第二話 追えぬ影
二条城の門をくぐった途端、肩の力が抜けた。
背中に張りついていた重いものが、ようやく剥がれた気がする。息を吸うと、湿った空気が肺に入った。城の中より、わずかに生臭いような、人の匂いが混じっている。
通りへ出る。人の流れは相変わらずだ。肩がぶつかっても、誰も振り返らない。袖が触れても、文句一つ出ない。ただ、すっと流れる。
俺は頭を掻いた。
「なあ」
重俊が横目だけ寄越す。
「どうした」
「ついて来てるよな。あいつ」
重俊は周囲を一巡り見て、すぐに前を向いた。
「気のせいではないか」
「道中、何度も言っただろ」
声が少し強くなる。宗冬は前を向いたまま、歩く速度を変えない。光太郎が足を止めた。
「いる」
短い。だが迷いがない。俺は眉を寄せる。
「やっぱりか。なんで今まで黙ってた」
「逃げる」
それだけ言って、また歩き出す。舌打ちを喉で止めた。
「じゃあ今は逃げねえのか」
「近い」
光太郎の視線が、通りの向こうへ向く。俺も目を凝らした。
人の間に、笠を深くかぶった女が紛れている。鳥追いのなり。派手さはない。だが、妙に目に残る。さっきまで感じていた気配が、そこに形を取った。
「いるな」
言い終わる前に、光太郎が動いた。
人の流れを縫うように進む。荷を担いだ男が足を止めかけ、すぐに歩き直す。女連れが視線だけよこす。光太郎はそれらの間をすり抜け、一気に距離を詰める。
女が気づいて半歩引く。だが遅い。光太郎が腕を掴む。笠がずれる。女は顔をしかめ、次の瞬間、大きく息を吐いた。
「……あらま」
力が抜ける。逃げる気配はない。俺は正面に回った。
「江戸からだろ」
笠の影で、目だけが動く。
「さてね」
軽い感じで返す。だが逃げてもいない。重俊が声を落とす。
「ここでは目立つ。場所を移すべきだ」
周囲の視線が少し集まり始めている。宗冬が女を一瞥する。短く、だが測るような目だ。
「歩けるか」
「離してくれりゃね」
光太郎は手を離す。だが位置を変え、逃げ道を塞ぐ形のまま。
「逃げるな」
「走るほど暇じゃないさ」
言い方が軽い。
「飯だな。話はそのあとだ」
女は目を細める。
「勝手だね」
「ついて来たのはそっちだろ」
女は小さく肩をすくめる。
「違いない」
歩き出す。宗冬が先、俺と女、少し遅れて光太郎と重俊。
軒の開いた茶店に入る。湯の匂いと薄い出汁の香りが鼻を突く。
中はそれなりに混んでいる。客もいる。だが、やはりここでも違和感を覚える。笑い声が上がっても長く続かない。注文もやり取りも、全部同じ調子で流れる。
腰を下ろす。女は傘を外し、向かいに座る。女の歳はよくわからないが、せいぜい二十代半ばだろう。美人なのだろうとは思う。重俊が眩しそうに何度か瞬いた。
湯呑が置かれる。女は手を伸ばし、一口飲んだ。
「あら、悪くないね」
「何者だ」
「何に見える」
「鳥追い」
「なら、それでいいさね」
重俊が眉をひそめる。
「答えになっておらぬ」
「そう思うなら、それでいいさ」
笑っているが、目は笑っていない。
光太郎は動かない。視線だけが女にかかっている。
「なんで尾けた」
「さあね」
同じ調子だが、声が少し沈む。女の表情が僅か曇る。少しだけ頭を傾けた。
「京は静かさ」
「こっち来てから、ずっとだな」
「違う。前は、もっとやかましかったさ」
指先で湯呑を回す。視線は外に向いたまま。
「昔の京はね、欲が出てたさ」
「欲、でござるか」
「そうさ。金も、色も、意地も」
女は湯呑を置く。音は小さい。
「店先で値切りが揉める。袖が触れりゃ文句が出る。公家の供が道を払えば、陰で舌打ちもする」
視線が卓に落ちる。
「夜は夜で、昼に出せないもんが動く。喧嘩も盗みも、隠れちゃいるが消えはしない」
通りを見る。人の流れはさっきと変わらない。
「今は、出る前に消える。どこかで撫でられてるみたいにさ」
光太郎が短く言う。
「抑え」
「近いね。でも、触ってる手は見えないのさ」
重俊が腕を組み直す。
「人の仕業ではないという事か?」
「人だけじゃない、ってとこかな」
曖昧だ。だが、逃げてもいない。俺は顔をしかめた。
「お前、前から京にいたのか」
「通ったことがあるのさ」
それ以上は言わない。茶が冷めていく。
「で、何がしたいんだ」
「見てるだけさ」
「何を」
「あんたらを」
即答だ。軽いが、逃げていない。
重俊が低く言う。
「尾ける理由にはならぬ」
「なるさ。死に急ぐ連中に、興味がわいたんさ」
言い切る。場が一瞬止まる。
俺は鼻を鳴らした。
「残念だったな。まだ生きてる」
「そうみたいだね」
女はわずかに口の端を上げる。
「だから、もう少し見る」
宗冬が初めて口を開いた。
「名は」
「ないのさ」
「必要だ」
「今は困るのさ。呼ばれれば、縛られるからさ。それが、名ってもんさ」
光太郎が言う。
「嘘ではない」
「助かるよ。あんたいい男さね」
女は軽く返す。俺は机を指で叩き、口を開いた。
「どこ見てる」
「表はもう見たろ」
顎で外を示す。
「でも、本音が残る場所を探すなら、ここじゃない。二条城でもないさ」
重俊が団子を頬張りながら、聞く。
「どこだ」
「島原さね」
短い。だがはっきりしている。俺は顔を上げた。
「遊郭か」
「そう」
女は頷く。
「金が動く。欲も動く。嘘も本音も混ざる。人が丸裸になる場所さ」
宗冬が立ち上がった。迷いがない。
「行く」
それだけだ。重俊が渋る。
「まともに入れる場ではござらぬ」
「まともである必要はない」
宗冬は振り返らず歩き出す。俺は女を見る。
「お前は」
「来るなと言われりゃ、考える」
光太郎が言う。
「来る」
「そういう顔だろ」
女は苦笑する。勘定を済ませ、外へ出る。人の流れは、茶屋に入る前と変わらず多い。賑わっている。それなのに、背中を虫が這うような感じになる、
俺は振り返った。
女は少し後ろを歩いている。並ばない。だが離れもしない。
光太郎の視線が、女から離れない。宗冬の歩みは、さっきより速い。
人の中に、何かが混ざっている。
それだけは、はっきりした。




