表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
26/52

第五話 火種の拡散

 由井正雪は、遠目から見た時よりずっと若かった。


 本堂の奥の襖が静かに開き、彼が姿を現した瞬間、浪人たちが一斉に頭を垂れた。本堂の空気が、すっと引き締まる。咳払い一つ聞こえない。まるで息を潜めているかのようだった。


 俺たちも周りに倣って腰を下ろした。板敷きの冷たさが膝に染みた。

 重俊が声を潜めて呟いた。


「若いな……」

「三千を抱えてる顔には見えねえよ」


 光太郎が本堂全体をゆっくり見渡し、ぼそりと言った。


「静か」


 確かにその通りだった。正雪は怒鳴りもせず、威圧もしていない。ただ座っただけで、本堂に満ちていたざわめきが自然に消えていく。


 正雪は一度だけ、門人たちを静かに見回した。それから、穏やかでよく通る声で話し始めた。


「武士の世でありながら、武士が飢える。主家を離れ、行き場を失い、剣を持ちながら糧を得られぬ。それは乱れである」


 言葉が、すっと胸の奥まで入ってくる。ただ確かな響きがあった。

 正雪はゆっくりと続ける。


「武とは、人を斬るためだけにあるのではない。世を支え、国を守り、乱れを正すためにある。にもかかわらず、今の世は武士にその役目を与えぬ」


 本堂のあちこちで、浪人たちが小さく頷いていた。誰も口を挟まない。ただ、言葉を一つ一つ呑み込むように聞いている。

 俺は腕を組んで低く呟く。


「宗教だな」

「軽々しく言うな。だが……ただの兵法ではない」


 重俊が顔をしかめる。

 光太郎がわずかに首を傾げた。


「熱」

「またそれかよ」


 光太郎は正雪をじっと見つめたまま、短く言った。


「大きい」


 正雪の声は変わらず穏やかだった。


「人は、腹が減れば怒る。怒りはやがて刃になる。だが刃は振るうだけでは足りぬ。何のために振るうか、それを知らねばならぬ。そして、やがて世を焼く火となる。火に罪はない。ただ燃えるだけだ」


 その言葉で、本堂の空気がさらに変わった。門人たちの目に、さっきまでなかった熱が宿り始める。一人残らず、正雪の顔を食い入るように見つめていた。

 重俊が低く言う。


「人気ではないな」

「じゃあ何だよ」


 俺は小さく笑った。

 重俊は正雪から目を離さずに答えた。


「信仰だ」


 その横で、光太郎が膝の上の手をぎゅっと握りしめた。


     ◇


 講義が終わると、本堂に張りつめていた空気が少しだけ緩んだ。門人たちが一斉に長い息を吐き、肩の力を抜く。


「やっと終わった……」

「終わってはおらぬ。あれは人を動かす声だ」


 光太郎が顎をわずかに動かした。


「見ている」

「誰がだよ」


 光太郎は答えず、ただ正雪の方を見ていた。

 俺もそちらに目をやると、正雪はまだ座を立っていない。門人全体ではなく、まっすぐ俺たちに視線を向けていた。


 本堂の門人たちが立ち上がり始め、外へ流れていく。さっきまでの重い静けさが嘘のように、廊下に話し声が広がり始めた。

 俺は膝を軽く叩いて立ち上がった。


「終わった終わった。腹減った」

「お前、もう少し真面目に聞け」

「聞いてたよ。腹減ったって話だろ?」


 重俊が深いため息をつく。


「そこだけ拾うな……」


 光太郎が小さく呟いた。


「見ている」

「だから誰がだよ」


 光太郎は顎を軽くしゃくった。


「先生」


 見ると、正雪はまだ座ったままだった。門人たちが次々と外へ出ていく中、あの男だけが動かない。


     ◇


 そして――


「そこの三人」


 静かで、よく通る声が飛んできた。

 俺は思わず振り向いた。


「俺ら?」


 正雪が小さく頷いた。


「少し話そう」


 周りの浪人たちがちらりとこちらに視線を向ける。新入りが直接呼ばれるのは珍しいらしい。

 重俊が声を潜めて俺の袖を引いた。


「章吉」

「なんだ」

「粗相するなよ」

「俺がするみたいに言うな」


 光太郎がぽつりと横から言った。


「する」

「お前は黙ってろ!」


 俺たちは本堂の奥へ歩み寄った。

 正雪は膝の前で手を組んだまま、静かに俺たちを見つめている。近くで見ると、やはり若い。

 だが目だけが妙に深く、落ち着いていた。


「長屋の者だな」

「分かるんですか」


 正雪はゆっくりと見回した。


「歩き方で分かる。三人とも、剣で食ってきた足ではない」

「飯で生きてきた足です」


 俺が答えると、正雪の口元がわずかに緩んだ。


「それが普通だ」


 重俊が一歩進み、丁寧に頭を下げた。


「失礼を。浅草の長屋に身を寄せております。訳あって、しばらく江戸に滞在しております」

「長屋はよい。腹が減る声が聞こえる」

「そりゃ聞こえますよ。腹減ってるんだから、毎日うるさいんです」

「腹減っている」


 光太郎が真顔で繰り返した。

 正雪の目が、初めて光太郎に留まった。


「お前には見えるか」

「匂う」


 重俊が小さく息を吐き、慌てて庇う。


「この者は時々、妙なことを申します。ご容赦を」


 正雪は静かに首を振った。


「妙ではない。火はいつも、人から始まる」

「火事は御免ですよ。江戸がまた燃えたら大変だ」


 正雪がこちらを見て、穏やかに答えた。


「火事ではない。世の火だ」

「……世を焼く火でございますか」


 正雪は小さく笑った。


「焼くかどうかは、人が決める。火はただ燃えるだけだ」


 その時、光太郎がぼそりと、しかしはっきりと言った。


「燃えるだけなら、最初から燃やさなければいい」


 正雪の動きが、ぴたりと止まった。

 彼は光太郎をまっすぐ見つめたまま、口を開きかけた。だが、次の言葉が出てこない。


 光太郎はさらに、淡々と続ける。


「人が決めるなら、燃やさない人間がいれば済む。火を起こす人間がいるから燃える。火そのものに罪はないと言うなら、火を起こす人間に罪がある」


 彼は光太郎の冷たい瞳を真正面から受け止められず、視線をわずかに逸らした。

 言葉を探すように唇が動いたが、何も出てこない。口ごもり、喉が上下する音が、静かな本堂に小さく響いた。


 一瞬、本堂の空気が重くなった。

 正雪は視線をわずかに逸らし、ゆっくりと息を吐いた。まるで予想外の正論を突きつけられたように、指先が膝の上で軽く震えた気がした。


「……そうだな」


 彼は低く呟き、すぐに話題を変えるように立ち上がった。声にわずかな乱れが残っていた。


「三人とも、面白い顔をしておる」

「どんな顔です?」


 俺は目を細めた。

 正雪は静かに、しかし少し早口で続けた。


「世の流れを、まだ信じていない顔だ」


 俺は少しだけ黙る。

 正雪はもう背を向け、奥の襖の方へ歩き始めている。


「また会うこともあろう。江戸は狭い」


 そう言い残し、彼は静かに本堂の奥へ消えた。


     ◇


 俺たちは外へ出た。

 庭にはまだ槍が立てかけられたままだった。朝の稽古で踏み固められた砂が、草履の裏でざりざりと鳴る。

 俺は空を見上げて大きく息を吐いた。


「なんか疲れたな……」


 重俊が低く言う。


「大きい男だ」

「そうか?」

「器がな」


 光太郎の視線は、張孔堂の建物から一向に動かない。


「燃える」

「まだ言うかよ」


 光太郎は屋根の先を見上げた。


「近い」

「火事なら勘弁してくれ」


 光太郎は首を小さく振った。


「違う」

「じゃあ何だよ」


 光太郎の視線が、遠くの空の方へ向いた。


「戦」


 俺は黙った。風が冷たく、庭の砂を軽く舞わせていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ