第四話 広がる不穏
張孔堂の朝は、異様に早かった。
日がまだ高くならないうちから、庭では木刀の打ち合う音が響き渡り、槍を振る風切り音、怒鳴り声、砂利を踏みしめる足音が絶えなかった。元が古い寺の境内とは思えない、荒々しい騒がしさだ。
俺は縁側に腰を下ろし、湯呑みを傾けていた。茶はぬるく、味気ない。朝から酒を飲むわけにもいかず、仕方なく口に含む。
庭では浪人たちが列をなし、槍を肩に担いで同じ動きを繰り返している。動きに乱れがない。一糸乱れぬ統制だった。
俺は顎でその光景を示した。
「塾か、これ?」
「拙者の知る兵法塾とは、様子が違う。あれでは軍の訓練だ」
重俊が腕を組み、眉を寄せて言った。
槍が一斉に振り下ろされる。乾いた音が、ぴたりと揃った。
光太郎が庭を見たまま、ぼそりと呟く。
「軍」
俺は茶をすすりながら、肩をすくめた。
「やっぱりそう見えるか」
重俊がさらに眉をひそめる。
「三千の浪人と聞いたが……冗談ではなかったな」
「三千って、飯はどうしてんだよ」
俺は庭の長い列を見渡しながら言った。重俊が即座に突っ込む。
「まずそこを気にするのか、お前は」
「大事だろ。腹減った軍なんて三日で崩れるぜ」
俺は湯呑みを置いて肩をすくめた。
光太郎がぽつりと言う。
「粥」
「なんで知ってるんだよ」
光太郎は庭の奥を指差した。
「匂い」
重俊が鼻をひくつかせ、目を細める。
「……確かに。奥から炊き出しの匂いがするな」
「ほらな。飯の話は大事なんだって」
俺が得意げに言うと、重俊が深いため息をついた。
「お前の頭の中は常に飯だな……」
光太郎が無表情で続けた。
「章吉」
「なんだ」
「餓鬼……もどき」
「余計なお世話だ!」
俺は軽く頭を叩かれたような気がして、思わず声を上げた。重俊がくすっと笑いを漏らす。
庭では浪人たちがまだ槍を振り続けている。顔つきが違う。目がぎらついている者、ただ機械のように動く者。腹の底に何かを溜め込んでいるような気配があった。
俺は立ち上がりながら言った。
「しかしあれだな」
重俊を見る。
「塾ってより、もう戦の準備だろ」
「拙者もそう思う。統制が取れすぎている」
光太郎が短く言った。
「隊」
「お前は一言で終わるな」
光太郎は首を傾げた。
「足りぬか」
「いや、足りてるよ。十分だ」
その時、庭の端で若い浪人と中年の浪人の言い争いが始まった。
「先生は言ったんだ。武士が飢える世は間違っているってな!」
「綺麗事だ。食えなきゃ畑でも耕せ」
中年の浪人が鼻で笑う。若い浪人が目を吊り上げた。
「武士が土いじりか。そんな世はもう終わってる」
「終わってるのはお前の頭だ」
重俊が小さく息を吐いた。俺は頭を掻きながら呟く。
「危ういな……」
「腹減ってりゃ誰でも怒るさ」
光太郎が二階の窓を見上げながら、静かに言った。
「匂う」
「またそれか。何が匂うんだよ」
光太郎は庭全体を見渡した。
「熱」
重俊が腕を組み直す。
「……確かに妙な熱気がある」
「火事にならなきゃいいけどな」
「火」
俺は思わず笑った。
「江戸は毎日どこか燃えてるだろ」
光太郎は首を小さく振った。
「違う」
「じゃあ何だよ」
「まだ小さい」
重俊が庭の奥に目を凝らす。
「……火種か」
その時、背後から明るい声がした。
「新入り、暇?」
振り向くと、お咲が立っていた。
昨日と同じように島田髷に格子の着物、前掛けをかけ、襷で袖を留めている。盆に湯呑みをいくつか乗せていた。
俺は軽く手を上げた。
「暇だぜ」
「お前はいつも暇そうだな」
お咲がくすくす笑う。
「先生の話、今夜あるよ」
俺は首をかしげた。
「話?」
お咲が頷きながら盆を差し出す。
「講義。みんな楽しみにしてるの」
庭では浪人たちがまだ槍を振っている。俺は湯呑みを受け取りながら言った。
「人気者だな、その先生」
お咲は少し誇らしげに微笑んだ。
「だって先生の話を聞くとね、みんな元気になるのよ」
光太郎がぼそりと言う。
「変だ」
「何がだよ」
光太郎は庭の奥、二階の窓を見ていた。
「見られている」
俺もその視線の先を追った。
境内の奥、二階の窓が一つ開いている。そこに、人影があった。
由井正雪だ。
じっと、こちらを凝視している。
「あれが先生か……」
お咲が振り向いて頷く。
「うん。由井先生」
「遠目でも分かる。あれが三千の浪人を集める男か」
俺は窓を見上げたまま、肩をすくめた。
「怒鳴りもしないのに、なんか偉そうだな」
「先生は怒鳴らないよ。怒るところなんて見たことない」
お咲が穏やかに言う。
俺は鼻で笑った。
「それで三千の浪人を集めるんだから大したもんだぜ」
光太郎が静かに続ける。
「見ている」
「だから見てるって言ってるだろ」
光太郎は首を振った。
「違う」
「何が違う」
光太郎は短く、はっきりと言った。
「我ら」
俺は少し黙った。
もう一度窓を見上げる。庭は広い。浪人も多い。だが、あの男の視線は、まっすぐこちらに向けられていた。まるで他の者など眼中になかったかのように。
「新入りを見てるだけだろ」
お咲が盆を持ち直しながら、明るく言う。
「先生、よく見てるよ。門人の顔、ちゃんと覚えるの」
重俊が腕を組んだまま、低く呟く。
「三千の顔を、か……」
「うん」
お咲は平然と頷いた。
「先生、そういう人なの」
「そりゃすげえ……」
その時、庭の方から声が上がった。
「おい、新入り!」
浪人の一人が手を振っている。
「講義の準備だ! 本堂へ来い!」
「ほら、始まるよ」
お咲が軽く手を振って去っていく。
俺は立ち上がった。
「講義ねぇ……」
「聞いておくべきだろう。敵を知るのは大事だ」
重俊が真面目に言う。
「だな。寝なきゃいいけど」
「眠くない」
光太郎が即答した。
俺は笑いながら肩を叩く。
「お前はな」
槍を持った浪人たちも、次々と本堂の方へ集まり始めていた。さっきまでの激しい稽古の音が、少しずつ遠ざかっていく。
人の流れに混じりながら、俺は背中越しに言った。
「人気者だな、先生」
「人気ではない」
「じゃあ何だよ」
「信仰だ」
俺は盛大に苦笑した。
「宗教かよ……」
「火」
俺は振り向いた。
「またそれかよ!」
光太郎は庭の奥をじっと見つめながら、静かに言った。
「広がる」
俺は肩をすくめた。
「江戸は毎日何か広がってるさ」
本堂の前に着くと、門弟たちが次々と座り始めていた。俺たちも適当な場所に腰を下ろす。
その時だった。
本堂の奥の襖が、静かに開いた。
浪人たちのざわめきが、ぴたりと止まる。
足音が一つ。
由井正雪が、ゆっくりと姿を現した。




