第三話 崩れの兆候
夜の張孔堂は、昼とはまるで別の場所だった。
灯りは点いているのに、影が異様に深い。人の気配はあるが、すべての音が遠くに聞こえる。昼間あれほど煮えたぎっていた熱は、どこにも残っていなかった。
風が庭の砂を撫でる音だけが、妙に大きく響く。門弟の姿もまばらで、残っている者たちは声を潜め、足音を殺して歩いていた。
俺は廊下の端で立ち止まり、静けさに耳を澄ませた。
「静かすぎるな」
重俊が庭の暗がりを見つめ、低く答えた。
「昼の熱が引いたのだろう」
「いや、引いたって感じじゃねえ」
光太郎が本堂の方をじっと見据えた。
「残る」
「何がだ」
光太郎は答えなかった。その時、奥から一人の若い門弟が出てきた。顔はまだ幼いが、目だけがぎらぎらと異様な光を帯びている。
「先生がお呼びだ」
俺は重俊と目を合わせた。
「来たな」
重俊が小さく頷く。
「行くぞ」
本堂の奥へ通された。昼間は大勢の浪人がひしめいていた広い空間は、今はがらんとしていた。灯りの届く先に、正雪が一人で座っている。距離があるはずなのに、なぜか妙に近く感じられた。
近づくと、正雪は少し痩せて見えた。いや、顔立ちは変わらない。だが、肩の線や首筋に、静かな疲労が滲んでいるように思えた。
正雪が三人を静かに見つめた。
「来たか」
「呼ばれたんでね」
重俊は丁寧に頭を下げた。
「夜分に失礼いたします」
光太郎は正雪をまっすぐ見つめたまま、淡々と言った。
「静か」
正雪の口元が、わずかに動いた。
「昼とは違うか」
俺はその場に腰を下ろし、ゆっくりと息を吐いた。
「違うよ。昼は煮え立ってた。今は鍋の底だ。なのに、火はまだ消えてねえ」
正雪は少しだけ目を伏せた。
「よく見ている」
「見ねば危うい場ですから」
短い沈黙が落ちた。外で風が庭の木々を鳴らす音だけが聞こえる。
俺は先に口を開いた。
「これ、止まりますか?」
正雪は間を置かず、静かに答えた。
「止まらぬ」
「破滅と分かっていて、それでも進むのですか」
正雪の視線は揺るがなかった。
「人は、飢えを抱えたままでは戻れぬ」
光太郎が、感情のこもらない声で言った。
「燃える」
正雪はその言葉にだけ、小さく頷いた。
「そうだ」
「燃えるのは分かったけどさ。お前、消す気はねえんだろ」
正雪は俺を静かに見た。
「幕府は私を殺さぬ。いや、殺せぬ」
「なんでだ」
「手を出せば、門弟が仇討ちに走る」
「……数は、おります」
重俊が低く息を吐いた。正雪は静かに頷いた。
「ゆえに道は残る」
その言葉が、妙に引っかかった。残る――まるで逃げ道のように聞こえた。
「そういうの、いるよな」
正雪の視線がわずかに動いた。俺は本堂の外へ顎を向けた。
「でもよ。さっきの連中、見ただろ」
重俊は何も言わず、目を伏せた。
俺は続けた。
「腹が減ってたぞ。仇討ちどころじゃねえ。みんな、ただ生きるのに必死だ」
風の音だけが、廊下を抜けて本堂に届く。光太郎が小声で、しかしはっきりと言った。
「足りぬ」
正雪の指が、ほんの一瞬だけ止まった。膝の上で、わずかに震えたように見えた。
正雪は視線を落とし、ほとんど独り言のように呟いた。
「……飢えたままでは、刃も持てぬか」
誰に言うでもない声だった。
俺は何も言わなかった。重俊も口を閉じたまま動かない。光太郎が小さく、静かに息を吐いた。
「燃える」
正雪がゆっくりと顔を上げた。目は変わっていない。だが、さっきまでとは少しだけ違っていた。どこか、静かな諦めと、それでも消えない炎のようなものが混じっていた。
「それでも」
短く、それだけ言った。それが、彼の答えだった。
俺は頭を軽く掻いた。
「止まらねえか」
正雪は答えなかった。ただ、わずかに頷いた。
重俊が静かに、深く息を吐いた。
「承知の上で、か」
正雪は何も言わなかった。それが、すべてだった。
しばらく、誰も動かなかった。
外で風が鳴り、灯りが揺れる。それだけだった。
やがて、正雪がゆっくりと立ち上がった。音はしなかった。
重俊が小さく言った。
「行くぞ」
俺も立ち上がる。光太郎が最後に、正雪をじっと見つめた。
「終わる」
正雪は振り向かなかった。本堂の奥へ、そのまま静かに消えていった。
◇
俺たちは外へ出た。
夜の空気が、少しだけ冷たかった。昼と同じ場所のはずなのに、別の場所のように感じられた。
俺は大きく息を吐き、空を見上げた。
「……終わったな」
「いや、始まるのだ」
光太郎が前を向いたまま、低く言った。
「来る」
俺は空を見上げた。何も変わっていないように見える。だが、何かがもう、決定的に戻らない気がした。
足を動かし、長屋へと歩き始めた。
背中の奥で、まだ何かがゆっくりと動いている気がした。振り返れば見えるのかもしれない。
だが、見たところで、何も変わるものはないと思った。




