第四話 崩れぬ理
島原を出た途端、通りの空気が一段と冷たく感じた。灯りは多いのに、足元だけ妙に暗い。人は歩いているし声もする。だが、どれも長く続かない。
俺は肩をすくめて、歩幅を少し詰めた。
「……まだ残ってるな、あの感じ」
横を歩く重俊が、視線だけこちらに寄越した。
「消えたと思う方が不自然だろう」
俺は鼻を鳴らした。
「ま、そうだな」
前を歩く宗冬は振り返らない。足取りも変わらない。ただ、島原にいた時より少しだけ間が詰まっている気がした。
光太郎は一度も口を開かない。人の顔じゃなく、道の流れをじっと見ている。
門の前で足を止めた。近衛の屋敷だ。高い塀に囲まれて、門は固く閉じられている。人の気配はあるのに、音が外に漏れてこない。
俺は顎で軽く示した。
「でかいな」
重俊が小さく息を吐く。
「公家筆頭の一つだ。軽口は控えろ」
「わかってるよ」
そう言いながら、喉の奥が少し乾くのを感じた。島原とは違う。ここは笑えない場所だ。
門が静かに開いた。内側から出てきた男が、俺たちを一瞥するとすぐに頭を下げた。
「お待ちしておりました」
間がない。言い終わると同時に、体が動く。俺は目を細めた。
「早ぇな」
重俊が低く言う。
「所司代の手配だ」
男は何も言わず、ただ道を空けた。俺たちはそのまま中へ入った。
庭は広くて、砂がきれいに均されている。足跡一つ残らない。植え込みも石も、全部きっちり揃っている。風が吹いても、何の乱れもない。
俺は一歩踏み込んで、足裏に妙な違和感を覚えた。
「……軽いな」
砂の感触が薄すぎる。踏んでいるはずなのに、踏んでいないみたいだ。
重俊が足元を見下ろした。
「整えすぎだ」
俺は小さく頷いた。
「島原と似てる」
光太郎が、庭の奥を眺めたままぽつりと言った。
「揃う」
短い。でも、さっきより声が低い。俺はそれ以上聞かなかった。
案内の男が止まり、襖の前で手を引いた。
「こちらへ」
声も動きも、まるで同じ型で動くようだ。俺たちはそのまま通された。
部屋は広かった。畳も柱も、きれいすぎるくらい整っている。座布団が並んでいて、すでに一人が座っていた。
近衛だ。
年の頃は宗冬と大して変わらない。顔立ちは柔らかい。だが、目だけが笑っていない。
俺は思わず視線を逸らした。宗冬が一歩進んで、軽く頭を下げた。
「柳生宗冬、参上仕った」
近衛はゆっくり頷いた。
「これはこれは。柳生様ともあろうお方が、わざわざこのような所までお越しになるとは」
言葉は丁寧だった。でも、どこか棘がある。
俺は内心で舌打ちした。
(感じ悪いな……)
宗冬は動じない。
「ご挨拶をと思い、参ったまで」
「ご丁寧に。京の空気はいかがでございましょう」
俺はそのやり取りを聞きながら、息を詰めていた。
話の意味は半分も分からない。でも、両者とも一歩も引いていないことだけははっきり伝わってきた。
重俊がわずかに顎を引く。光太郎は近衛じゃなく、部屋の奥の柱をじっと見ている。
宗冬が静かに言った。
「変わりはないように見える」
「この都は、古き理で動いておりますゆえ」
柔らかい声。でも、何も答えていない。
俺は指先で膝を軽く叩いた。
(逃げてる)
宗冬が続ける。
「九条の出入りが増えていると聞くが」
一瞬、空気が止まった。近衛はすぐには答えず、視線がわずかに動いた。
「それを増えていると見るか、賑わいと見るかは、見る側の心持ち次第でございましょう」
俺は眉を寄せた。
(はぐらかしやがった)
重俊の呼吸が一拍止まる。宗冬は間を置かずに言った。
「中はどうだ」
近衛はゆっくり瞬きをした。
「我らは、屋敷の内側にまで首を差し入れるような真似はいたしませぬ――柳生様は、なさるのやもしれませぬが」
柔らかい声。でも、はっきりと線を引いた。俺は奥歯を噛み締めた。
(切ったな)
部屋の空気が、少し重くなった。宗冬が盃に手を伸ばす。指先は止まらない。
「異常は感じぬか」
近衛はわずかに首を傾けた。
「異常と申しますのは、どの程度のものでございましょうな」
逃げ道を残したまま、返してくる。俺は膝の上で拳を握りしめる。
重俊が視線を落とす。何かを拾おうとしている顔だ。
宗冬が盃を置いた。
「見えているものはあるな」
近衛の目が、ほんの一瞬だけ細くなった。
「見えているものすべてに手を出しておりましたら、この都は立ち行きませぬ。どれほど目が利こうとも、でございます」
静かに言い切った。その一言で、腑に落ちた。だが、動かない。
俺は息を吐きかけて、止めた。光太郎は動かない。一度も口を開かない。ただ、同じ場所をずっと見続けている。それが、妙に気になった。
宗冬の言葉が落ちたあと、部屋の中から音が消えた。
外の気配はあるはずだ。人の動きも、風の流れもあるはずだ。でも、ここだけ切り離されたみたいに静かだった。
近衛はゆっくり盃を持ち上げた。指先の動きに無駄がない。一口だけ含む。
「……さすがに、目が利いておられる」
声は変わらない。でも、ほんのわずかに温度が下がる。
宗冬は返さない。視線も動かさない。
近衛は盃を置いた。
「とはいえ、この都は広うございます。すべてを一つに結びつけるのは、いささか早計かと」
逃げではない。でも、はっきり線を引いている。
俺は息を飲み込んだ。
(全部知ってて、言ってるな)
重俊の肩がわずかに固くなる。何かを読み取った顔だけど、口は開かない。
宗冬が静かに言う。
「見誤れば、広がる」
短い。でも、重い。近衛は一瞬だけ目を伏せた。
「……それもまた、理でございましょう」
肯定も否定もしない。その返しで、勝負はついた気がした。宗冬はそれ以上踏み込まない。近衛も、それ以上出さない。俺は膝の上で握っていた手を、ゆっくり開いた。
近衛がわずかに姿勢を正す。
「柳生様のご見識、しかと承りました」
丁寧だ。でも、終わらせに来ている。宗冬が頷いた。
「十分だ」
それだけで話を切った。俺は思わず息を吐いた。
(終わりかよ)
立ち上がる。畳の感触がやけに薄い。
重俊も無言で続く。
光太郎は最後まで座ったまま動かなかった。近衛が視線を向ける。
「お連れの方は……」
言いかけた瞬間、光太郎が顔を上げた。ゆっくり立ち上がる。足音が、やけに重く響いた。部屋の空気が、一段沈む。
俺は思わずそっちを見た。
(今かよ)
光太郎は近衛を見ない。
視線は、その奥――壁の向こうに向いている。そして、短く言った。
「中にいる」
それだけだった。
だが、その一言で空気が止まった。
近衛の指が、わずかに動く。盃の縁に触れたまま、離れない。
初めてだ。この男の間が崩れた。宗冬は何も言わない。ただ一度、近衛を見た。それで十分だった。
俺は背中に冷たいものが走るのを感じた。
近衛はすぐに笑みを戻した。
「……興味深いご見識でございますな」
声は整っている。でも、わずかに遅れた。光太郎はもう何も言わない。そのまま、何もなかったように背を向けた。
宗冬が歩き出す。
「これにて」
短い。俺は慌てて後を追った。重俊も無言で続く。部屋を出て、廊下に戻る。
さっきと同じはずの空気が、少しだけ違っていた。
門へ向かう。誰も声をかけてこない。俺は小さく息を吐いた。
「……なんだったんだ、今の」
重俊が前を見たまま言う。
「刺した」
それだけだ。俺は苦笑した。
「だろうな」
光太郎は歩きながら、もう一度だけ振り返った。屋敷の奥を見る。
「混ざる」
低い声だった。俺はそれ以上聞かなかった。
門を出る。外の空気が、ようやく動いた。でも、さっきまでの京とはもう違って見えた。中だけじゃない。
(これ、もう広がってる)
宗冬の歩みは止まらない。俺たちはそのまま、通りへ出た。
人はいる。声もある。
でも、そのどれもがどこか希薄だ。
さっきまで見ていたものと、同じ顔をしている気がした。




