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第四話 駿府の影(後編)

 石段を上がるたび、足音が硬く響く。

 町のざわめきは、もう聞こえない。代わりに残るのは、乾いた土の匂いと、妙に音を吸い込む静けさだけだ。


 菩提樹院は、何も変わっていなかった。ただ、手が入っていない。掃かれていない落葉が端に溜まり、庭石の間に草が伸びている。戸は閉じているのに、閉めた人の気配が薄い。


 俺は石段の上で足を止めた。


「……静かすぎるな」


 重俊が周囲を見回しながら言う。


「人が寄っておらぬ」


 宗冬は境内を見渡していた。


「寄れぬのだ」


 断定だった。俺は顔をしかめる。


「寺だろ。普通は寄るもんじゃねえの」


 宗冬は表情を変えないまま答えた。


「普通ならな」


 ここは静かなのではない。静かにされている。俺は鼻を鳴らした。


「感じ悪ぃな」

「駿府そのものが、まだ引きずっておる」


 光太郎が庭の奥を見た。


「消えぬ」


 宗冬が歩き出す。俺たちも続く。境内の土は乾いている。だが、踏み固められていない。人が来ていないというより、来ても長く居られない。

 俺は視線を落とした。


「足跡、残ってねえな」

「意図的に避けられておる」


 宗冬が一歩進む。


「避けられているのではない。寄れぬのだ」


 同じ言葉だが、意味が違う。俺は眉をひそめた。


「何が違うんだよ」

「理屈ではなく、本能で退いている」


 宗冬のそれは説明じゃない。断言だった。俺は舌打ちを飲み込む。


「面倒くせえな」


 光太郎が言う。


「理解できぬ」

「お前はそうだろうな」


 重俊が返す。


「人は理由を求める。だが、理由が分からぬものもある」


 光太郎は少しだけ考えてから言った。


「奇妙だ」


 その一言が、妙に合っていた。宗冬が本堂の前で足を止める。戸は閉じている。


 鍵があるようには見えない。だが、開けていいものにも見えなかった。宗冬は戸ではなく、地面を見た。


「新しい足跡はない」


 重俊が視線を落とす。


「確かに」


 俺も見る。乾いた土の上に、古い踏み跡はある。だが、ここ数日のものはない。


「誰も来てねえ」


 宗冬が否定する。


「来ている」

「は?」


 宗冬は地面から視線を外さない。


「来て、すぐ退いている」

「長く留まれぬと」

「近い」


 その一言で、空気が変わる。俺は周囲を見る。木、石、草。隠れる場所はいくらでもある。だが、気配は見えない。


「またかよ」

「違う」


 光太郎が首を振る。


「残る、ではない」


 一瞬、間を置く。


「今だ」


 背中がぞくりとした。宗冬は振り返らない。だが、声が一段低くなる。


「出ぬな」


 それは、こちらではなく、見えない何かに向けた言葉だった。重俊が刀に手を置く。


「ここで仕掛けぬつもりか」


 宗冬が答える。


「ここでは、だ」


 短いが、意味は重い。俺は頭を掻いた。


「場所ってやつか」


 宗冬がわずかに頷く。


「向こうにも都合がある」


 それで全部繋がる。ここはただの寺じゃない。向こうにとっても、意味のある場所だ。

 だから、壊さない。

 だから、出てこない。


 俺は小さく息を吐いた。


「……性格悪ぃな」


 宗冬は否定しない。


「そうでなければ、ここまで来ぬ」


 境内の奥で、風もないのに枝が揺れた。俺は反射でそちらを見る。何もいない。だが、何もいないままでは終わらない気配だけが残る。

 光太郎がぽつりと言う。


「見る」

「こちらも見られておるな」

「嫌な場所だ」


 宗冬が前を向き直る。


「だから来た」


 それは感情ではない。判断だった。俺は舌打ちを飲み込む。逃げる気はない。だが、好きにもなれない。それで十分だった。


 宗冬が一歩、戸から離れた。それだけで、場の向きが変わる。俺は自然と足をずらした。重俊も同じ動きをする。光太郎だけが、動かずに奥を見ている。


「出ねぇのか」


 俺は低く言った。返事はない。だが、無視された感じはしなかった。

 宗冬が静かに言う。


「出ぬ。出る必要がない」

「試しておるのですな」

「見ておる」


 宗冬は短く返した。


「こちらの数、動き、間合い。すでに拾われている」

「姿も見せずにかよ」


 俺は舌打ちを飲み込む。


「見える」

「どこがだよ」

「動き」


 意味が分からない。だが、こいつが言うと外れない。


「気持ち悪ぃな」

「それでいい」


 宗冬がわずかにだけ視線を上げる。俺は顔をしかめた。


「何がだよ」

「気づいているということだ」


 余計な説明はない。だが、逃げ道もない。俺は息を吐いた。


「……で、どうする」


 宗冬は迷わない。


「何もせぬ」

「は?」


 思わず声が出た。重俊がすぐに言う。


「正しい判断かと」

「どこがだよ」


 重俊は視線を動かさずに言う。


「ここで動けば、向こうの土俵に乗る」

「待つ」


 光太郎が顎に手を当て、言う。


「待ってどうすんだよ」

「崩れる」


 だが、妙に腑に落ちる。宗冬が続ける。


「ここは場所だ。壊すことも、荒らすことも、意味を持つ」


 重俊が低く頷く。


「ゆえに、向こうも手を出さぬ」

「だから、こっちも動かねえ?」

「そうだ」


 宗冬が一言で返した。それで決まる。俺は頭を掻いた。


「面倒くせぇな」


 宗冬は否定しない。


「戦とはそういうものだ」


 軽くは言わない。事実として置く。

 その時、境内の奥で、また枝が揺れた。今度は、はっきり分かった。何もいない。だが、いる。


「近い」


 重俊が刀から手を離さない。


「間合いの内でございますな」

「だが、踏み込まぬ」


 俺は舌打ちした。


「なら、どうすんだよ」


 宗冬は目を閉じる。


「終わりだ」


 その一言で、空気が切れた。俺は顔をしかめる。


「は?」

「見るべきものは見た」


 宗冬は歩き出す。


「これ以上は意味がない」


 重俊と光太郎がすぐに続く。


「承知」

「足りる」


 俺だけが一瞬、遅れた。振り返る。庭、本堂、閉じた戸。何も変わらない。だが、何も変わらないままでは終わらない気配だけが残っている。俺は歯を食いしばった。


「……関係ねぇよ。なのに、離れねぇんだよ」


 さっきと同じ言葉だ。今度は、少しだけ違う。背を向ける。一歩、踏み出す。

 その時だった。

 背に、軽く触れるものがあった。すぐに離れる。重俊の手だ。何も言わない。それだけで十分だった。

 俺は息を吐いた。


「……行くぞ」


 今度は、止まらない。石段へ向かう。

 背後に、気配は残っている。だが、振り返らない。


 宗冬が前で言う。


「ここから先は、抜けば死ぬ」


 短い。だが、逃げ道はない。俺は肩を回した。


「抜いてねえよ」


 石段を降りる。一段、二段。

 音が戻る。風が戻る。

 だが、背の奥に残るものは消えない。

 光太郎が最後に言う。


「続く」


 宗冬が返す。


「当然だ」


 それで終わる。終わっていないまま、終わる。

 俺は前を向いたまま、歩いた。

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