第一話 ずれた刃
午後の長屋は、今日も狭い路地いっぱいに生活の音を撒いていた。井戸の滑車がきしみ、桶がぶつかり合い、どこかの婆さんが朝から怒鳴り続けている。
だが、俺の部屋だけは、まるで別の世界のように重く淀んでいた。
宗冬は粗末な板の間にそのまま腰を下ろし、湯呑みを手にしていた。背筋は微動だにせず、長屋の汚れた床の上でもその威厳を崩さない。
隣には夢之介が座り、女形のまま煙管をくゆらせ、薄い煙をゆっくりと吐き出していた。
重俊は膝の上に両手を置き、光太郎は壁にもたれかかっている。俺だけが、どうにも居心地が悪く、落ち着かなかった。
俺は湯呑みを握り直した。
「で……結局、あいつは駿府で終わったんだな」
宗冬が静かに、しかしはっきり頷いた。
「うむ」
それだけだった。
由井正雪は駿府で自決した。張孔堂は崩れ、お咲は姿を消し、後に出家したとだけ聞かされた。誰も詳しくは語らない。語ったところで、もう取り戻せないものばかりだった。
夢之介が干し芋を指でつまみ、口に運びながら、煙管の煙をゆるく吐いた。
「咲殿のことまで書いたら、売れるかしらねぇ」
宗冬が横目だけで見た。
「やめておけ」
「あら、冷たいわねぇ、殿〜」
「冷たくて結構だ」
重俊が小さく咳払いをした。
「夢之介殿、さすがにそれは洒落になりませぬ」
「咲殿、可愛かったのかしら?」
重俊は慌てて口を閉じ、頰がうっすら赤くなった。
夢之介は肩をすくめた。
「真面目ねぇ、重俊は」
「其方が軽すぎるのだ」
俺はぬるくなった茶をすすった。誰も入れ直そうとしない。この部屋らしい。
光太郎が不意に口を開いた。
「帳簿」
全員の視線が一斉に集まった。
光太郎は壁にもたれたまま、短く続けた。
「正確」
「ああ」
俺は息を吐いた。
「血もついてなかった。あの時、遠くへ飛んでたからな」
夢之介が煙管の灰を落としながら言った。
「几帳面にもほどがあるわねぇ。落とし紙まで記してあったそうじゃない」
夢之介が煙を燻らせながら、続ける。
「義賊が盗んだ金額すら、書いてあったと聞いたわ」
「全部か?」
「そうだってさ。盗賊への手当てすら……ね」
重俊が眉を寄せた。
「そこまでか」
「そこまでよ」
夢之介が答えると、宗冬がゆっくりと湯呑みを置いた。
「勘定方が言っていた」
一拍、間を置く。
「――欲しかった、とな」
部屋が少しだけ静かになった。
外では子どもたちが走り回り、井戸端で笑い声が響いているのに、この部屋だけ音が遠のいた気がした。
俺は視線を板の間に落とした。
「……場所、違ってりゃな」
重俊が低く頷いた。
「うむ」
光太郎が首をわずかに傾げた。
「誤る」
「お前が言うと身も蓋もねえな」
「事実」
そう返されると、何も言えなかった。しばらく沈黙が落ちてから、俺は宗冬を見た。
「あの人は、何を見てたんだ」
宗冬は少しだけ考えるように黙った。
「夢だ」
「夢、か」
「だから覚める」
淡々とした声だった。慰めるでも、切り捨てるでもない。ただ、そういうものだと置く声だった。
光太郎が外の光を見つめたまま、静かに言った。
「空っぽ」
宗冬はほんのわずかに口元を緩めた。
「……そうだな」
◇
その時――
外の足音が変わった。
さっきまでの長屋の雑多で緩い足音ではない。まっすぐこちらへ向かってくる、急いだ、重い足音だった。
重俊が顔を上げ、俺も戸口を見た。光太郎だけが先に目を細めた。
「来る」
次の瞬間、戸が強く叩かれた。乱暴で、必死な叩き方だった。
重俊が即座に立ち上がり、裾を払って戸口へ向かった。
「何者だ」
外から荒い息が返ってきた。
「柳生屋敷より! 急ぎの報せ!」
宗冬はすでに立っていた。動きに一切の迷いがない。
重俊が戸を開ける。
使いの男が、ほとんど転がり込むように入ってきた。顔は青ざめ、肩で息をしている。
「帰り道にて――」
言葉が止まる。喉が完全に乾いているらしい。
宗冬が一歩前に出て、低く、しかし鋭く問うた。
「誰が!」
短い問いだった。使いは息を整えながら、震える声で続けた。
「宗春様が――襲われました」
一瞬、部屋の空気が凍りついた。
「重傷にございます」
宗冬は目を細めただけだった。表情にほとんど変化はない。だが、その視線は刃物のように冷たく鋭くなった。
「……そうか」
それだけだった。声に揺れはない。
夢之介が煙管の火を落とした。女形の姿のまま、気配が一瞬で変わる。
「殿」
「宗弘」
名を呼ばれた瞬間、夢之介の目が鋭くなった。
「行け」
一言だった。
「屋敷へ戻れ。警護と統制を任せる」
夢之介は立ち上がった。動きだけが男らしいほど鋭い。
「それでは、殿が」
「余もなかなかに強い」
宗冬は淡々と返した。
「ここに三人もいる」
視線だけが、俺たち三人に向けられた。
重俊が背筋を正した。
「お任せを」
「勝手に決めるな」
光太郎が壁から離れ、静かに言った。
「問題ない」
夢之介が一歩踏み出しかけて、ふと止まった。
振り返り、煙管を指で軽く回しながら、静かに言った。
「兄上にかすり傷でもついていたら――戯作で全部ばらすわよ」
俺は顔をしかめた。
「やめろ」
重俊が真顔で頷いた。
「洒落にならぬ」
光太郎が首を傾げた。
「読む」
「読むな」
夢之介はくすりと小さく笑い、そのまま戸口へ向かった。
使いの男が慌てて後を追う。戸が開き、昼の強い光と熱気が一瞬流れ込んだ。
すぐに、また静かになった。
外ではいつも通りの長屋の喧騒が続いている。
だが、この部屋の中だけが、決定的に違っていた。
宗冬は立ったまま、何も言わない。視線は遠く、しかし確かに何かを捉えていた。
俺は視線を板の間に落とした。
宗春が斬られた。 帰り道で。
――外したのか。
それとも、最初から狙いは別だったのか。光太郎がわずかに顔を上げ、静かに言った。
「妙だ」
重俊が眉を寄せた。
「何がだ」
光太郎は戸の方を見たまま、短く、冷たく答えた。
「合わぬ」
俺は小さく息を吐いた。
長屋の昼は、何も変わらないように見える。
だが、何かが、確かにずれた。
刃が、わずかに逸れたその瞬間から、影が動き始めた。




