直して膝を立てた。
「九条から何か来ると思うか」
重俊が答えるより先に、光太郎が目を開けた。
「来る」
短い一言で、部屋の空気が少し重くなった。俺は顔をしかめた。
「やめろよ。そういうの、当たるから」
重俊が呆れたように俺を見た。
「当たらねば困る場面だろうが」
そのときだった。
戸が、こつ、と鳴った。
強くもない。乱暴でもない。でも、二度、同じ間隔で叩かれた。
俺は思わず重俊を見た。重俊ももう戸口に視線をやっている。宗冬だけが、湯呑を置く音一つ立てずに言った。
「入れ」
外から、すぐに声が返ってきた。
「失礼つかまつります」
声は柔らかい。でも、妙に平べったい。
戸が開く。
入ってきた男は、若くも老いても見えない顔つきで、着物にも乱れがない。息の乱れもない。ただ礼だけが、先に用意されている。
俺は目を細めた。
(宿に来る顔じゃねえ)
男は部屋に入ると、迷いなく宗冬の前で膝を折った。頭を下げる角度まで、測ったみたいに正確だ。
「九条家より、柳生様へご伝言にございます」
宗冬は視線を落としたまま答える。
「申せ」
男は顔を上げた。目が揺れない。
「我が主、九条兼嗣様が、ぜひ一度お目通りをと」
俺は思わず口を挟みかけ、重俊に肘で止められた。 それでも小さく漏れる。
「早すぎるだろ……」
「整いすぎておる」
男はその声にも反応しない。ただ宗冬だけを見ている。
光太郎が柱から離れず、ぽつりと言った。
「中」
俺はそっちを振り向いた。
「何がだよ」
光太郎は使者を見たまま、もう一度だけ繰り返す。
「中」
それ以上は何も言わない。でも、その短さがかえって嫌な感じだった。
宗冬は男を見た。礼、声、目、間――全部を一度に見抜くような目つきだ。
「今か」
「ご都合のつく折に、とのこと」
柔らかい。でも、逃げ道を残してるようで、実は一つも残してねえ言い方だ。
俺は舌打ちを飲み込んだ。
「どう見ても罠だろ」
「礼はある。だが、人の温度が薄い」
男はなおも静かだ。驚きも怒りも、何も見せない。
宗冬がわずかに目を細めた。
「応じよう」
俺は思わず身を乗り出した。
「行くのかよ」
「ああ」
宗冬はそれだけだった。重俊が背筋を伸ばす。
「承知した。ならば、こちらも備えるのみ」
俺は膝に手をついて息を吐いた。
「備えるって言ってもよ……」
そのとき、使者が初めてわずかに頭を下げた。でも、そこにも安堵はなかった。ただ形だけがある。
俺はその顔を見て、喉の奥が急に冷えた。
人の顔をしてる。なのに、誰かに使われてる気配だけが濃すぎる。
光太郎が障子の外へ目をやった。
「待つ」
その一言が、やけに耳に残った。
使者は頭を下げたまま、静かに言った。
「では、刻を改めてご案内いたします」
宗冬が短く返す。
「任せる」
それで話は終わった。男はそれ以上言葉を足さず、すっと立ち上がる。動きに迷いがない。畳を踏む音もほとんどしないまま、戸口へ向かった。
俺はその背を目で追った。歩いてるはずなのに、重みがない。戸が開き、廊下の灯りが差し込む。男は一度も振り返らず、そのまま出ていった。戸が閉まる。音が、やけに小さく響いた。
しばらく、誰も口を開かなかった。
外の気配がゆっくり戻ってくる。階下の話し声、器の触れる音、女中の足音。それらが全部薄く聞こえた。
俺は頭を掻いた。
「……なあ」
重俊が視線だけ寄越す。
「何だ」
「行くんだよな、あそこ」
重俊は一拍置いて、静かに答えた。
「殿がそう決めた以上、止められぬ」
「止めろよ、そこは」
重俊がわずかに眉を寄せる。
「止める理由があるか」
「あるだろ。あからさまにおかしい」
俺は指で畳を軽く叩いた。
「来るの早すぎるし、段取り良すぎるし、あいつ――」
言いかけて、言葉が詰まる。何がどうおかしいのか、うまく言葉にならない。
重俊が低く言った。
「人ではある」
俺は顔を上げた。
「そうか?」
「少なくとも、礼は通しておる」
それはそうだ。無礼じゃない。むしろ、整いすぎてる。
だから余計に気味が悪い。
光太郎が壁にもたれたまま、目を開けた。
「違う」
短い。俺は振り向いた。
「何がだよ」
光太郎は戸口の方を見たまま、ゆっくり言う。
「外と同じ」
「どういう意味だろうか」
「揃う」
それだけだった。俺は顔をしかめた。
「またそれか」
でも、さっきの使者の動きが頭にこびりついている。歩き方、間、声――全部が、通りで見た連中と同じ調子だった。
宗冬が静かに立ち上がった。湯呑を置く音だけが、小さく鳴る。
「支度をする」
それだけ言って、部屋の奥へ視線をやる。迷いはない。
俺はその背を見て、ため息をついた。
「……ほんとに行くんだな」
宗冬は振り返らない。
「ああ」
短い。それで決まりだ。重俊が立ち上がり、衣を整える。
「罠であれば、なおさら中へ入らねば見えぬ」
俺は肩を落とした。
「理屈は分かるけどよ……」
納得はできない。
光太郎がゆっくり身体を起こした。その動きだけが、さっきまでと違って重い。
「近い」
俺は舌打ちを飲み込んだ。
「やめろ、それ」
光太郎は俺を見ない。
「呼んでる」
その一言で、背筋がぞくりとした。
誰が、とは言わない。でも、行き先が決まってる感じだけが、はっきり伝わってくる。
重俊が戸口へ向かう。
「行くぞ」
俺は最後にもう一度だけ、部屋の中を見回した。
何も変わらない。畳も、行灯も、湯呑も、そのままだ。なのに、ここにいたときとは、なんだか違って見える。
「……やめときゃいいのに」
小さく呟く。返事はない。戸を開ける。廊下の灯りが、やけに白く見えた。
外へ出る。
京の夜は変わらず、人がいて、声があって、灯りも多い。
でも、そのどれもが、どこか同じ調子で揃っている。
俺は足を止めかけて、やめた。
宗冬は前を向いたまま進む。重俊が続く。光太郎が最後に出て、ゆっくり戸を閉めた。戸が閉まった音だけが、やけに長く残った。
光太郎が、振り返らずに言った。
「中で」
それだけだった。
俺はそれ以上聞かなかった。




