表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
29/53

第三話 崩れの兆候

 夜の張孔堂は、昼とはまるで別の場所だった。


 灯りは点いているのに、影が異様に深い。人の気配はあるが、すべての音が遠くに聞こえる。昼間あれほど煮えたぎっていた熱は、どこにも残っていなかった。

 風が庭の砂を撫でる音だけが、妙に大きく響く。門弟の姿もまばらで、残っている者たちは声を潜め、足音を殺して歩いていた。

 俺は廊下の端で立ち止まり、静けさに耳を澄ませた。


「静かすぎるな」


 重俊が庭の暗がりを見つめ、低く答えた。


「昼の熱が引いたのだろう」

「いや、引いたって感じじゃねえ」


 光太郎が本堂の方をじっと見据えた。


「残る」

「何がだ」


 光太郎は答えなかった。その時、奥から一人の若い門弟が出てきた。顔はまだ幼いが、目だけがぎらぎらと異様な光を帯びている。


「先生がお呼びだ」


 俺は重俊と目を合わせた。


「来たな」


 重俊が小さく頷く。


「行くぞ」


 本堂の奥へ通された。昼間は大勢の浪人がひしめいていた広い空間は、今はがらんとしていた。灯りの届く先に、正雪が一人で座っている。距離があるはずなのに、なぜか妙に近く感じられた。


 近づくと、正雪は少し痩せて見えた。いや、顔立ちは変わらない。だが、肩の線や首筋に、静かな疲労が滲んでいるように思えた。

 正雪が三人を静かに見つめた。


「来たか」

「呼ばれたんでね」


 重俊は丁寧に頭を下げた。


「夜分に失礼いたします」


 光太郎は正雪をまっすぐ見つめたまま、淡々と言った。


「静か」


 正雪の口元が、わずかに動いた。


「昼とは違うか」


 俺はその場に腰を下ろし、ゆっくりと息を吐いた。


「違うよ。昼は煮え立ってた。今は鍋の底だ。なのに、火はまだ消えてねえ」


 正雪は少しだけ目を伏せた。


「よく見ている」

「見ねば危うい場ですから」


 短い沈黙が落ちた。外で風が庭の木々を鳴らす音だけが聞こえる。

 俺は先に口を開いた。


「これ、止まりますか?」


 正雪は間を置かず、静かに答えた。


「止まらぬ」

「破滅と分かっていて、それでも進むのですか」


 正雪の視線は揺るがなかった。


「人は、飢えを抱えたままでは戻れぬ」


 光太郎が、感情のこもらない声で言った。


「燃える」


 正雪はその言葉にだけ、小さく頷いた。


「そうだ」

「燃えるのは分かったけどさ。お前、消す気はねえんだろ」


 正雪は俺を静かに見た。


「幕府は私を殺さぬ。いや、殺せぬ」

「なんでだ」

「手を出せば、門弟が仇討ちに走る」

「……数は、おります」


 重俊が低く息を吐いた。正雪は静かに頷いた。


「ゆえに道は残る」


 その言葉が、妙に引っかかった。残る――まるで逃げ道のように聞こえた。


「そういうの、いるよな」


 正雪の視線がわずかに動いた。俺は本堂の外へ顎を向けた。


「でもよ。さっきの連中、見ただろ」


 重俊は何も言わず、目を伏せた。

 俺は続けた。


「腹が減ってたぞ。仇討ちどころじゃねえ。みんな、ただ生きるのに必死だ」


 風の音だけが、廊下を抜けて本堂に届く。光太郎が小声で、しかしはっきりと言った。


「足りぬ」


 正雪の指が、ほんの一瞬だけ止まった。膝の上で、わずかに震えたように見えた。

 正雪は視線を落とし、ほとんど独り言のように呟いた。


「……飢えたままでは、刃も持てぬか」


 誰に言うでもない声だった。

 俺は何も言わなかった。重俊も口を閉じたまま動かない。光太郎が小さく、静かに息を吐いた。


「燃える」


 正雪がゆっくりと顔を上げた。目は変わっていない。だが、さっきまでとは少しだけ違っていた。どこか、静かな諦めと、それでも消えない炎のようなものが混じっていた。


「それでも」


 短く、それだけ言った。それが、彼の答えだった。

 俺は頭を軽く掻いた。


「止まらねえか」


 正雪は答えなかった。ただ、わずかに頷いた。

 重俊が静かに、深く息を吐いた。


「承知の上で、か」


 正雪は何も言わなかった。それが、すべてだった。

 しばらく、誰も動かなかった。

 外で風が鳴り、灯りが揺れる。それだけだった。

 やがて、正雪がゆっくりと立ち上がった。音はしなかった。


 重俊が小さく言った。


「行くぞ」


 俺も立ち上がる。光太郎が最後に、正雪をじっと見つめた。


「終わる」


 正雪は振り向かなかった。本堂の奥へ、そのまま静かに消えていった。


     ◇


 俺たちは外へ出た。

 夜の空気が、少しだけ冷たかった。昼と同じ場所のはずなのに、別の場所のように感じられた。

 俺は大きく息を吐き、空を見上げた。 

「……終わったな」

「いや、始まるのだ」


 光太郎が前を向いたまま、低く言った。


「来る」


 俺は空を見上げた。何も変わっていないように見える。だが、何かがもう、決定的に戻らない気がした。


 足を動かし、長屋へと歩き始めた。

 背中の奥で、まだ何かがゆっくりと動いている気がした。振り返れば見えるのかもしれない。

 だが、見たところで、何も変わるものはないと思った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ