第三話 駿府の影(前編)
駿府の町に入った瞬間、空気が変わった。
人はいる。店も開いている。荷を担ぐ男も、井戸端に立つ女もいる。
だが、声が続かない。笑いかけた顔が途中で止まり、話し声が途切れる。戸は半分閉じられ、こちらを見る目だけが残る。まるで町全体が息を潜め、傷を舐めているようだった。
俺は顔をしかめた。
「感じ悪ぃな」
「乱の余波だ」
光太郎が短く言う。
「重い」
確かにそうだった。賑やかさの形だけが残って、中身が抜け落ちている。
「別に俺ら、何もしてねえぞ」
重俊が淡々と返した。
「そう見えぬのだ」
「どう見えてんだよ」
「武士の一団だ」
それで終わる話らしい。宗冬が前を歩いたまま、静かに言った。
「疑うことが、生きる術になっている。信じた者から死ぬ」
振り返らない。軽い調子では言えない言葉だった。
俺は鼻を鳴らした。
「面倒な町だな」
重俊がわずかに息を吐いた。
「町が悪いのではない」
「残る」
「便利な言葉だな、それ」
俺が言うと、光太郎は首を傾げた。
「便利だ」
「褒めてねえよ」
重俊が小さく笑いを噛み殺した。
その時、宗冬が足を止めた。
視線の先、木々の間に寺の屋根が見える。
「沓谷だ」
一歩進む。短いが、それで決定だった。俺は顔をしかめた。
「行くぞ」
「どこにだよ」
「菩提樹院」
宗冬は歩き出しながら答えた。
その名を聞いた瞬間、足が止まった。重俊が振り返る。
「どうした」
俺はすぐに答えなかった。喉の奥に、引っかかるものがある。
「……そこ、行くのか」
「何かあるのか」
「知ってる奴が、あいつにやられた」
俺は視線を逸らした。空気が、わずかに沈む。
重俊が低く言った。
「……平井藤十郎か」
「名前出すなよ」
否定はしない。それで十分だった。
光太郎が首を傾げた。
「壊れた」
「ああ。夢、見せられてな」
それ以上は言わない。言っても戻らない。
宗冬が静かに言った。
「ならば尚更だ」
俺は顔を上げた。宗冬は前を見たまま続けた。
「場所ではない。残っているのはやり口だ。壊したものの根は、見ておくべきだ」
余計な言葉はない。それだけで、理由として足りていた。
俺は小さく息を吐いた。
「……嫌なとこ連れてくな」
宗冬がわずかに笑った。冷たく、しかし、どこか寂しげな笑みだった。
「楽しい旅ではない」
「今さらだな」
「章吉、行くぞ」
俺は頭を掻いた。
「分かってるよ」
歩き出す。
町の視線はまだ重い。
だが、さっきより気にならない。気にしているのは、別の方だ。
寺へ続く道に入る。人が減る。音が減る。
代わりに、何かが残る。
平井の最後の言葉が、頭の中で繰り返される。
「先生は正しい人なんだ」
「集めたよ、先生」
「応えてほしかった」
あの帳面を抱きしめていた指。血の海の中で、まだ数字を数えようとしていた手。
胸の奥がざわつく。
あいつは、ただの欲深い男じゃなかった。夢を見せられて、夢にしがみついて、夢に潰された。由井正雪が与えた正しさが、どれだけ重かったのか。
俺は正雪を憎んでいた。同時に、平井のことを思うと、胸が苦くなる。
あいつは、最後まで「先生」を信じていた。そして、最後に裏切られた。俺は、あいつの死を止めることも、救うこともできなかった。ただ、見ていただけだ。
光太郎が足を止めた。
「いる」
俺は振り返る。
「町人だらけだろ」
「違う」
光太郎は前を見ている。俺も見た。
石段の手前。人影はある。だが、どれも普通に見える。
重俊が低く言った。
「またか」
宗冬が一言で終わらせず、静かに続けた。
「ついて来ている。だが、まだ出ぬ」
「駿府まで来ても、それかよ」
宗冬は歩みを止めない。
「来るべき場所だ」
「誰にとってだ」
俺が聞くと、宗冬は少しだけ視線を上げた。
「我らにも、向こうにもだ」
その答えは、嫌なくらい筋が通っていた。
光太郎が言った。
「近い」
町の中で、その言葉は重かった。もう、来る。そんな気がした。
石段の手前で、風が止まった。音が抜ける。
「……来るな」
「来る」
光太郎が重ねる。
――いるではない、来るか。
石段の左右、木立の陰。音もなく、山伏が現れた。数は多くない。だが、散っていない。
俺は刀の柄を叩いた。
「またかよ」
重俊が刀に手をかけた。
「今度は出たな」
光太郎が小さく息を吐いた。
「来た」
宗冬が一歩前に出た。
振り返らないまま、言う。
「退くな。ここで退けば、追われるだけだ。受けて崩す」
重俊が低く頷いた。
「承知」
「分かってるよ」
最初の一人が踏み込んでくる。
速い。だが、遠い。俺は一歩寄る。
「遅ぇ」
半身をずらした。相手の刃の軌道がずれる。そのまま肩に体を当てる。
相手の体勢が崩れる。刀の峰で軽く叩く。それで終わりだ。
横から来る。重俊が動く。引かない。半歩だけ前に出る。
そのまま、相手の来る位置に刀を置く。
「そこだ」
短い。無駄がない。斬ったのではない。相手が刀に飛びこんできた。
背後に気配。振り返る前に、止まる。
宗冬がいた。一歩だけ、前に出ている。それだけだ。
刃は見えない。音もない。
だが、山伏の動きが止まる。
呼吸がずれる。背から崩れる。
「遅い」
その一言で、流れが決まる。
光太郎が横にずれる。
「蝿が止まる」
相手の首を掴み持ちあげる。地面に叩きつける。
残りが一瞬、迷う。揃っていた動きが、崩れる。次の瞬間、引いた。同時に、消える。
「逃げたぞ」
重俊が周囲を見渡した。
「深追いは無用」
光太郎が言った。
「消える」
宗冬が歩き出す。
何事もなかったように。
「逃がしたのではない」
「じゃあ何だよ」
宗冬は前を見たまま答えた。
「試したのだ。数、動き、反応。見たいものだけ見て、退いた」
「やっぱ性格悪ぃな」
重俊が言った。
「敵としては、な」
同じ言葉だ。だが、意味は違う。石段の上に寺が見える。
菩提樹院。空気がさらに重くなる。
光太郎が足を止めた。
「まだいる」
「懲りねえな」
宗冬が片方の口角をあげた。
「当然だ。ここから先が本命だ。今のは入口に過ぎぬ」
そのまま石段を見上げる。
「ここから先は、抜けば死ぬ」
「抜いてねえよ」
足を踏み出す。嫌な場所だ。
だが、目を逸らす気はなかった。
――あいつが、やられた先か。
俺は一段、上がった。
胸の奥で、平井の最後の声がまだ響いている。
「応えてほしかった」
由井正雪という男が、どれだけの人を夢で殺したのか。
俺はそれを、ただ見ていただけだ。
その事実が、今も俺の足を重くしている。




