第五話 火種の拡散
由井正雪は、遠目から見た時よりずっと若かった。
本堂の奥の襖が静かに開き、彼が姿を現した瞬間、浪人たちが一斉に頭を垂れた。本堂の空気が、すっと引き締まる。咳払い一つ聞こえない。まるで息を潜めているかのようだった。
俺たちも周りに倣って腰を下ろした。板敷きの冷たさが膝に染みた。
重俊が声を潜めて呟いた。
「若いな……」
「三千を抱えてる顔には見えねえよ」
光太郎が本堂全体をゆっくり見渡し、ぼそりと言った。
「静か」
確かにその通りだった。正雪は怒鳴りもせず、威圧もしていない。ただ座っただけで、本堂に満ちていたざわめきが自然に消えていく。
正雪は一度だけ、門人たちを静かに見回した。それから、穏やかでよく通る声で話し始めた。
「武士の世でありながら、武士が飢える。主家を離れ、行き場を失い、剣を持ちながら糧を得られぬ。それは乱れである」
言葉が、すっと胸の奥まで入ってくる。ただ確かな響きがあった。
正雪はゆっくりと続ける。
「武とは、人を斬るためだけにあるのではない。世を支え、国を守り、乱れを正すためにある。にもかかわらず、今の世は武士にその役目を与えぬ」
本堂のあちこちで、浪人たちが小さく頷いていた。誰も口を挟まない。ただ、言葉を一つ一つ呑み込むように聞いている。
俺は腕を組んで低く呟く。
「宗教だな」
「軽々しく言うな。だが……ただの兵法ではない」
重俊が顔をしかめる。
光太郎がわずかに首を傾げた。
「熱」
「またそれかよ」
光太郎は正雪をじっと見つめたまま、短く言った。
「大きい」
正雪の声は変わらず穏やかだった。
「人は、腹が減れば怒る。怒りはやがて刃になる。だが刃は振るうだけでは足りぬ。何のために振るうか、それを知らねばならぬ。そして、やがて世を焼く火となる。火に罪はない。ただ燃えるだけだ」
その言葉で、本堂の空気がさらに変わった。門人たちの目に、さっきまでなかった熱が宿り始める。一人残らず、正雪の顔を食い入るように見つめていた。
重俊が低く言う。
「人気ではないな」
「じゃあ何だよ」
俺は小さく笑った。
重俊は正雪から目を離さずに答えた。
「信仰だ」
その横で、光太郎が膝の上の手をぎゅっと握りしめた。
◇
講義が終わると、本堂に張りつめていた空気が少しだけ緩んだ。門人たちが一斉に長い息を吐き、肩の力を抜く。
「やっと終わった……」
「終わってはおらぬ。あれは人を動かす声だ」
光太郎が顎をわずかに動かした。
「見ている」
「誰がだよ」
光太郎は答えず、ただ正雪の方を見ていた。
俺もそちらに目をやると、正雪はまだ座を立っていない。門人全体ではなく、まっすぐ俺たちに視線を向けていた。
本堂の門人たちが立ち上がり始め、外へ流れていく。さっきまでの重い静けさが嘘のように、廊下に話し声が広がり始めた。
俺は膝を軽く叩いて立ち上がった。
「終わった終わった。腹減った」
「お前、もう少し真面目に聞け」
「聞いてたよ。腹減ったって話だろ?」
重俊が深いため息をつく。
「そこだけ拾うな……」
光太郎が小さく呟いた。
「見ている」
「だから誰がだよ」
光太郎は顎を軽くしゃくった。
「先生」
見ると、正雪はまだ座ったままだった。門人たちが次々と外へ出ていく中、あの男だけが動かない。
◇
そして――
「そこの三人」
静かで、よく通る声が飛んできた。
俺は思わず振り向いた。
「俺ら?」
正雪が小さく頷いた。
「少し話そう」
周りの浪人たちがちらりとこちらに視線を向ける。新入りが直接呼ばれるのは珍しいらしい。
重俊が声を潜めて俺の袖を引いた。
「章吉」
「なんだ」
「粗相するなよ」
「俺がするみたいに言うな」
光太郎がぽつりと横から言った。
「する」
「お前は黙ってろ!」
俺たちは本堂の奥へ歩み寄った。
正雪は膝の前で手を組んだまま、静かに俺たちを見つめている。近くで見ると、やはり若い。
だが目だけが妙に深く、落ち着いていた。
「長屋の者だな」
「分かるんですか」
正雪はゆっくりと見回した。
「歩き方で分かる。三人とも、剣で食ってきた足ではない」
「飯で生きてきた足です」
俺が答えると、正雪の口元がわずかに緩んだ。
「それが普通だ」
重俊が一歩進み、丁寧に頭を下げた。
「失礼を。浅草の長屋に身を寄せております。訳あって、しばらく江戸に滞在しております」
「長屋はよい。腹が減る声が聞こえる」
「そりゃ聞こえますよ。腹減ってるんだから、毎日うるさいんです」
「腹減っている」
光太郎が真顔で繰り返した。
正雪の目が、初めて光太郎に留まった。
「お前には見えるか」
「匂う」
重俊が小さく息を吐き、慌てて庇う。
「この者は時々、妙なことを申します。ご容赦を」
正雪は静かに首を振った。
「妙ではない。火はいつも、人から始まる」
「火事は御免ですよ。江戸がまた燃えたら大変だ」
正雪がこちらを見て、穏やかに答えた。
「火事ではない。世の火だ」
「……世を焼く火でございますか」
正雪は小さく笑った。
「焼くかどうかは、人が決める。火はただ燃えるだけだ」
その時、光太郎がぼそりと、しかしはっきりと言った。
「燃えるだけなら、最初から燃やさなければいい」
正雪の動きが、ぴたりと止まった。
彼は光太郎をまっすぐ見つめたまま、口を開きかけた。だが、次の言葉が出てこない。
光太郎はさらに、淡々と続ける。
「人が決めるなら、燃やさない人間がいれば済む。火を起こす人間がいるから燃える。火そのものに罪はないと言うなら、火を起こす人間に罪がある」
彼は光太郎の冷たい瞳を真正面から受け止められず、視線をわずかに逸らした。
言葉を探すように唇が動いたが、何も出てこない。口ごもり、喉が上下する音が、静かな本堂に小さく響いた。
一瞬、本堂の空気が重くなった。
正雪は視線をわずかに逸らし、ゆっくりと息を吐いた。まるで予想外の正論を突きつけられたように、指先が膝の上で軽く震えた気がした。
「……そうだな」
彼は低く呟き、すぐに話題を変えるように立ち上がった。声にわずかな乱れが残っていた。
「三人とも、面白い顔をしておる」
「どんな顔です?」
俺は目を細めた。
正雪は静かに、しかし少し早口で続けた。
「世の流れを、まだ信じていない顔だ」
俺は少しだけ黙る。
正雪はもう背を向け、奥の襖の方へ歩き始めている。
「また会うこともあろう。江戸は狭い」
そう言い残し、彼は静かに本堂の奥へ消えた。
◇
俺たちは外へ出た。
庭にはまだ槍が立てかけられたままだった。朝の稽古で踏み固められた砂が、草履の裏でざりざりと鳴る。
俺は空を見上げて大きく息を吐いた。
「なんか疲れたな……」
重俊が低く言う。
「大きい男だ」
「そうか?」
「器がな」
光太郎の視線は、張孔堂の建物から一向に動かない。
「燃える」
「まだ言うかよ」
光太郎は屋根の先を見上げた。
「近い」
「火事なら勘弁してくれ」
光太郎は首を小さく振った。
「違う」
「じゃあ何だよ」
光太郎の視線が、遠くの空の方へ向いた。
「戦」
俺は黙った。風が冷たく、庭の砂を軽く舞わせていた。




