第三話 揃う違和感
日が落ちきる前に、島原の灯りがぽつぽつと点き始めた。軒先に並んだ行灯が、通りをぼんやりと照らしている。三味線の音がどこからか流れてきて、笑い声がそれに絡みつくように重なる。
俺は思わず歩幅をゆるめ、行灯の灯りを目で追った。
「……思ったより派手じゃねぇか」
視線が勝手にあちこちへ散らばる。濃い色の着物、白粉の甘ったるい匂い、行き交う人影。昼間の京とはまるで別の顔だ。
隣を歩く重俊が、小さく息を吐いた。
「遊びに来たわけでない。気を抜くな」
「分かってるよ。ただ、こういうとこ、二度目だから」
「吉原とはまた違うでござる」
「あの時は、景色見る余裕なかったし」
そう言いながらも、足は自然と奥へ向かっていた。宗冬は何も言わず、先を歩いている。歩幅も視線も変わらない。ただ一度だけ、口元がわずかに緩んだ気がした。でも、その目は全く笑っていなかった。
角屋の前で足を止める。立っていた番頭が、こちらを見るなりすぐに頭を下げた。
「お待ちしておりました」
声も動きも、まるで油を差したみたいに滑らかだ。間がない。俺は少し眉を寄せた。
「話はもう通ってるってことか」
重俊が低く言う。
「所司代の手配だろうな」
番頭はそのまま一歩下がり、静かに手で奥を示した。余計な言葉は一切ない。ただ道を空けるだけ。
俺たちはそのまま中へ入った。
廊下は広くて、板がよく磨かれている。足音がやけに軽く響く。奥から聞こえる笑い声も、近いようで妙に遠い。
光太郎が足を止めて、廊下の先をじっと見たまま言った。
「揃う」
俺は顔をしかめた。
「何がだよ」
光太郎は答えず、ただ目だけが人の動きを追っている。重俊が小さく呟いた。
「場に呑まれるな。妙な気配がある」
俺は一度深く息を吐いた。
「……わかってる」
しかし、どこか気が緩んでいるのも本当だった。
部屋へ通される。障子が静かに開くと、奥で灯りがゆらゆら揺れていた。座布団がきれいに並べられ、酒と料理がもう用意してある。
そして、奥の方からゆっくりと一人の女が現れた。
太夫だ。
歩幅が一定で、足音がほとんどしない。顔に浮かべた笑みが、まるで貼りつけたみたいに崩れない。視線の動きも、全部計算し尽くしたように整っている。
俺はつい見入ってしまった。
「……すげえな」
小さく漏らすと、すぐ横で重俊が肘を突いてきた。
「見るな。仕事を忘れるな」
「見てねえよ。ただ、ちょっと……」
太夫はもう目の前まで来ていた。宗冬の前でゆっくりと頭を下げる。
「ようこそお越しくださいました」
声は柔らかい。どこにも揺れがない。宗冬が軽く頷く。
「世話になる」
それだけ。太夫は顔を上げ、同じ笑みを保ったまま席を示した。
腰を下ろす。酒が注がれる。手の動きに無駄が一切ない。隣の部屋からも笑い声が聞こえてくる。ひとしきり上がったかと思うと、どれも途中で糸を切ったように止んだ。
俺は盃を手に取り、少しだけ傾けた。
「いいとこだな、ここ」
「値もそれなりだろう」
光太郎は卓の上じゃなく、太夫の動きをじっと見ていた。
「揃う」
俺は喉の奥がひっかかるのを感じた。
「さっきから、そればかりだな」
光太郎は首をわずかに振る。
「違う。崩れぬ」
その言葉に、重俊が一瞬だけ視線を上げた。
「一つも乱れぬな」
俺は盃を置いた。太夫が次の酒を注ぐ。動きは変わらない。
宗冬が静かに口を開いた。
「近頃の客筋はどうだ」
太夫の手が、ほんの少しだけ止まった。でもすぐに動きが戻る。
「変わらず、多くのお客様にお越しいただいております」
答えは滑らかだ。でも、言葉の奥に何も乗っていない。俺は横目で宗冬を見た。宗冬はそのまま続けた。
「公家筋の出入りが増えていると聞くが」
太夫は一度だけ目を伏せた。
「ええ、確かに。多くのお公家様がおいででございます」
短い返事。それ以上は続かない。部屋の空気が、わずかに締まった。俺は指で盃の縁をなぞりながら言った。
「増えてるなら、景気はいいんじゃねえのか」
軽く言ったつもりだったが、誰も笑わなかった。太夫は顔を上げ、同じ笑みのまま答えた。
「出入りは多くございますが、長くお留まりになる方は少のうございます」
言い終わったあと、部屋にぽつんと間が落ちた。隣の笑い声が、同じ調子で途切れる。
光太郎が、低く言った。
「揃う」
その声だけが、少し重く響いた。俺は盃の縁に指をかけたまま、太夫の顔を見た。
「長くいねえってのは、どういうことだ」
軽く聞いたつもりだったが、声は少し低くなっていた。太夫は笑みを崩さず、盃へ酒を注ぐ。
「皆様、お忙しゅうございますから」
さらりと返す。でも、それだけだ。重俊が静かに口を挟んだ。
「忙しさで足が遠のくほどの場所ではござらぬでしょう」
太夫の手が、また一瞬止まる。今度ははっきり分かるくらいに。
「……そうかもしれません」
短く落とす。そのまま視線がわずかに逸れた。俺は盃を置いた。
「じゃあ、何だよ。来てすぐ帰る理由があるってことか」
太夫は答えない。代わりに、静かに酒を差し出す。その沈黙が、妙に重かった。宗冬が、わずかに目を細めた。
「顔を覚えておるか」
太夫は、今度ははっきりと動きを止めた。笑みはそのまま。でも、目だけが動く。
「……ええ。どの方も、似ておいででした」
「似てる?」
そう言ってから、太夫は自分の指先を見た。揃えていたはずの爪先が、わずかにずれていた。
「笑い方も、声の調子も……どこか、同じで」
そこで言葉を切る。自分で言って、引っかかったような顔をした。
光太郎がすぐに言った。
「揃う」
短い。でも断定だ。俺は首を傾げた。
「そんなわけあるかよ。同じ顔なんて——いや」
言いかけて、ふと止まる。さっき通りで見た連中の顔が、頭の中に浮かんだ。
どれも、妙に似ていた気がする。
重俊が低く言う。
「笑う間まで似るか」
太夫は視線を落としたまま、小さく息を吐いた。
「最初は、気のせいかと存じました。でも……続きまして」
指を重ね直したが、揃えたはずの先がすぐに乱れた。そこでまた言葉が止まる。部屋の外で、同じ調子の笑い声が短く上がって、すぐに消えた。
宗冬が、ゆっくりと盃を置いた。
「他に」
それだけ問う。太夫は少し迷い、それから声を落とした。
「夜に……妙な噂がございます」
「申せ」
太夫は一度、障子の方へ視線をやった。
「山の者が動いている、と」
「山の者?」
「八瀬の……童子のような者、と」
曖昧だ。でも、声にははっきりとした怖れが混じっていた。重俊が低く呟く。
「笑えぬ話だな」
光太郎が、部屋の外へ視線を向けた。
「近い」
その一言で、空気がぴたりと変わった。俺は思わず身を乗り出した。
「何がだ」
光太郎は答えない。ただ、外の気配を追っている。さっきまでの緩さが、すっと消えていた。
重俊が息を整えながら言う。
「気配か」
光太郎がわずかに頷く。俺は舌打ちを飲み込んだ。
「化け物でも出るってのかよ」
「軽口で済む話ではない」
光太郎が小さく首を振った。
「違う」
短い。でも、それ以上は言わない。その沈黙が、逆に重かった。
宗冬が、静かに言った。
「どこの家か」
「下り藤でございますれば」
太夫は囁くような声で答える。酒を注ぐ手が震えていた。
「九条か」
誰に向けたわけでもない。でも、その一言で全部が繋がった気がした。俺は顔を上げた。
「さっきの話と繋がるってのか」
「出入りの多さ、語られぬ内情、揃う顔……」
言いながら、俺の目が自然と細くなる。
「無関係とは思えねぇ」
光太郎がぽつりと落とした。
「混ざる」
その言葉に、背筋がぞくりと冷えた。太夫は何も言わない。ただ静かに座っている。でも、その視線はわずかに揺れていた。
宗冬が立ち上がる。
「世話になった。其方は少し休むといい。行く」
俺も腰を上げた。
「どこだ」
「近衛を当たる」
それだけ言って、障子へ向かう。重俊が苦い顔で立ち上がる。
「まともな話になるとは思えぬが」
「構わぬ」
宗冬は足を止めない。俺は立ち上がりかけた膝をわずかに止めた。
「世話になったな」
太夫はいつもの笑みを浮かべる。
「またのお越しを」
最後の一音だけが、わずかに掠れた。
部屋を出る。廊下に戻る。笑い声はある。音もある。
なのに、どこか同じ調子で切れる。
俺は振り返った。障子の向こう、太夫の影がじっと動かない。
そのままの姿勢で、こちらを見ている気がした。
「……まだいる」
光太郎の誰にともなく落ちた言葉が、やけに胸に残った。




