第三話 ずれた理由
襲われた場所は、思ったよりも普通の通りだった。
長屋からそう離れていない。人通りはまだあり、店も並び、井戸端の声や荷を運ぶ車輪の音が日常を続けている。
ただ、そこだけが少しだけ歪んでいた。
黒く乾いた血の跡が、土に染み込んでいる。通る人間はみな、わざと視線を逸らしているが、目に入るものは消えない。誰も近づこうとしない。関わりたくないという空気が、はっきりと漂っていた。
俺は足を止め、ゆっくりと息を吐いた。
「ここか」
「そのはずだ」
光太郎は少し前に出て、しゃがみ込んだ。指で地面には触れず、ただ近くでじっと見つめている。
「残る」
「そりゃ残るだろ。血だぜ」
俺は肩をすくめた。だが、光太郎が言うと少しだけ意味が変わって聞こえる。
光太郎が顔を上げた。
「匂う」
短い。
重俊が周囲を見回した。町人は距離を取って遠巻きに見ているだけで、近づこうとする者はいない。誰もが「自分には関係ない」と顔に書いてある。
俺は血の跡の横に立ち、足の位置を確かめた。
「駕籠はここか」
重俊が歩幅を測るように数歩歩いた。
「この辺りで止まっていたはずだ」
地面には、わずかにへこんだ跡が残っている。重い駕籠の脚が沈んだ形だ。
俺はその前に立った。通りの幅、建物の位置、視線の高さを確認する。
「……撃たれたのは、こっち側だな」
重俊が同じ方向を見た。
「うむ。この距離なら、外からでも十分に狙える」
俺は数歩下がり、撃った側の位置に立った。駕籠までの距離を目で測る。
「近いな」
「外しはしない距離だ」
重俊の声は低い。光太郎が立ち上がった。
「当てている」
「だろうな」
俺は頷いた。宗春の左肩に当たっている。腕を持っていかれてもおかしくない距離だ。
俺は足元を見た。足跡が乱れている。踏み込みが深い。何人かが一気に間合いを詰めてきた跡だった。
「撃って、すぐ来てるな」
重俊が膝を折って地面を観察した。
「間合いが早い。迷いもない」
「早い」
光太郎が短く言った。
俺は立ったまま腕を組んだ。段取りも、技も、全部揃っている。
「……ちゃんとしてるな」
「隙は見当たらぬ」
光太郎が少しだけ首を傾げた。
「だが」
そこで言葉が止まった。俺はそちらを見た。
「なんだよ」
光太郎は答えない。ただ、地面と通りの奥を交互に見ている。
俺はもう一度、駕籠のあった位置に立った。目線の高さを変え、しゃがんでみる。もし自分がここに乗っていたら。撃たれて、斬られる。
なのに。
「……外してる」
思わず口に出ていた。
重俊が顔を上げた。
「外しておるな」
「だよな」
俺は立ち上がった。肩に当てている。急所じゃない。そこから斬りに来ているが、仕留めきれていない。やるなら、もっと確実にやるはずだ。
光太郎がぽつりと言った。
「ずれている」
「それだ」
俺は指を鳴らした。
全部合ってるのに、最後だけ噛み合っていない。
重俊が腕を組んだ。
「不可解だ」
俺は通りを見渡した。普通の町だ。逃げ道はいくらでもある。人も多い。
なのに鉄砲を使ってる。そこまでやるなら――
「……待てよ」
俺は眉をひそめた。何かが引っかかる。
重俊がこちらを見た。
「どうした」
俺はゆっくりと言った。
「鉄砲って、こんなとこで使えるもんか?」
一拍、空気が止まった。
重俊の目が細くなった。
「……良いところに気づいたな」
光太郎が短く言った。
「重いな」
「江戸で鉄砲は、そう易々と扱えぬ」
重俊が続ける。俺は鼻で小さく笑った。
「だよな。運び込むだけでも目立つ。使えばもっと目立つ。しかも町中だ。誰かが見ている」
俺は血の跡を指で示した。
「じゃあ余計おかしいだろ」
「ここまでやって、準備は万端。手口は正確。なのに……」
光太郎が淡々と続けた。
「外す」
風が通りを抜けた。暖かいはずの空気が、少しだけ冷たく感じられた。
俺は腕を組んだまま、通りの奥を見た。
準備は重い。手口は正確。技量もある。なのに、結果だけが違う。
光太郎がもう一度、静かに言った。
「合わぬ」
「だな」
重俊が腕を組んだまま、ふとため息をついた。
「まるで……最初から狙いがずれていたようだ」
俺は軽く頭を掻いた。
「ずれてるってか……最初から外すつもりだったのか? それとも」
光太郎が首を傾げた。
「知らぬ」
「お前、便利な言葉だな」
重俊が小さく咳払いをした。
「章吉……今は笑っている場合では」
「笑ってるんじゃねえよ。笑うしかねえんだよ」
俺は肩をすくめた。
「鉄砲持ち出して、町中で撃って、斬りに来て、逃げる。全部完璧なのに、最後だけ外す。こんな不自然な話、笑うしかねえだろ」
重俊が呆れた顔で俺を見た。
「……お前は相変わらずだな」
光太郎が無表情で一言。
「笑う」
「お前まで言うな」
重俊がため息をつきながらも、口元がわずかに緩んだ。
三人の間で、ほんの一瞬緊張が緩んだ。
だが、すぐに現実が戻ってくる。
俺は血の跡をもう一度見た。
準備は万端。手口は正確。なのに、宗春は死んでいない。
光太郎が静かに言った。
「前提」
俺と重俊が同時に彼を見た。
光太郎は通り全体をゆっくりと見渡しながら、淡々と言った。
「前提が、ずれている」
風が再び通りを抜けた。
暖かいはずの午後の風が、なぜかひどく冷たく感じられた。
何かが、最初からずれている。
その「ずれ」が、俺たちの足元に、静かに影を落としていた。




