第五話 浜松の騒動
浜松の宿場は、人の音が途切れない。
道の真ん中を荷が通り、脇を旅人がすり抜ける。声が重なり、呼び込みと値切りがぶつかる。江戸や駿府の重さとは違う騒がしさだ。
俺は肩を回した。
「やっと飯だな」
宗冬は答えない。歩幅も変えず、繁盛してそうな茶屋へ入る。重俊が横で低く言う。
「勝手に決めるな」
「決めてねえよ。流れだろ」
俺は適当な席に腰を落とした。光太郎は座らず、卓の上を見ている。
「多い」
「まだ来てねえだろ」
「来る」
「食う気満々かよ」
重俊がため息をついた。
「お前が呼び込んだのだろうが」
「知らん」
言った瞬間、店の女が来る。
「お待たせしました」
「早ぇな」
盆が置かれる。飯、汁、漬物。湯気が立つ。光太郎がじっと見ている。
「全部か」
「お前のじゃねえ」
「減る」
「減るな」
重俊が即座に返す。
「勝手に手を出すな。順がある」
「順?」
「まず礼だ」
光太郎が一瞬だけ考える。
「礼」
小さく頭を下げる。俺は吹き出した。
「今それやるのかよ」
「やらぬよりは良い」
重俊は真顔だ。宗冬だけが、何も言わずに席につく。視線は店の中ではなく、外に向いている。
俺は箸を取った。
「食うぞ」
一口、口に入れる。普通だ。熱い、塩気、出汁。変なところはない。
「普通だな」
「それが一番だ」
光太郎が言う。
「違う」
俺は顔をしかめた。
「またそれかよ」
「揃う」
「何がだ」
光太郎は答えない。ただ、店の出入り口を見る。人は多い。入る、出る、座る、立つ。何もおかしくない。
だが、言われてみると、妙に整っている気がする。
重俊が小さく言う。
「確かに、少し多いな」
「宿場だぞ?」
「そうだが……」
言い切らない。宗冬がようやく口を開く。
「流れが途切れぬ」
短い。だが、それで十分だった。俺は箸を止める。
「だから何だよ」
「詰まらぬ」
「は?」
「本来、滞りが出る」
宗冬は外を見たまま言う。
「ぶつかり、止まり、流れが乱れる。それがない」
俺は外を見た。確かに、ぶつかってはいる。だが、揉めない。止まらない。すぐ流れる。
「……気持ち悪ぃな」
光太郎が言う。
「合う」
「何がだよ」
「合いすぎる」
意味が分からない。だが、嫌な感じはある。重俊が低く言う。
「仕掛けるには、良い場所だ」
「おい」
俺は顔をしかめた。
「飯食ってる最中にやめろ」
「事実だ」
宗冬が続ける。
「人が多い。視線が散る。混ざる」
それだけで、話が繋がる。俺は舌打ちを飲み込む。
「つまり?」
「見られても分からぬ」
宗冬の声は変わらない。重俊が頷く。
「隠れる必要がない、ということですな」
「いる」
俺は周囲を見る。誰もこっちを見ていない。見ていないように見える。
「……どこだよ」
「中」
「どこが中だ」
光太郎は答えない。ただ、ずっと同じ方向を見ている。俺は箸を置いた。食えなくなるほどじゃない。だが、さっきまでの普通が消えた。
宗冬が眉をひそめる。
「落ち着け」
「まだ何も起きておらぬ」
「起きてからじゃ遅ぇだろ」
「だから見ておる。こちらの動きまで含めてな」
宗冬が言う。その一言で、場が締まる。俺は息を吐いた。
「面倒くせえな」
「そうでなければ、来ぬ」
宗冬は外から視線を外さない。そのまま、盆の上の茶碗に手を伸ばした。
宗冬の手が、湯呑み茶碗に伸びる。 その動きは自然だった。だが、ほんのわずかに早い。俺も同時に手を伸ばしかけていた。
「それは余の茶である」
宗冬が先に取る。
次の瞬間だった。湯呑みを持った宗冬の手に、影がぶつかる。軽い衝撃。湯呑みが宗冬の手から弾かれ、床に落ちる。乾いた音がして、割れた。茶が広がる。
「あ〜ら、失礼」
色気のある女の声だ。三味線を抱えた女。編笠を深くかぶっている。顔ははっきり見えない。鳥追いだ。
宗冬はただ、割れた茶碗を見ている。俺は眉をひそめた。
「おい」
女は気にした様子もなく、少しだけ首を傾げた。
「お侍様。いい男」
「おい」
もう一度言う。女は笑ったように見えた。
「いい男が減るのは、つまらないでしょう?」
その言い方は軽い。光太郎が言う。
「違う」
女はそれ以上何も言わない。すっと離れ、人の流れに混ざる。一歩、二歩。それだけで、見えなくなる。
「……なんだ今の」
俺は舌打ちを飲み込んだ。重俊が低く言う。
「偶然ではないな」
「来た」
宗冬がようやく顔を上げる。
「……確定だ。もう隠す気はない」
俺は割れた茶碗を見る。茶は床に染みている。
「毒か?」
宗冬は答えない。代わりに、破片の一つに視線を落とす。重俊が続ける。
「入っておった可能性は高い」
「可能性じゃねえだろ」
俺は吐き捨てた。光太郎が床を見る。
「濃い」
「飲んでねえぞ」
「残る」
意味は分からない。だが、嫌な感じだけははっきりしている。宗冬が静かに言う。
「触るな」
その一言で、場が止まる。俺は思わず手を引いた。
「分かってるよ」
「手を出すな」
光太郎は茶の跡を見たまま言う。
「強い」
宗冬が立ち上がる。周囲は変わらない。人は動く。声も続く。だが、さっきまでと同じには見えない。
「混ざっておるな」
重俊が低く言う。
「完全に」
宗冬は店の外へ視線を向ける。
「隠れておらぬ」
「堂々としてやがるな」
「ここでは、隠れる必要がない」
宗冬はそれだけ言う。それで十分だ。人の中にいれば、隠れる必要はない。俺は息を吐いた。
「面倒くせえな」
「そうでなければ、ここを選ばぬ」
宗冬は外へ向かって歩き出す。重俊がすぐに続く。
「出ますか」
「長居は無用だ」
光太郎が言う。
「残る」
俺は一度だけ振り返った。割れた茶碗。染みた茶。誰も気にしていない。まるで最初からなかったみたいに。
俺は舌打ちをまた飲み込む。
「……やる気満々じゃねえか」
外へ出る。空気は同じだ。だが、さっきより軽くない。人の流れは続いている。その中に、敵が確実に混ざっている。見えないまま、近くにいる。
光太郎が無表情になる。
「いる」
「否応なくな」
宗冬が前を見たまま、口を開く。
「それで良い」
短い。だが、それで十分だった。
「上等だ」
もう休みじゃない。最初から、そうだったのかもしれない。




