第四話 統制の崩壊
朝の長屋は、静かすぎた。
誰も口には出さないが、皆が同じ方角を気にしている。張孔堂の方角だ。空気が張りつめ、言葉が少なく、視線が時折遠くへ泳ぐ。
俺は戸口にもたれ、大きく欠伸をした。
「……気になるな」
「放ってはおけぬ状況だ」
光太郎が外の薄明るい空を見た。
「来てる」
「何がだ」
光太郎は黙って首を小さく横に振った。少し間を置いて、静かに息を吐く。
「……様子見だな」
「うむ。見るだけだ」
「じゃあ行くか」
三人で長屋を出た。
朝の張孔堂は、予想以上に静かだった。
門の前で足を止める。人の出入りはある。だが、声がない。昨日まで響き渡っていた怒鳴り声や槍の音が、どこにも聞こえない。風が門をくぐり抜ける音だけが、妙に大きく感じられた。
俺は頭を掻いた。
「……静かすぎるな」
「落ち着いた、とは違うな」
「だろ。変だ」
光太郎が門の奥をじっと見つめたまま、ぼそりと言った。
「来てる」
俺は眉をひそめた。
「何がだ」
光太郎は答えず、そのまま中へ歩き始めた。
土の匂いに、わずかな腐ったような湿った匂いが混じっている。昨日と同じ場所のはずなのに、空気が重く淀んでいた。
庭に出ると、浪人たちは確かにいた。だが、誰もまとまっていない。槍を持ったまま地面に突き立てて動かない者、壁にもたれかかって目を虚ろに開けている者、ただ座り込んで空を見つめている者。
重俊が低く呟いた。
「揃っておらぬな」
「昨日までは一応形になってたのにな」
光太郎が足元に散らばった砂利を見下ろした。
「散る」
その時、庭の奥で小さな声が上がった。
「足りねえって言ってんだろ……」
椀が地面に叩きつけられる音がした。振り返ると、数人が押し合っている。だが、長く続かない。一人がすぐに肩を落として引くと、それで終わった。
俺は顎で示した。
「また飯か」
「尽きてきておる」
近づくと、地面に広がった粥は水のように薄く、米の影などどこにもない。
俺はしゃがみ込んで、指で少し掬ってみた。
「……これ、もう水だな」
背後から、掠れた声がした。
「ごめんね……」
振り向くと、お咲が立っていた。泣きそうな顔で盆を持っているが、中はほとんど空だった。わずかに残った粥が、底に薄く張りついているだけ。
「配り終わりか」
「最初から、これだけ」
重俊が一歩前に出た。
「米は」
「ないの」
短い言葉だった。声が震えていた。
庭を見渡す。椀を持った浪人たちの顔は、どれも同じだった。怒っているわけでも、笑っているわけでもない。ただ、虚ろに開いている。目に光りがない。
俺は舌打ちした。
「買えねえのか」
「言ったよ」
お咲の声が少し掠れた。
「でも……足りないって」
重俊が静かに言った。
「金が回っておらぬか」
光太郎がお咲をじっと見つめた。
お咲は苦く、力のない笑みを浮かべた。
「減る」
「減ってるどころじゃないよ」
盆を抱き直す手に、力が入る。指の関節が白くなっていた。
「これじゃ……誰も満たせない」
椀を持ったまま立ち尽くす浪人がいた。口をつけるでもなく、ただ中をぼんやりと覗き込んでいる。やがて、何も言わずにそれを地面へ捨てた。音もなく、薄い粥が広がっていく。誰も拾おうとしない。
風が庭を抜けていった。誰もすぐに言葉を継がない。
俺はゆっくり息を吐いた。
「……もう終わりだな」
だが、さっきの連中はもう争っていない。誰かが引くと、それで終わってしまう。
重俊が周りを見回した。
「妙だ」
「何がだ」
「怒りが続かぬ」
俺は眉をひそめた。
「腹減りすぎて、力も出ねえんだろ」
光太郎が首を小さく振った。
「違う、去る」
庭の端で、また小さな言い争いが起きた。
「それは俺の分だ」
「証拠があるのか」
「……もういい、持ってけ」
それで終わった。誰も声を荒げない。俺は顔をしかめた。
「なんだそれ」
「譲ったのではない。諦めたのだ」
俺は肩を落とした。
「そっちの方がやべえな」
風がまた庭を横切った。誰も声を張らない。誰もまとめようとしない。人はいるのに、どこにも芯がなかった。
光太郎がぽつりと言った。
「持たぬ」
「……長くねえな」
重俊が静かに答えた。
「うむ」
俺は踵を返した。
「ここにいても仕方ねえ。戻るぞ」
三人で歩き出す。背後でまた小さな声が上がったが、すぐに風に溶けて消えた。
門を出る直前、俺は一度だけ振り返った。
張孔堂は、まだ立っていた。
だが、中はもう崩れかけていた。
その時、お咲が静かに俺たちの前に立った。盆を胸に抱きしめ、目が赤く腫れている。
「待って。まだ……ここを捨てたくないの」
俺は足を止めた。
お咲は庭の方を振り返り、掠れた声で続けた。
「みんな、最初は夢を見てここに来たの。先生の言葉に救われたって言って……。だから、私、せめて最後まで、ここにいたい」
重俊が静かに息を吐いた。
光太郎は無言でお咲を見つめている。
俺は小さく頭を掻いた。
「……お前、危ねえぞ」
お咲は唇を噛み、首を振った。
「分かってる。でも、逃げたら……私まで、みんなと同じになっちゃう」
風が強く吹いた。お咲の前掛けがはためく。
俺たちは何も言えなかった。
お咲はもう一度、深く頭を下げた。
「ありがとう……様子、見に来てくれて」
それだけ言って、彼女は盆を抱えたまま、ゆっくりと庭の奥へ戻っていった。小さな背中が、風の中でひどく頼りなく見えた。
俺たちは門をくぐり、外へ出た。
朝の陽が、やけに白く見えた。




