表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
31/52

第五話 信の果て

 張孔堂へ入った瞬間、昨日までとは明らかに違う匂いがした。


 乾いた埃と、わずかに鉄のような臭い。人が減っただけではない。何かが、確かに失われていた。


 俺は門の内側で足を止め、ゆっくりと息を吸った。


「……減ったな」


 重俊が庭を見渡し、低く答えた。


「離脱が進んでおる」

「もう隠しもせぬか」

「去る」


 庭の端に、荷物を背負った浪人が二人いた。止める者も、見送る者もいない。二人は無言で門を出て行き、姿を消した。


「冷てえな」

「止められぬのだ」


 重俊の声も、どこか乾いていた。

 庭に残っている者たちの顔は、昨日までとは決定的に違っていた。怒っているようで怒りきれず、疲れているようで休めてもいない。槍を持っていても構えず、ただ立っているだけ。目が虚ろで、どこを見ているのかもわからない。


「もう塾じゃねえな」

「昨日の時点で違っていた」

「今日は、もっと違う」


 光太郎が足元に散らばった砂利を見つめた。


「抜ける」


 その時、廊下の奥から言い争う声が聞こえてきた。


「だから足りないと申している!」

「集めれば済む話だろう!」


 俺と重俊は顔を見合わせた。


「幹部か」


 板敷きの向こう、帳場らしき小さな部屋で二人の男が立っていた。一人は顔を赤くして怒鳴っている。もう一人はひどく痩せ、目の下に濃い影を作った男――平井藤十郎だった。帳面を胸に抱え、唇だけを小さく動かしている。


 俺は小さく息を吐いた。


「いたな」

「平井か」


 平井はこちらに気づかない。抱えた帳面ばかりを見つめ、ぶつぶつと何かを繰り返している。


「足りないのではない、まだ集めきれていないだけだ」


 声は硬く、乾いていた。向かいの幹部が吐き捨てるように言う。


「集める集めると、いつまで言うつもりだ!」

「人が減ってるんだぞ!」

「減ったなら、残った者を回せばいい」

「金があれば戻る」


 俺は眉をひそめた。


「……誰の話してんだ、あれ」


 重俊が低く言った。


「人を見ておらぬ」


 光太郎が一言、冷たく落とした。


「偏る」


 平井の目は揺れていた。だが口だけは止まらない。


「米も武具も、金さえあれば動く」

「まだやれる」

「帳面は合っている」


 最後の言葉だけが、妙に強く響いた。幹部の男はとうとう舌打ちして背を向け、荒い足音を残して去っていった。


 平井はそれを追わなかった。帳面を胸に抱き直し、ぶつぶつと数字を数え続けている。その姿は、まるで最後の支えを失わないように必死でしがみついているようだった。


 俺は一歩近づき、静かに声をかけた。


「なぁ」


 平井の肩がびくりと震えた。ようやくこちらに視線を向ける。


「……何だ」


 声がひどく掠れていた。俺は顎で帳面を示した。


「そんなに大事か」


 平井は少しの間黙り、それから乾いた声で答えた。


「当然だ。これが狂えば、全部狂う」

「もう狂っておる」


 平井の顔が強張った。


「違う。帳面は合っている」


 同じ言葉だった。だが、さっきより必死さが滲んでいる。

 光太郎が平井をじっと見つめ、淡々と言った。


「痩せた」

「関係ない。金があれば戻る」

「それ、昨日も聞いたな」


 平井は俺を睨んだが、その目にはすでに力がない。


「お前たちは分からんだろう。足りない足りないと喚くだけで、誰も金を見ない」


 声に、わずかな熱が乗った。


「何が要るか、どれだけ要るか、どこへ消えたか……」


 そこで息が切れた。帳面を抱えた指先が白く、震えていた。

 重俊が静かに言った。


「何度も申し立てたのだな」


 平井は答えなかった。だが、睨む力が少し弱くなった。

 俺は肩をすくめた。

 平井の唇がわずかに動き、潰れたような声が漏れた。


「だが、金は不浄だと誰も聞かなかった。何が不浄なものか。必ず必要なのに」


 彼は帳面を、まるで宝物のように丁寧に撫でながら続けた。


「誰も……聞かなかった」


 それは怒鳴り声ではなかった。乾いて、潰れて、哀しい声だった。

 風が廊下を抜け、紙が一枚かすかにめくれた。平井はその音にまで敏感に反応し、慌てて帳面を押さえた。その仕草が、痛々しいほど必死で、哀れだった。


 俺は視線を落とした。


「そこまでして、まだ回ると思ってんのか」

「回さねばならん」


 平井は即答した。だが、その声にはすでに力がない。

 重俊が目を伏せ、低く言った。


「……正雪のためか」


 平井の指が、ぴたりと止まった。帳面の上で、完全に。

 彼はゆっくり顔を上げた。目が赤く、濁っている。


「先生は、正しい方だ」


 それだけ言って、再び帳面を抱きしめた。まるで、それだけが自分の存在を証明するものだと言わんばかりに。


「正しい、ねえ」


 光太郎が、ふいに廊下の向こうを見た。


「来る」


 声が落ちた瞬間、空気が変わった。冷たい筋が、すっと背筋を這い上がる。

 光太郎の視線が、梁の上へ向く。


「近い」

「……またか」


 重俊が腰に手をやった。


 平井だけが気づいていない。帳面を抱えたまま、唇を小さく動かして数字を数え続けている。


 はりの暗がりの端で、何かがわずかに動いた。

 次の瞬間――影が落ちた。

 平井の背中に、刃が深く入った。声は出なかった。ただ、空気が裂ける音だけがした。


 平井の体が前に崩れ落ちた。帳面が床に落ち、乾いた音を立てる。


 同時に、影が跳ねた。梁へ逃げようとする。

 光太郎が一歩前に出た。


「止める」


 その声と同時に、男の体が空中で凍りついた。


「あれ?」


 男が声を出す。次の瞬間、叩き落とされるように床に落ちた。鈍い音。

 光太郎が即座に近づき、男の首を掴んで持ち上げた。足が浮く。

 重俊が息を呑んだ。


 平井はまだ息があった。血がゆっくりと床に広がっていく。だが、その手は必死に帳面を探している。


「……任されたんだ」


 声が弱々しく落ちた。


「金を……任された」


 指が血の海の中で床を掻く。


「嬉しかったんだ」

「先生の役に立てる」


 顔が歪む。


「でもな……金は下賤だってさ」


 かすかに、笑うような息が漏れた。


「幹部様は、誰も触らねえ」


 血が滴る。


「だから、俺がやった」

「やるしかなかった」


 一度、深く息を吸う。


「何度も言ったんだ」

「足りねえって」

「……聞いてくれよ」


 その時、外から慌ただしい声が飛び込んできた。

「先生がいない!」

「正雪先生が……いない!」


 一瞬、空気が止まった。

 平井の手が、ぴたりと止まった。


「……は?」


 理解が追いつかない顔だった。


「違う」

「違うだろ……」


 声が崩れていく。


「……帳簿は合ってる」

「なぁ……先生」


 一瞬だけ、顔に幼いような光が戻った。


「応えてほしかった」


 そのまま、平井の体がゆっくりと床に伏した。

 動かなくなった。


 静けさを裂くように、吊られたままの男が低く笑った。


「馬鹿な奴だ」

「吉原じゃ散々遊んだくせによ」


 喉を鳴らす。


「所詮長生きできねえな」


 その瞬間、何かが俺の中で切れた。

 俺は前に出ようとした。


「……てめえ」


 光太郎が男の首を掴んだまま、静かに言った。


「もどき」


 重俊が横から俺の腕を掴んだ。


「やめろ。殿に引き渡せ」


 息が荒い。刀の柄に手がかかっている。切っ先がわずかに震えた。

 男はまだ笑っている。


「ほら来た」


 俺は歯を強く食いしばった。

 ゆっくりと刀を下ろし、鞘に収めた。短い金属音が響く。


 誰も動かない。

 俺は一度だけ、平井の亡骸を見た。

 帳面は、血の池の外に落ちていた。血に濡れていない、最後の潔癖さのように。

 俺は視線を切った。


「……行くぞ」


 重俊が静かに頷いた。

 光太郎が男の首を掴んだまま、低く言った。


「連れてく」


 俺たちは後に続いた。

 振り返らなかった。


 だが、背中に残るものだけは、いつまでも消えなかった。

 間に合わなかった、という、冷たい感覚だけが。

 張孔堂の廊下に、血の匂いと、開かれたままの帳面が、静かに残されていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ