第一話 消えぬ距離
京へ入った途端、視界が開けた。
道が広い。人の流れが途切れない。荷を引く者が声を張り、商いの呼び込みが重なり、笑い声が混じる。都らしい賑わいだ。江戸とも駿府とも違う。
思わず足が緩んだ。
通りの端では、町人が桶を並べて水を汲み、女が布を叩いている。声はあるが、どれも抑え気味で、笑いも長くは続かない。
商人は客に頭を下げるが、目だけは周囲を測るように動く。子どもが駆け抜けても、叱る声は上がらず、ただ手が伸びて引き戻される。
その流れの奥、道の中央をゆるく空けて、公家の一行が通る。牛に引かせた乗り物――牛車がのんびりと通る。
衣の重なりと強い香の匂いでそれと知れる。供の者が静かに道を払うと、人の流れは自然に割れ、またすぐに閉じる。誰も顔を上げない。視線だけが低く伏せられ、通り過ぎるまで乱れない。
華やかさはある。だが、どこか音が薄い。触れれば崩れそうな均し方で、町が保たれている。
「いいな、ここ」
隣で重俊が小さく息を吐く。袖口を整えながら、足は止めない。
「遊びに来たのではない」
「わかってるって」
そう言いながらも、視線は勝手に流れる。布の色や飾りの細工、金具の光。目に入るものが多く、どれも細かい。見ているだけで飽きない。
ふと足が止まる。小間物屋だ。簪や櫛、細工物が棚に詰め込まれている。俺は手を伸ばし、折り鶴模様の平打ち簪を指でなぞった。軽い。指先に収まる。
「これ、差配に似合いそうじゃねえ?」
重俊は一度だけ品を見て、すぐ視線を外した。
「やめておけ。似合うかどうかで買うものではない」
「じゃあ何で買うんだよ」
「必要かどうかだ」
肩をすくめる。
「堅ぇな。いいじゃないか、差配には世話になってるし。俺の金だし。お米にも何か買っていくか」
光太郎は店先に立ったまま、品ではなく人の動きを見ている。
「不要」
「お前は全部それだな」
宗冬は足を止めず、振り返りもせずに言った。
「買うのか」
「迷ってる。迷うのも楽しいんだよ」
「なら買うな」
短く言い切り、そのまま進む。舌打ちは飲み込んだ。
「冷てぇな」
簪を棚へ戻す。
店の中を一巡り見た。客はいる。品も動いている。だが、何か引っかかる。
客同士が肩をかすめた。どちらも振り返らない。謝りもしない。歩みだけが途切れない。
別の客が金を出す。店主は受け取り、品を渡す。笑みは浮かぶが、声が薄い。同じ調子が続く。
俺は腕を組んだ。
「……静かじゃねえか」
重俊が周囲を見回す。人の流れを追う目だ。
「人は多い」
「だろ? なのに、ぶつかっても何も出ねえ」
入口の脇で二人がすれ違う。袖が触れたが、どちらも止まらない。流れの中に戻るだけだ。
俺は鼻の奥がむずつくのを感じた。
「気持ち悪ぃな」
光太郎が一歩だけ前へ出た。視線は人の足運びに落ちている。
「揃う」
「またそれか」
頭を掻く。
「で、何が悪いんだよ」
光太郎は答えない。目は人ではなく、動きの間を追っている。
重俊が低く言う。
「揉めぬな」
「それはいいことじゃねえのか?」
「良いなら、どこかで引っかかる」
外へ出て通りを見る。こちらも同じだ。ぶつかる。だが止まらない。人の流れが途切れない。
足並みの乱れが、すぐに消える。
「……芝居みてぇだな」
口に出ていた。
宗冬がわずかに笑う。
「都がこれほど素直なはずがない」
「素直?」
「人は勝手に動く。勝手に揉める」
宗冬は視線を流れに置いたまま続ける。
「それを均すのは、人の手ではない」
軽く言うが、重い。
店をもう一度見た。同じ動き。同じ間。どこを切り取っても変わらない。
「……やっぱり気持ち悪ぃ」
光太郎が短く言う。
「中」
「どこだよ」
返事はない。ただ視線が通りの奥へ向く。
人の流れに紛れている。そんな気がした。
息を吐く。
「行くか」
重俊が頷く。
「所司代だな」
「先にそっちかよ」
「順が大事だろう」
宗冬はすでに歩き出している。
俺は一度だけ振り返った。客がいる。品が動く。何もおかしくない。だが、どこか噛み合わない。
「……あとでまた来る」
誰にともなく言う。返事はない。
光太郎がぽつりと言った。
「崩れぬ」
その一言だけが、妙に残った。
二条城の門をくぐると、音が小さくなる。
町のざわめきが背へ流れ、足音だけが残る。広い庭が、妙に詰まって見える。門番は視線だけ寄越し、止めない。宗冬はそのまま進む。
中は広い。城に入るのは初めてだが、それでも分かる広さだ。
いくつもの角を曲がり、書院へ通される。待たされない。
やがて所司代、板倉宗重が現れた。四十過ぎ。姿勢に無駄がない。視線は強いが、どこか落ち着かない。
宗冬に深く頭を下げ、続けて俺たちにも礼をした。
「お待ちしておりました」
眉をひそめる。
「待ってた?」
「話は通っておるのか」
宗冬の問いに、板倉は頷く。
「通っております。柳生家より書状が届いております」
言い切るが、張り詰めている。
宗冬が静かに言う。
「妙だと聞く」
板倉の視線がわずかに揺れた。
「……妙です」
短い。だが重い。俺は腕を組む。
「何がだよ」
板倉はためらわない。
「争いが減っております」
「いいことじゃねえのか」
即座に言うと、板倉は首を振った。
「減り方が異様です。京は中心部一帯の治安は良いが、外れへ出れば野盗も出る。それが無くなっている」
さっきの光景が重なる。
「気持ち悪ぃな」
「人の営みではござらぬな」
板倉が続ける。
「不満も欲もあるはずだし、消えるものではない。それが表に出ぬ」
「減ってる? 何があった?」
問いかけるが、板倉は答えない。宗冬を見る。
宗冬はわずかに口の端を上げた。
「減ったのではない。抑えられている」
板倉が小さく息を吐く。目が細まる。
「……やはり」
そこで初めて、肩の力が抜けた。
顔をしかめる。
「分かってたのかよ」
「感触はあった。だが正体が掴めぬ」
正直だ。光太郎が言う。
「中」
板倉が一瞬だけ光太郎を見る。
「……それは」
「人の外の理が入っている」
宗冬の言葉に、板倉は否定しない。
それで十分だった。
「面倒くせえな」
「まったくですな」
板倉が小さく笑う。だが重い。
「こちらは手が出せぬ」
「であろうな」
「任せてよろしいか」
低い声だ。宗冬は振り返らない。
「見るだけだ」
それで話は終わる。
外へ出る。門を抜ける。音が戻る。人の流れが戻る。
だが、同じには見えない。どこか混ざっている。
光太郎が、いると言った。
それで十分だった。




