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第二話 綻びの表面

 江戸の町は、いつも通りに見えた。だが、人の目が合わない。


 通りを歩く。この刻限なのに、開けていない店が目立つ。人はいる。声もある。だが、誰もが視線を合わせない。肩を寄せ、足早に歩き、互いに警戒している。空気が重く淀み、湿ったような不快感が肌にまとわりついた。


 俺は歩きながら周囲を見回した。


「……空気、悪いな」


 隣で重俊が腕を組んだまま、低く応じた。


「人が増えすぎている」

「町の許容量を越えておる」


 光太郎が前を向いたまま、感情のこもらない声で言った。


「濁る」

「またそれか」


 光太郎は答えなかった。ただ、淡々と歩を進めている。


 通りの奥に屋台が見えた。人だかりができ、妙な苛立ちが立ち上っている。俺は顎で示した。


「飯だな」


 近づくと、椀を持った浪人が列に無理やり割り込もうとしていた。店主が顔をしかめ、声を荒げる。

 俺は横から椀を覗き込んだ。米粒など見えない。水のように薄い粥だけだった。

 重俊が静かに、しかしはっきりと言った。


「明らかに量が足りぬ」


 光太郎が覗き込み、ぼそりと呟く。


「粒がない」

「水飲ませてるみたいだな」


 店主が怒鳴った。


「順番だ! 押すな!」


 浪人が舌打ちし、声を荒げる。


「これで足りるかよ」

「文句あるなら来るな」

「三千いるんだぞ!」


 声が重なり、後ろからも押される。椀がぶつかり、薄い粥が地面にこぼれた。白い飛沫が、砂利に染み込んでいく。

 俺は一歩引いた。


「もう崩れてるな」


 重俊が目を細めた。


「すでに崩れている」

「抑えが効いておらぬ」


 光太郎が淡々と続けた。


「足りぬ」


 その言葉の直後、椀が地面に落ちた。乾いた音とともに、中身が広がる。

 若い浪人が声を荒げ、店主の胸ぐらを掴んだ。


「ふざけんな! 金を返せ!」


 周りの浪人たちがざわつき、押し合いが始まる。誰かが止めようとして逆に突き飛ばされ、怒声が連鎖した。


 俺は小さく息を吐いた。


「飯でこれかよ」

「飯だからだ」


 重俊が低く答える。


 横目で見ると、押し合いはすぐに殴り合いに変わりつつあった。誰も収めようとしない。飢えが、理性をゆっくりと蝕んでいる。


 人の波から離れ、俺たちは通りをさらに進んだ。

 少し先の路地で、また別のざわめきが聞こえた。今度は女の怒声が混じっている。


「今度は何だ」


 近寄ると、浪人が二人、女を間に挟んで言い争っていた。周りに何人かが集まり、野次を飛ばしている。


「こっちに来いって言ってんだろ」

「離しなって言ってるでしょ!」


 女の腕を強く引く。女が必死に振り払う。


「やめてよ!」


 別の浪人が割り込み、金を要求する。


「金払えよ」

「その女に払ってある」

「あんなはした金で、あたいとやれると思ったのかい」


 押し合いが激しくなり、誰かが後ろから肩を押した。女の足が浮き、倒れそうになる。声が次第に聞こえなくなる。

 俺は顔をしかめた。


「さっきよりひでえな」

「秩序が持たぬ」


 光太郎が人だかりを見つめたまま、静かに呟く。


「混じる」

「そうだな」


 俺は小さく鼻で笑ったが、光太郎は首を小さく振った。


「違う。広がる」


 視線を人だかりに向けたまま、淡々と続ける。

 俺はしばらくその場を眺めていた。止める者はいない。誰も引かない。女はもう声も出さず、押されるままに体を預けている。路地の空気が、腐ったように重かった。


「……やべえな」

「もう止まらぬ」


 重俊が低く言った。

 俺は踵を返した。


「離れるぞ。ここはまずい」

「賢明だ」


 三人で路地を抜ける。背後ではまだ怒声と争う音が続いていた。


 通りに戻ると、さっきより人の動きが荒くなっていた。肩がぶつかるたびに小競り合いが起き、すぐに怒鳴り合いへ変わる。江戸の町が、ゆっくりと歯車を狂わせ始めているようだった。


 俺は歩きながら呟いた。


「妙だな」

「何だ」


 重俊がこっちを見た。

 俺は前を向いたまま言った。


「町ごと荒れてないか?」

「荒れている」

「抑えが効かぬ」


 光太郎が小競り合いを横目で見ながら、短く言った。


「増えた」

「それもう分かった」

「違う」


 光太郎は一歩だけ立ち止まり、淡々と言った。


「崩れる」


 俺は足を止めた。

 通りを見渡す。人はいる。店もある。だが、どこか緩んでいる。歯車が一つ外れ、ゆっくりと崩れ始めている。

 小さく息を吐いた。


「……戻らねえな、これ」

「戻らぬ」


 光太郎が前を見つめたまま、冷たく言った。

「流れる」


 俺はその視線の先を追った。


 人の流れの中に、一人。笑っている男がいた。

 口の端を歪め、目を細め、まるでこの混乱を楽しむように。義賊騒動の時と同じ、底冷えのする笑みだった。

 俺は目を細めた。


「……いたな」

「誰だ」

「あの時のやつだ」

「笑ってた男」


 男は人の流れに紛れ、ゆっくりと消えていく。だが、その笑みだけが、なぜか網膜に焼きついた。

 俺はしばらくその場に立っていた。胸の奥がざらつき、冷たいものが這い上がってくる。


 光太郎が鼻を小さく鳴らした。


「匂う」

「だろうな」


 通りのざわめきが、さっきより一層大きくなっていた。

 まるで、まだ来ていない何かを、町が待っているように。

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