第四話 前提の崩壊
通りを離れても、しばらく誰も口を開かなかった。
夕方の町は少しずつ色を変え始めていた。店先の呼び声が近くなったり遠くなったりし、味噌を煮る甘ったるい匂いが風に混じって漂ってくる。人は多い。荷を抱えた男も、井戸端で立ち話をする女も、皆いつも通りだった。
なのに、頭の中だけが引っかかったままだった。
俺は歩きながら頭を軽く掻いた。
「……知らねえのか」
前を見たまま言うと、重俊が横目でこちらを見た。
「何をだ」
「入れ替わるの」
俺は少しだけ足を緩めた。
重俊の足が一瞬止まった。それから、低く返した。
「宗冬様と宗春様、か」
「それだ」
俺は頷いた。光太郎が二歩ほど先で振り返る。
「同じ」
「見た目はな」
俺は肩をすくめた。
「駕籠の中に宗冬様がいると思って撃った。そこまでは筋が通る」
重俊が腕を組んだ。
「だが、結果は宗春様が重傷」
「そういうことだ」
風が通りを抜けた。通りの端で干してあった手拭いが、ふわりと揺れた。
俺は小さく息を吐いた。
「外したっていうより、最初から見立てが違う」
光太郎が短く言った。
「前提」
「便利な言葉だな、それ」
俺が苦笑すると、光太郎は眉一つ動かさなかった。
「正しい」
「確かに、手口そのものは乱れておらぬ。鉄砲も、斬り込みも、無駄がない」
「だろ」
俺は指を一本ずつ折った。
「駕籠の位置は押さえてる。撃つ場所も悪くねえ。詰めるのも早い。なのに肝心なとこだけ外してる」
重俊が頷いた。
「技量の不足ではない」
「むしろ逆だな」
俺は前を見たまま続けた。
「下手な奴なら、あそこまで綺麗に並ばねえよ」
光太郎が俺たちの顔を見比べた。
「誤認」
「だな」
俺はそこで立ち止まった。
道の端には小さな水たまりが残っていた。荷車が通った跡が、その脇に黒く刻まれている。
重俊も足を止めた。
「つまり、襲撃者は宗冬様を狙っていた」
「そうなる」
「だが宗春様を斬った」
「そういうことだ」
同じことを繰り返しているのに、妙に腹の底が冷えた。
重俊が低く呟いた。
「知らなかったのだな」
「何を」
聞き返しながら、答えはもう半分出ていた。重俊は俺を見た。
「入れ替わることを、だ」
俺は舌で奥歯を軽く押した。
「江戸の奴なら知ってるだろ」
「少なくとも、柳生家を狙うほど近い者ならな」
光太郎が即座に言った。
「近くない」
「そうなるか」
「内なら、知る」
短いが、それで十分だった。
柳生屋敷に近い人間。江戸で動く人間。幕府の周りをうろつく人間。
俺は鼻を鳴らした。
「面倒だな」
「面倒で済めばよいが」
「済まねえだろ」
俺が言うと、重俊は否定しなかった。
光太郎がふっと空を見上げた。
「外」
夕方の光が、その横顔を薄く照らした。
俺は眉をひそめた。
「江戸の外、な」
重俊が静かに頷いた。
「その可能性は高い」
人が行き交い、笑い声がする。商人が威勢よく声を張っている。
なのに、その向こう側に何かが見えない。
俺は頭を軽く掻いた。
「宗冬様を狙う。鉄砲まで持ち込む。なのに中身を外す」
「狙いは大きい」
光太郎が足を止めた。
「上」
俺はそいつの背中を見た。
「上、ね」
重俊がわずかに目を伏せた。
「町の喧嘩では済まぬな」
そこで、光太郎が不意に振り返った。目が細い。
「来る」
短い一言で、空気が変わった。
俺は反射的に周囲を見た。
「何がだ」
光太郎はすぐには答えなかった。ただ、通りの先をじっと見つめている。
重俊が腰の刀に軽く手をやった。
夕方の町は相変わらず騒がしい。誰も何も気づいていない。
だが、光太郎だけが違うものを見ていた。
俺は一歩前に出た。
通りの先、人の流れの向こうに、小さな影が見える。走っている。一直線にこちらへ。
「使いか」
「見たことがある」
確かに、見たことのある奴が息を切らして、周りも見ずに走ってくる。
嫌な予感が当たる形だ。
光太郎が短く言った。
「早い」
「焦ってるな」
俺は腕を下ろした。
使いは俺たちを見つけると、足をもつれさせながら駆け寄ってきた。
「章吉殿……! 重俊殿!」
声が裏返っている。
重俊が一歩前に出た。
「どうした」
使いは膝に手をつき、息を整えようとするが整わない。肩が激しく上下している。
「屋敷より……急ぎの……!」
「だから何だよ」
使いが顔を上げた。目が血走っている。
「宗冬様へ――」
そこで言葉が詰まった。喉が鳴る。
嫌な間が落ちる。
重俊がさらに一歩詰めた。
「申せ」
使いは大きく息を吸い込んだ。
「……再び、動きあり」
一瞬、音が消えた気がした。
俺はゆっくり息を吐いた。
「ほら来た」
軽く言ったつもりだったが、声が少し掠れていた。
重俊が静かに問うた。
「どのような動きだ」
「詳細はまだ……ただ、影が動いていると……」
光太郎がすぐに言った。
「来る」
「だから何がだ」
俺は苛立ち混じりに返した。光太郎は通りの奥を見たまま、短く答えた。
「次」
それだけで、十分だった。
俺は舌打ちを飲み込んだ。
さっきまでの違和感が、形を持ち始めている。
終わっていないどころか、これからだ。
俺は使いを見た。
「宗冬様は?」
「屋敷へ戻られております」
「だろうな」
重俊が頷いた。
「急ぐぞ」
「言われなくてもだ」
俺は踵を返した。
夕方の町は変わらない。人も、音も、匂いも。
だが、その中に混じったものは、さっきよりもはっきりしている。
見えないだけで、確実に近づいている。
光太郎が最後に一言、落とした。
「近い」
俺は前を向いた。
――今度は外さねえつもりか。




