第二話 関所越え
箱根の山を抜けると、人の声が急に戻ってきた。
さっきまでの静けさが嘘のように、ざわつきが一気に広がる。道の先に長い列ができていた。荷を下ろして待つ者、役人に何か言われて顔をしかめる者。関所だ。
俺は列の先を見て、思わず声を上げた。
「うわ、並んでるじゃねえか」
重俊が前を見たまま、低く応じた。
「当然だ。箱根の関所だぞ」
光太郎が短く落とした。
「止まる」
「止まるのはいいけどよ……」
俺は列の長さを目で測りながら、軽く肩を回した。
「全部見るのか? 全部ってどこまでだよ。褌の中もか?」
「黙れ」
重俊の声が低くなり、目が座った。本気で怒っている。
光太郎はまったく頓着せず、淡々と続けた。
「見る」
「やめろ」
俺は半ば本気で光太郎の口を塞ごうとした。
重俊が盛大にため息をついた。
「褌の中以外全てだ。通行手形、荷物、身分……」
「面倒だな」
光太郎が眉を寄せた。
「面倒」
「お前まで言うなよ!」
俺は頭を抱えた。
列に並ぶ。前の旅人が荷を広げ、布をめくり、袋を解いている。役人が一つ一つ確かめていく。時間がかかる。
俺はぼやいた。
「これ、いつまで並ぶんだ?」
重俊が淡々と答えた。
「通るまでだ」
「それが面倒って言ってんだよ」
前が進む。次は俺たちだった。
役人が顔を上げた。
「次」
重俊が一歩前に出た。
「通行手形はこちらに」
差し出す。
役人は受け取り、目を通した。表情は変わらない。だが、視線が一度、こちらを順番に見た。
「荷を」
言われて、俺は背負いを下ろしかけた。
その時、宗冬が静かに一歩前に出た。
ため息を一つ。ほんの小さな音だった。
「……余は柳生飛騨守宗冬が弟、柳生宗春である。この三人は我が門弟である」
それだけだった。
役人の顔色が、一瞬で変わった。背筋が伸び、顔が青ざめる。
「はっ……失礼いたしました!」
慌てて深く頭を下げた。周囲の空気までが、ぴたりと変わった。
俺は小声で重俊に言った。
「ずるくね?」
「身分だ」
重俊が苦笑しながら答えた。
光太郎が無表情で一言。
「便利」
「お前、正直だな」
俺は思わず笑いかけたが、すぐに顔を引き締めた。
宗冬は厳しい視線のまま、役人に対峙した。
「形だけでよい。だが、怠るな」
静かな声だったが、逃げ場を一切与えない。役人はさらに頭を下げ、声が震えた。
「は、はっ!」
そのまま通そうとする。宗冬がわずかに視線を落とした。
「見る気はあるのか」
役人の手が止まった。
「い、いえ……!」
慌てて荷の方を見る。だが、さっきまでとは明らかに違う。動きが雑だ。布を軽くめくるだけで、奥までは見ない。
俺は眉をひそめた。
「おい」
小声で重俊に言う。
「今の、ちゃんと見てねえぞ」
「見ておらぬな」
「合わぬ」
光太郎が短く落とした。
そのまま通される。
関所を抜ける直前、俺は役人に声をかけた。
「なあ」
役人がびくりと肩を震わせた。
「は、はい」
「ここ、全部見るんだよな?」
「……は、はい」
「鉄砲とかも?」
一瞬、役人の動きが止まった。
「む、無論、止めます」
言い切るには、少し遅すぎた。
俺は宗冬を見た。
宗冬はそのやり取りを、ただ静かに見ていた。ゆっくりと口を開く。
「止めるはずだ。それが関所だ」
役人の顔が固まった。
「は……?」
何も言えない。宗冬はそれ以上何も言わず、前に進んだ。それで終わりだった。
俺たちは関所を抜けた。
背後で、また別の旅人が呼ばれている声がする。
さっきと同じはずの光景だ。
なのに――どこか、噛み合っていない。
俺は小さく息を吐いた。
「なんか変だな」
「関所としては、な」
重俊が低く応じた。
光太郎が頭を横に少しだけ振った。
「揺れる」
「通していいのか、これ」
宗冬が歩きながら、静かに答えた。
「通しているのではない。通らせている」
◇
関所を抜けると、空気が変わった。
人の声が遠ざかり、足音だけが残る。山道は再び狭くなり、木立が視界を切り取る。
俺は一度だけ振り返った。関所はもう見えない。
なのに、さっきの違和感だけが、ずっとついてきている。
俺は苦笑を浮かべながら、重俊に話しかける。
「なあ」
「なんだ」
「今の、あれでいいのか?」
重俊は即答しなかった。
「良いとは言えぬ」
光太郎が小さく息を吐いた。
「揺れる」
「だよな」
俺は小さく舌打ちした。宗冬が前で言った。
「形は守っている。だが、中が崩れている」
「関所としては致命でございますな」
宗冬が歩みをわずかに緩めた。
「致命かどうかは、これから分かる。崩れているなら、いずれ露見する」
俺は顔をしかめた。
「分かりたくねえな」
山道に入る。人が減り、音が減る。
その代わりに――気配が増える。
俺は足を止めずに言った。
「……いるな」
「否応なくな」
光太郎が落とした。
「囲む」
俺は周囲を見た。木、岩、草。隠れる場所はいくらでもある。
だが、散っていない。
「関所の外で動くか」
独り言のようで、独り言じゃない。重俊が応じた。
「通した以上、ここからが本番でしょう」
宗冬がわずかに顎を引いた。
「その通りだ」
俺は舌打ちを飲み込んだ。
「面倒だな」
「まだ軽い。本番ではなかろう」
短い。だが、重い。俺は顔を上げた。
「これでか?」
宗冬は淡々と続けた。
「動いていない。それが最も厄介だ」
「見る」
「測っておりますな」
宗冬が頷いた。
「数、動き、反応。それは正しい。だが、それだけでは足りぬ」
「趣味悪ぃな」
宗冬がわずかにだけ笑った。冷たい、しかしどこか楽しげな笑みだった。
「敵としては、な」
山道が少し開ける。光が差す。見通しがよくなる。
だが――気配は減らない。
「減ってねえ」
「配置されております」
光太郎が落とした。
「同じ」
「待っておる。こちらが緩むのを」
その言葉で、はっきりした。これは偶然じゃない。意図だ。
「だったら早く来いよ」
言ったが、何も起きない。風だけが通る。
宗冬が静かに言った。
「動かぬのではない。動く必要がない」
「最悪だな」
宗冬が返す。
「まだだ。最悪はこれからだ。今はまだ、こちらを測っている段階に過ぎぬ」
山は変わらない。
道も、風も、何も変わらない。
だが、見えないものだけが変わっている。囲まれている。
それでも、何もしてこない。
だからこそ――逃げ場がない。
俺は前を向いた。
気づけば、足がわずかに速くなっていた。




