第二話 外した一撃
長屋の路地は、傾いた午後の日差しが路地に残っていた。
井戸のまわりには人が集まり、桶のぶつかる乾いた音が響いている。遅れて届く飯の支度の匂いが、路地に甘く淀んでいた。
だが、うちの部屋だけは別だった
宗冬は変わらず板の間に座っている。背筋はまっすぐ、湯呑みを手にしながら一言も発さない。ただそこにいるだけで、部屋全体の空気を支配していた。存在自体が重い圧となり、誰も軽々しく口を開けなくなっていた。
重俊は正座のまま、膝に手を置き、じっと床を見つめている。光太郎は壁にもたれ、目を閉じたまま微動だにしない。
俺は湯呑みを握ったまま、さっきの報せを頭の中で何度も繰り返していた。
宗春が斬られた。帰り道で。
戸が静かに開いた。
音はさっきより控えめだった。だが、空気が変わる。
夢之介だった。
女形の姿のまま、すっと部屋に入ってくる。着物は華やかで、化粧も薄く施されているのに、足取りは侍そのものだった。
肩の線、腰の落ち方、すべてに隙がない。煙管は手に持っているが、火は入っていなかった。
そのまま宗冬の前に跪き、静かに頭を下げた。
「戻りました、兄上」
宗冬がゆっくり顔を上げた。
「どうだ」
短く、低い声。
夢之介は煙管を指先で軽く回しながら、落ち着いた侍の口調で答えた。
「命は繋いでおります」
夢之介は大きく息を吸う。
「左肩を撃たれ、その後斬られました。急所は外れておりますが、出血は相当です」
宗冬がわずかに息を吐いた。
「助かるか」
「医師が付きっきりでおります。今のところは持ちこたえております」
夢之介はそこで視線を落とし、声を少し低くした。
「ただし、左腕はしばらく使えません。最悪の場合、このまま使えなくなることも……」
宗冬は何も言わず、一度だけ小さく頷いた。その仕草だけで、部屋の空気がさらに重くなった。
俺は湯呑みを置いた。
「で、どうやられた」
夢之介が顔を上げ、静かに答えた。
「町中でございます。城からの帰り、駕籠に乗っておられるところを、外から鉄砲で撃たれました」
宗冬が眉をひそめた。
「町中で鉄砲か」
「左肩に着弾。そのまま距離を詰め、刀で斬りかかってまいりました」
光太郎が目を開けた。
「早い」
「ええ、早うございました」
夢之介は淡々と続ける。女形の柔らかな姿と、侍のような冷徹な口調のギャップが、異様な緊張を生んでいた。
「撃って終わりにするつもりはなかったようです。すぐに斬りに来ました。宗春様も応戦されましたが、肩をやられておられるため、力が入らず……」
宗冬の声がさらに低くなる。
「不利だったな」
「ええ。不利でした」
夢之介は静かに肯いた。
「そのまま深く斬られ、倒れられました。致命傷ではありませんでしたが、かなりの深手です」
部屋がまた少し静かになった。
外では子どもたちの笑い声がしているのに、ここだけ時間が止まったように感じられた。
俺は顎に手を当てた。
「護衛は?」
「応戦しております。何人か斬っておりますが……」
夢之介は一瞬、言葉を選ぶように間を置いた。
「駕籠かきが一人、斬られました。残念ながら……」
宗冬が目を閉じた。
「現場は混乱しましたが、屋敷はまだ崩れておりません」
夢之介は続ける。
「襲撃者も無傷ではなかったようです。しかし、全員逃げてしまいました」
俺は舌打ちを堪えた。
「取り逃がしたか」
「ええ」
夢之介の目が細くなった。
「そこが妙でございます」
光太郎がゆっくりと身体を起こした。
「妙」
宗冬が低く唸った。
「鉄砲まで用意し、手は抜いておらぬはずだ」
俺は畳を指で叩いた。
「なのに逃がす」
夢之介が煙管を指先で静かに回した。
「やる気はあります。準備も整えております。なのに、詰めが甘い」
光太郎が首をわずかに傾げた。
「ずれてる」
「狙いを外したか」
重俊が目を細めた。
俺は肩をすくめた。
「外した、というより……」
言いかけて、言葉を飲み込んだ。まだ形にならない。
夢之介が俺を見た。
「何か?」
「……いや」
俺は湯呑みを持ち上げた。
「……筋が通らねえ」
重俊が低く呟いた。
「正雪の残党?」
夢之介が静かに頷いた。
「屋敷もその線で動いております」
光太郎が即座に返した。
「違う」
短い。宗冬が眉を寄せた。
「なぜそう言い切る」
光太郎は少しだけ目を細め、淡々と言った。
「匂わぬ」
「またそれか」
「重要だ」
夢之介が煙管を口元に近づけ、静かに言った。
「動機はある。恨みもある。だが……」
そこで言葉を切り、女形の柔らかな顔立ちとは裏腹に、鋭い視線を巡らせた。
「やり方が、雑ではないのです」
俺は顔を上げた。
「雑じゃない?」
「鉄砲でございます」
夢之介は指を一本立てた。
「駕籠を正確に撃ち、距離を詰めるのも早い。訓練の跡が見えます」
宗冬が頷いた。
「手は抜いておらぬ」
「ええ」
夢之介の声が低くなった。
「なのに、外す」
光太郎が静かに言った。
「知らぬ」
「……何をだ」
光太郎はすぐには答えず、戸の方を見つめていた。
外では誰かが笑い、井戸の水音が続いている。その中で、光太郎だけが違うものを見ているようだった。
やがて、ぽつりと落とした。
「前提」
「前提、か」
夢之介が小さく、しかし冷たく笑った。
宗冬はただそこに座っているだけで、圧が部屋全体を支配していた。
夢之介が煙管を下ろした。
「屋敷は固めております。出入りも制限し、しばらくは様子見です」
宗冬は低く短く答えた。
「うむ」
判断はまだ出さない。だが、止まってもいない。
俺は小さく息を吐いた。
長屋の音が、ゆっくりと戻ってくる。さっきと同じはずなのに、少しだけ違って聞こえた。
光太郎がもう一度、静かに呟いた。
「合わぬ」
「だな」
何かが、確かにずれている。
刃が、ほんのわずかに逸れたその瞬間から、影が、音もなく形を変え始めていた。




