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第三話 張孔堂の三人

 張孔堂は神田連雀町。その一角だけ、空気が違った。


 通りは賑やかで、魚を売る声や笑い声が絶えない。荷を運ぶ者、立ち話をする女たち、いつもの江戸が流れていた。


 だが一歩外れると空気が変わる。町家が途切れ、古びた道場や長屋が並び、浪人の姿が目立つ。腰に刀を差したまま、行き場もなく立つ者もいる。


 同じ町のはずなのに、境を越えた途端、別の場所に来たようだった。

 重俊が足を止め、門の先を見た。


「ここか……張孔堂」


 古びた門の上に、木の看板が掛かっている。

 張孔堂――墨の字は新しい。だが建物は古い寺らしい。

 門の内外を浪人が出入りしている。

 木刀を担いだ者、巻物を抱えた者、槍を持つ者。道場というより、どこか兵の集まりのように見えた。


 俺はしばらく様子を見る。


「道場にしちゃ、人が多すぎるな」


 重俊が門の中を見ながら答える。


「拙者もそう思う。町道場なら、せいぜい数十人だ」


 その時、光太郎が静かに言った。


「三百はいる」


 俺は眉を上げた。


「門の前だけでか」


 光太郎は首を振る。


「奥にもっといる」


 俺は門の奥を見る。

 確かに、稽古場らしい建物の影で人が動いている。木刀がぶつかる音も聞こえる。

 重俊が小さく息を吐いた。


「三千と言っていたな」

「塾じゃねぇ。軍だ」


 俺は肩をすくめる。


 門の横に立っていた若い浪人が、こちらを見た。俺たちをじろりと見て、声を掛けてくる。


「門弟か」


 俺は一歩前に出た。


「今日からだ。入りてぇと来てみた」


 浪人は腕を組み、三人を見比べた。

 しばらくして、顎をしゃくる。


「入るなら名を言え」


 重俊が静かに答える。


「名は重俊。江戸へ流れてきた浪人だ」

「章吉。剣で食える口を探してる」


 俺は続ける。

 光太郎は門の中を見たまま言った。


「光太郎。兵法を学びたい」


 浪人は三人を見て、小さく笑った。


「ちょうどいい。今日も門弟を取る日だ」


 そう言うと門を開ける。


「中へ来い。腕くらいは見てやる」


 俺たちは顔を見合わせた。

 重俊が小さく言う。


「思ったより簡単だな」


 俺は門をくぐりながら答える。


「人を集めてぇんだろ」


 門の内側へ入った瞬間、空気が変わった。

 広い庭だった。

 そのあちこちで浪人たちが稽古をしている。木刀が打ち合う音、槍を振る音、怒鳴り声。


 光太郎がゆっくり周囲を見渡した。


「隊だ」

「兵法塾だろ」


 俺は小さく笑う。

 光太郎は首を振った。


「違う。隊になる」


 重俊が稽古場の奥を見る。

 そこでは、十人ほどの浪人が列を作って槍を振っていた。

 まるで軍の訓練のようだ。


 重俊が低く言う。


「……これは」

「面白くなってきた」


 俺は鼻で笑う。

 その時、門弟が木刀を三本放った。


「新入り。まずは腕を見せろ」


 木刀が俺の足元で止まる。

 俺は拾い上げる。


 そして、ふと気づいた。


 稽古場の奥。

 二階の窓の側に、一人の男が立っていた。

 背は高くない。だが姿勢がよく、静かな気配があった。怒鳴るわけでも、威圧するわけでもない。ただそこに立っているだけで、庭の空気が少し締まる。


 門弟が木刀を構える。


「まず一人」


 俺は前へ出た。

 木刀を軽く振り、重さを確かめる。門弟も木刀を上げた。

 次の瞬間、打ち込んでくる。速いが、剣筋は粗い。俺は半歩ずらし、木刀を払う。乾いた音が庭に響いた。

 門弟の手が止まる。

 俺は木刀を肩に乗せた。


「こんなもんか」


 門弟は目を細める。

 今度は真面目に構え直した。


「もう一度だ」


 二度目は少し重かった。

 だが、三手で終わる。俺の木刀が門弟の胸に止まった。

 周りの浪人たちがざわめく。


 門弟はしばらく黙っていたが、やがて木刀を下ろした。


「……通れ」

「最初からそう言え」


 重俊が前へ出る。

 門弟は改めて木刀を構えた。二人の木刀がぶつかる。重俊の剣は真っ直ぐだった。迷いがない。数手で門弟の木刀が弾かれる。

 門弟は苦笑した。


「次」


 光太郎が前へ出る。

 木刀を片手で持ったまま、しばらく動かない。門弟が踏み込む。

 その瞬間、光太郎の木刀が動いた。

 軽い音。だが、門弟の木刀が宙に跳ねる。庭が静かになった。浪人たちの目が光太郎に集まる。

 門弟は落ちた木刀を拾おうとするが、指がうまく動かない。


「……悪くない。今日から門人だ。奥の宿舎を使え」


 重俊が小さく息を吐いた。


「思ったより早かったな」


 俺は庭を見渡す。

 浪人たちはもう稽古に戻っていた。だが、さっきより視線がこちらに集まっている。


「新入り?」


 明るい声が聞こえた。

 三人が揃って振り向く。

 茶の盆を持った娘が立っていた。


 年は十七、八ほど。

 島田髷に結った髪、格子の着物の上に前掛けを掛けている。袖は襷で留めてあり、動きが軽い。


 娘は俺たちを見て笑った。


「さっきの稽古、見てたよ。強いじゃない」


 重俊が戸惑った顔をする。


「その……あなたは」


 娘は盆を持ち直す。


「お咲。近くの茶屋にいるの」


 庭の浪人が声をかける。


「お咲、こっちにも茶!」

「今行く!」


 お咲は軽く答え、盆を差し出した。


「新入りでしょ。疲れたでしょ。飲んで」


 湯のみを受け取りながら、俺は聞いた。


「ここはいつもこんな感じか」


 お咲は肩をすくめる。


「最近はね。浪人がどんどん増えるから」


 重俊が茶を飲みながら言う。


「皆、兵法を学びに来ているのか」

「兵法もあるけど…… 帰る場所、ない人ばっかりだから」


 お咲は少し笑った。盆を抱え直し、庭を見渡す。


「ここに来ると、皆少し安心するの」


 光太郎が庭を見る。

 槍の列。木刀の音。浪人たちの声。

 静かに言った。


「数が多い」

「そう。先生のところには人が集まるの」


 重俊が聞く。


「先生とは」


 お咲は稽古場の奥を見上げた。


「あそこ」


 二階の窓だ。さっきの男がまだ立っている。


 お咲が言った。


「由井先生」


 その男は、静かに俺たちを見ていた。

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