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第一話 距離の影

 品川の宿場は、海の匂いがした。


 江戸を出てまださほど経っていないはずなのに、風の質がすでに違っていた。人の熱気に潮の湿った気配が混じり、鼻の奥に残る。道は広くなり、人も増えた。荷を担いだ男、行き交う旅人、声を張る商人。どこを見ても動きが途切れない。


 俺は歩きながら肩を大きく回した。


「やっと外だな。江戸の空気よりマシだぜ」


 重俊が一歩後ろで歩幅を揃え、低く返した。


「気を抜くな。まだ江戸の内だぞ」


 光太郎が前を向いたまま、ぼそりと言った。


「多い」

「そりゃそうだろ。宿場だぜ」


 俺は鼻で笑った。人の多さなんて今さら驚くことじゃない。だが、光太郎が言うと少し意味が変わって聞こえる。


 通りを抜ける風に、荷の匂いと干し魚の匂いが混ざっていた。声はうるさい。だが、妙に整っている。何かに合わせて動いているようだった。

 俺は視線を左右に流した。


「普通だな」

「普通すぎる」


 光太郎が目を細めながら言った。


「匂う」

「何がだよ。またそれか」


 答えは返ってこない。光太郎は言うだけ言って、説明はしない。


 前で、荷を抱えた男と別の旅人が肩をぶつけた。


「おい、見て歩け!」

「そっちだろうが!」


 声が荒くなり、腕が伸びる。どちらも引かない。

 俺は足を止め、腕をまくりかけた。


「おい、それ――」


 重俊がすぐに手を伸ばして止めた。


「やめておけ」

「何でだよ」

「関わる必要がない」


 納得はいかない。だが、確かに関係はない。そういう場面だった。

 それでも一歩出かけた時、後ろから低い声が聞こえた。


「放っておけ」


 振り返るまでもない。宗冬だ。

 俺は肩越しに言い返した。


「いいのかよ」

「今はな」


 短い。それだけだった。

 俺は舌打ちを飲み込んだ。揉め事はそのまま収まった。どちらかが折れたわけでもない。ただ、引いた。

 妙だ。俺は眉をひそめた。


「終わりかよ」

「争う気がなかったか」


 光太郎が首を傾げた。


「違う」

「何がだ」


 俺は振り返った。さっきの二人は、もういない。どこに消えたのか分からない。

 人は多い。紛れるには困らない。だが、消え方が速すぎる。


「逃げ足早ぇな」


 重俊が周囲を見渡した。


「妙ではある」


 光太郎がぽつりと落とした。


「薄い」

「またそれか……お前、説明してくれよ」


 歩き出す。流れに乗る。人の波は途切れない。その中で、ふと視界の端にそれが入った。


 少し離れたところに、女がいた。

 三味線を抱えている。鳥追いか何か。年はよく分からない。顔もはっきり見えない。だが、目が合った気がした。すぐに逸らした。

 俺は歩きながら言った。


「またあの女だな」


 重俊が目だけで追った。


「距離が変わらぬ」


 光太郎が短く言った。


「同じ」

「同じって何がだよ」


 俺は肩をすくめた。


「たまたまだろ」


 そう言いながら、歩幅を少し変えてみた。速くする。次に落とす。

 それでも、女の距離は変わらない。

 俺はもう一度だけ振り返った。

 女は、そこにいる。こちらを見ているのか、見ていないのか分からない顔で、同じ速度で歩いている。


「……ついて来てねえ?」


 重俊が低く返した。


「偶然か」

「違う」


 その一言で、空気が少しだけ変わった。俺は頭を掻いた。


「気のせいだろ」


 言い切る。そうでないと面倒になる。だが、歩いても歩いても、視界の端にあの女がいる。離れもせず、近づきもしない。少し歩いてから、俺はふと足を止めた。

 振り返る。

 さっきまで見えていたはずの女は――いない。


「ほらな」


 俺は肩をすくめた。

 重俊が周囲を見渡した。


「……消え方が早い」


 光太郎が短く言った。


「消えた」

「だから、そういうもんだって」


 俺は前を向いた。人の流れは変わらない。荷を運ぶ音も、呼び声も、そのままだ。

 だが、さっきまであった何かだけが、すっと抜けている。


 数歩進む。

 また、視界の端にそれが戻った。同じ位置。少し離れたところ。三味線を抱えた女。

 俺は思わず顔をしかめた。


「……いるじゃねえか」


 重俊が息を詰めた。


「いつの間に」

「戻る」

「戻るってなんだよ」


 俺は振り返らずに言った。もう見るのも面倒だ。

 それでも分かる。あの距離。あの気配。消えたはずの場所に、同じように立っている。

 俺は少しだけ歩幅を変えた。速くする。重俊がそれに合わせる。光太郎も同じだ。

 女も――同じだった。距離が変わらない。


「おい」


 俺は小さく言った。


「やっぱおかしいだろ」


 重俊が低く答えた。


「認めたか」

「最初から変だって言ってただろ」


 光太郎が短く言った。


「変だ」


 その一言で、妙に納得してしまうのが癪だった。

 俺は舌打ちを飲み込んだ。


「声かけるか」


 一歩、進路を変える。あの女の方へ。

 重俊がすぐに腕を掴んだ。


「やめておけ」

「なんでだよ」

「関わる必要がない」


 同じ言葉だ。さっきと。

 俺は顔をしかめた。


「気持ち悪いだろ」


 光太郎が言った。


「消える」

「は?」


 俺は振り返った。

 ――いない。

 さっきまで確かにいた場所に、何もない。人はいる。荷もある。だが、あの女だけが消えている。

 背中がわずかに冷えた。


「……な」


 言葉が出ない。俺は周囲を見回した。

 どこにもいない。

 重俊がゆっくり息を吐いた。


「やはり、ただの旅人ではない」


 光太郎がぽつりと落とした。


「薄い」

「だからそれ何だよ」


 俺は頭を掻いた。理解はできない。だが、普通じゃないのは分かる。

 その時、後ろから低い声が掛かる。


「構うな」


 宗冬だ。振り返る。宗冬は前を見たまま歩いている。視線も、歩幅も変わらない。

 俺は肩越しに言った。


「いいのかよ。ほっといて」

「今は、問題ない」


 短い。それだけで終わる。

 俺は小さく舌打ちした。


「なんだよ、それ」


 答えは返ってこない。

 重俊が一歩寄った。


「殿がそう言うならば」

「お前もかよ」


 光太郎が言った。


「触るな」

「お前まで同じこと言うな」


 俺はため息をついた。

 歩く。進む。止まらない。

 通りは相変わらず賑やかだ。何も変わらない。

 なのに、さっきから何かだけが違う。

 見えないものが、どこかにいる。


 いや――

 前だ。

 光太郎がふと足を止めた。


「いる」

「どこだよ」


 光太郎は前を見たまま、短く言った。


「前」


 視線の先には、人しかいない。

 商人や旅人、荷と人足の掛け声。どこにも、それらしいものはない。だが、こいつが言う時は、大抵当たる。


 俺は目を細めた。

 風が抜ける。

 さっきと同じはずなのに、少しだけ冷たい。

 俺は肩を回した。


 ――まだ、何も起きていない。


 なのに。何かが、先にいる気がした。

 見えないまま、ずっと前を歩いている。

 気づけば、足がわずかに速くなっていた。追っているのか、追われているのか分からないまま。

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