第一話 静寂の異変
張孔堂の朝は、昨日までと同じはずだった。
だが、音が違った。
庭に並んだ浪人たちが、一斉に槍を踏み込む。砂を踏む音が、揃いすぎていた。間も、息遣いも、狂いがない。誰かが怒鳴って合わせているわけではない。ただ、動きが自然に一つにまとまっていた。まるで、すでに一つの軍勢と化しているかのように。
俺は縁側に腰を下ろし、膝に肘を乗せたまま、じっと庭を見つめた。
「……なんか、変だな」
重俊が腕を組み、低く応じた。
「気づいたか」
「あれは稽古ではない」
俺は顎で庭を示した。
「じゃあ何だ」
「兵の訓練だ」
その横で、光太郎が無表情に庭を見据えたまま、ぼそりと言った。
「揃う」
槍がまた一斉に振り下ろされる。乾いた音が、ぴたりと重なった。俺は口の端を歪めた。
「塾じゃねえな」
「最初からそのつもりだったのだろう」
光太郎がわずかに首を傾げた。
「始まっている」
「何がだ」
光太郎は答えなかった。ただ、冷たい視線を庭に固定している。
槍の動きが止まる。号令もなく、浪人たちが一斉に息を吐いた。その統一感が、むしろ不気味だった。
その時、庭の端で声が上がった。
「少ない!」
若い浪人が椀を掲げ、声を荒げている。
「これじゃ足りねえだろ!」
向かいの男が睨み返した。
「文句言うな」
「順番だ」
「足りないのはみな同じだ」
肩がぶつかり、槍を持ったままの押し合いが始まる。重俊が腰を浮かせた。
俺は手を伸ばして制した。
「放っとけ」
「だが――」
「今止めても変わらねえ」
重俊は歯を食いしばったが、ゆっくりと座り直した。
光太郎が静かに首を傾げる。
「増えた」
「お前、なんでも増えるな」
光太郎は首を小さく振った。
「すべて足りない」
その言葉の直後、廊下の向こうから軽い足音が近づいてきた。
盆を抱えたお咲だった。いつもより歩きが重い。肩が落ち、目元に疲れがにじんでいる。
俺は軽く手を上げたが、すぐに言葉を飲み込んだ。
「お、飯か」
「飯じゃないよ」
盆を下ろす。椀の中は、ほんのわずかな粥だけだった。水のように薄い。
俺は椀を覗き込み、思わず声を漏らした。
「……これ、水か?」
「お粥」
お咲は小さく、力のない笑みを浮かべた。
「……薄いの」
俺は椀を持ち上げた。軽すぎる。腹に溜まるはずがない。
「こんなんじゃ腹に溜まらんだろ」
「誰も持たないよ」
「量が足りぬのか」
「お米がないの」
俺は庭に目をやった。さっきの言い争いが、まだ続いている。声が次第に大きくなり、苛立ちが空気に溶けていく。
「買えばいいじゃねえか」
お咲は少し間を置いた。声が弱々しい。
「言ったよ」
そして、ほとんど囁くように続けた。
「でも……無い袖は振れぬって」
「……誰だ、それ」
お咲は迷わず答えた。
「帳場の人。お金のこと、全部見てる人」
俺は小さく舌を鳴らした。
「そいつ……聞いたことあるな」
「金が回っておらぬか」
「回ってないどころじゃねえ」
俺は椀を指で軽く叩いた。
「これ見りゃ分かる」
光太郎が椀を覗き込み、淡々と呟く。
「薄い」
「このままだとね。みんな、怒るよ」
庭でまた声が上がり、椀が転がる乾いた音が響いた。
光太郎が静かに、しかし確かな声で言った。
「もう怒っている」
俺はゆっくり立ち上がった。
「……十分だな」
「何だ」
重俊が見上げる。
俺は肩を回しながら答えた。
「帰る。腹減ってる、金がない、人が増えてる。これで報告には足りる」
重俊は一瞬だけ考え、深く頷いた。
「よかろう」
「出る」
三人で廊下を歩き出す。
背後で怒鳴り声が続き、椀が割れる音が聞こえた。張孔堂の空気が、さっきより明らかに重く淀んでいた。
門へ向かう途中、向こうから二人が歩いてきた。
一人は見覚えのある顔だった。義賊騒動の時、俺たちを見て笑っていた男。もう一人は細身の男で、帳面を抱え、目を伏せたまま歩いている。お咲の言った帳場の人間だろう。
すれ違う瞬間、笑っていた男はこちらを見なかった。
だが俺は足を止めた。
「……おい」
「どうした」
重俊が振り向く。俺は小さく顎で示した。
「あいつ」
「匂う」
笑っていた男は気づかず、奥へ消えていく。帳場の男も顔を上げない。ただ静かに歩いていく。
俺はしばらくその背中を見送り、息を吐いた。
「……ああ、そういうことか」
「何がだ」
俺は肩をすくめた。
「義賊の金だよ。金の行方」
「燃える」
俺は門の外へ出た。振り返らなかった。
「だから、報せる」
◇
柳生屋敷の奥座敷は、いつものように静かだった。
重俊が淡々と報告を続ける。
「兵は整っております。武具の調達も進んでいる様子。だが、兵站が破綻しております。資金が追いついておりませぬ。粥も薄く、門人たちの不満が日増しに高まっております」
宗冬は石のように動かず、黙って聞いている。その視線は重く、座敷の空気を圧しつぶすようだった。
俺は小さく息を吐き、膝を指で軽く叩いた。
「その金蔵に、義賊の金が流れている。ただ足りねえのは、中抜きしてるんだろ」
宗冬の目が、ゆっくりと俺に向いた。冷たい眼光が、肌に突き刺さる。
俺は構わず続けた。
「見た。知った顔の男がいた」
宗冬の声が、低く落ちた。
「誰だ」
「義賊の料亭をはっていた。奴らが逃げる時、笑っていた男だ」
宗冬の指が、ぴたりと止まった。空気が一瞬、重くなる。
「顔は忘れねえ。それで分かった」
「なら、正雪が命じていたのか?」
俺は少し視線を落とした。
「正雪じゃねえと思う。勘なんだが」
「そうか。ならば、首魁は塾におらぬのか?」
「いる。証拠はねえが」
宗冬の眉が、わずかに動いた。その動きだけで、座敷の温度が下がったように感じられた。
「平井藤十郎だ。勘定方だ」
「何故名を知っておる?」
俺は頭を掻きながら、肩をすくめた。
「教えてくれたんだよ。吉原の幽霊が」
重俊の顔が青ざめた。
宗冬は口元をわずかに緩めたが、その笑みは冷たく、底知れなかった。
「あの時か。あの幽霊がのう。他に何も言っておらなんだか?」
「『江戸を守れ』ってな。意味は分からなかった」
宗冬が顎に手を当て、ゆっくりと目を細めた。
「幽霊は座敷で耳にしたのだろう。平井藤十郎と義賊が話していたのを」
「だろうな」
「しかし、それだけでは、幕府が動く証拠にならぬ」
重い静寂が落ちた。
光太郎が、感情のこもらない声で短く言った。
「欲が集まる」
宗冬の視線が、光太郎に移った。その圧は、まるで刃物のように鋭く、重かった。座敷の空気が、張りつめた糸のように緊張する。
宗冬はゆっくりと息を吐き、低く、しかし確かな声で言った。
「欲が、か……」
その一言だけで、報告は終わった。宗冬の視線は、俺たち三人を貫き、遠く張孔堂の崩れゆく気配を、すでに捉えているようだった。




